支配する女 (1)
次の日、朝早くから伯母は出かけて行ってしまった。愛人がさっさと帰ってしまったことで、屋敷に滞在する気もなくしたようだ。
伯母が出て行っても、エルザは開放されなかった。
木に縛られた彼女はほとんど身動きすることもなく、死んでいるのではないかと疑う者もいたが、誰も確かめにはいかなかった。関わるのが恐ろしいのだろう。一緒に腰巾着をしていた連中も、彼女のために何かしてやるつもりはないようだ。
マリアはあの女がどうなろうとどうでもよかった。それよりも気になったのは、他の召使いたちの態度だ。
エルザがいなくなったことで、小さくなっていた召使いたちが自由に振る舞い出したのは何もおかしなことではない。それはいいのだが、やたらとマリアに近づいてくる人間が増えた。しかも男ばかり。
屋敷には男も働いていたのだが、ほとんどがマリアたちを無視し、いない者のように扱っていた。いとこたちに目をつけられているからと考え、気にも留めていなかったのだが。
……なぜか、マリアの仕事を横取りしたがる。率先してマリアがやろうとした仕事を引き受けたがるのだ。
やることがなくなってしまったマリアが呆然としていると、ベルダは得心がいったように頷いていた。
「少しでもお近づきになりたいんでしょう。いま屋敷にはうるさくする人がいませんから。お嬢様が帰ってくるまでのチャンスなので、必死にアピールしてるんですよ」
仕事がなくなってしまったマリアは、とりあえず帰って来たおじを出迎えることにした。
マリアの姿を見て、おじも目を丸くする。
「え……あ、マリアなのかい?いや、これは……驚いたな……クリスティアン様に似ていると思っていたが、そういう格好だとスカーレット様にも劣らず美しいよ。本当に……」
「おじ様」
スカートを履いたぐらいでこの反応をされると何とも複雑な気分だが、マリアは世辞を適当に受け流した。
「お話しなければならないことがあるのです。エルザという侍女のことなのですが……」
マリアからエルザのことを聞いたおじは、真っ青な顔で裏庭に飛んで行った。
「何してるんだ!早く彼女を開放して、医者を呼べ!ローズマリーが怖かったって……彼女が出て行っているのなら助ければいいだろう!?」
おじがエルザを助けているのを眺めていると、ベルダが不満そうな顔でマリアのところへ寄ってくる。
「なんで助けるんですか?別にあんな人、死んだっていいのに」
「おじ様のひととなりを確かめたかったのよ。おじ様もあの女を平然と見捨てられる人間なのか、打算込みであったとしても助けるのか。いとこのことは止めたけれど、伯母様のことは見て見ぬふりする人だったら困るもの」
愛人の浮気にあの反応なら、夫に他の女が近づいたときに伯母がどんな行動に出るか。
普段はおじを蔑ろにしているとしたとしても、だから夫の女性関係に興味がないということはないだろう。おじに近づくのなら、その危険は考慮しなければならない。
だから、おじの善良さは確認しておく必要があった。
オフェリアを狙ういとこもいない、腰巾着共もリーダー役を失って大人しい、おまけにマリアの仕事は男たちに取られてしまう。
――暇だ。
オフェリアやナタリアを手伝おうかとも考えたが、オフェリアにはベルダがついているし、余計な邪魔さえ入らなければナタリアは一人で完璧に家事をこなしてしまう。
どうしたものかと屋敷の中を見回っていたら、書斎からおじの悲痛な声が聞こえてきた。
「あぁ、やってしまった……」
ノックをして部屋に入ってみれば、床に広がる書類を見ておじがうなだれている。
ガーランド商会でも、こんな光景を見たような……。
「おじ様、どうかなさいましたか?傍目にもはっきりわかるほど、お困りのようですが」
「手が当たって、間違って机の上にまとめておいた書類を落としてしまったんだ。はあ……」
溜息をつくおじとともにマリアも書類を拾う。
文章は走り書きで、補足のようなメモがいくつも書き込まれていた。おそらく下書きのままなのだろう。
これぐらいなら……。
「もしよければ、私が清書して整理しておきましょうか?しばらく商人のもとで生活をしていたので、書類整理ぐらいなら少しは力になりますよ。どこまでお役に立てるかはわかりませんが」
「本当かい?正直言って助かるよ。それを整理していたら、今日の分の仕事が終わらない」
公爵家に来てからも、この手の仕事をすることになるとは思わなかった。
多様な言語が飛び交っていた商会の書類よりはやりやすい。書類を書いている人間も一人のようだから、文章の癖も少ない……。
「あの、おじ様。立ち入ったことをお聞きして申し訳ないのですが、この屋敷には執事などはいないのですか?」
父親のことを思い出しながら、マリアが尋ねた。
どうやら領地の調査や調書などをおじが一人でこなしているようなのだが、こういったことは部下にやらせるのが普通なのではないだろうか。そもそも、マリアがこんなことをしているのがおかしい。マリアが指摘したように、執事などがいまのマリアの役割をしているはずなのに。
マリアの質問に、おじは少し気まずそうな顔をする。
「情けない話なんだが、雇う余裕がないんだ。だからマリアが手伝ってくれるのは、本当にありがたい」
屋敷に来たとき、家具や装飾がイミテーション、もしくはセレーナの屋敷のものより格段に質が劣る物だったことに失望した。もしかして、いまの公爵家の経済力ではあの程度が限界という可能性が――それを確認するためにも、この仕事をこなしたほうがよさそうだ。ひとまず詮索は止め、仕事に集中した。
おじは多分、領主としては結構有能な部類だろう。こなしている仕事量も質も、まだまだ未熟なマリアが口出しするのもおこがましいほどのものだ。
この様子だと、公爵家の人間としてまともに仕事をしていたのはおじだけではないだろうか。それで伯母もいとこも愚かな侍女たちも、よくおじを馬鹿にしたものだ。
おじにならい、マリアも黙々と書類を片付けていた。
おじが手を止めたのは、召使いが手紙を届けに来たときだけだった。手紙の束に目を通していたおじが、何やら考え込んでいる。マリアと目が合うと、手紙の内容を説明した。
「マーガレットが食当たりを起こしてしばらく療養するらしい。帰ってくるのは当分先になりそうだ」
「まあ、喜ばしいことですわね。彼女が帰ってくると妹がいじめられるので、私としては一生戻って来なくても構わないくらいです」
いとこへの敵愾心を隠すこともなく話せば、おじは苦笑する。
「辛らつだな。でも、私もその気持ちは分かるよ。あの子とあまり顔を合わせたくないのは同じだ。生まれたばかりの頃は可愛くて、血は繋がっていなくても親としてあの子をしっかり育てていこうと思っていた。だが、ローズマリーは私があの子に近づくのを嫌がった」
なるほど。真っ当なおじを遠のけた結果があれというわけか。
愛人を連れ込むために娘を追い出すなど、伯母がいとこに愛情があるようにも見えない。
いとこが可愛くて囲い込みたかったというよりは、おじが嫌で締め出したかったということだろうか。
「すぐまた出るつもりだったが、あの子が帰って来ないなら、もうしばらく私も屋敷に滞在しよう。溜まっていた仕事もあるし、マリアが手伝ってくれるならだいぶ片付きそうだ。明日も手伝ってもらえるかな」
翌日からも、マリアはおじを手伝い書類整理をしていた。
暇を持て余していたから引き受けた仕事ではあったが、領主の仕事を手伝うというのは思っていたよりも得る物が多い。
「おじ様、この数字と比較という文字は……?」
「それはその年のデータと比較したものを書いておいてくれ。そこの棚には資料をまとめてあるんだ。必要なら好きに見てもらっていいよ」
こういった経緯から、マリアは公爵家の財政状況を簡単に見れる立場になってしまった。
整理の合間に、参考資料を探しながら資料を見ていく。やはり公爵家の財政は芳しくない。
伯母の浪費に加え、腰巾着馬鹿どもが明らかに私的利用と思われる出費を経費として使用している。あいつらに同情する必要はこれで皆無になった。
ただ、解せないのはそれぐらいで赤字になっているということだ。
マリアは適当に資料を選び、去年の収支帳簿と二十年前の収支帳簿を比較してみる。
やはり、収入の額がおかしい。
広大で豊かな土地を持つオルディス領で、これだけしか収入がないのが異常なのだ。二十年前の帳簿には、去年の十倍以上の収入が記されている。
さらに資料を取り、収支状況を遡ってみた。
収入は二十年前から緩やかに減少していったのではなく、ある年に突然激減していた。十四年前……。マリアが生まれた年だ……。
「十四年前にオルディス領で何があったか、聞いたことない?」
「私がエンジェリクにも来てない頃ですし、そこまで昔のことは……」
半年前に屋敷へ来たばかりのベルダでは、さすがに昔過ぎて分からないようだった。
意外にも、ナタリアのほうがすぐに心当たりを思いついた。
「十四年前と言えば、先代公爵夫妻――つまり、マリア様のおじい様とおばあ様が亡くなった年ではありませんか。たしか、オルディス領で大規模な火災があって、公爵様がそれに巻き込まれて命を落としたと。奥方様も、そのショックで倒れられて後を追うように……。孫を見せられなかったと、スカーレット様がたいそうお嘆きになられていらっしゃいましたわ」
たしかに、そんな話を両親から聞いたことがある。
その時から母はオルディス家と疎遠になってしまった。両親の葬儀に出席することを拒否され、マリアやオフェリアが生まれても祝いの言葉もなかった。そして母が亡くなった時にも、何の返事もなく……。
十四年前の大火災。
調べてみればすぐに見つかった。どうやら火災は甚大な被害をもたらしたらしく、それらについては独立して資料をまとめてある。
火事で領土の四分の一が焼失し、いまもその傷跡は大きい。収入が激減した上、火事からの復興に加え被害を受けた領民への補助金などの支出。
それらがオルディス家の財政を火の車にした最大の原因だった。
「十四年前の火災のことが気になるかい?」
マリアが資料を読みふけっていると、おじに声をかけられた。
「財政に大きな影響を与えた出来事ですから。まとめている書類でも、たびたび話題に挙がっていますし」
「用水路の件か。あの火災で一番の打撃だった。いまだに領の財政が立ち直らないのは、用水路のせいだと言っても過言じゃないからな……」
オルディスには大きな川があり、領地全体に整備された用水路によって土地の誰もがその恩恵を受けていた。
しかし火災によって一部が焼失、さらに壊れた部分から汚物が紛れ込み、農業、畜産業はもちろん領民の生活そのものに大きな影響が出ている。
「火災直後、何を差し置いても真っ先に用水路の修復をすべきだったんだ。だが公爵夫人から、被害に遭った領民への見舞金や援助金を優先させるよう言われて……夫君を亡くして落ち込んでいる彼女の願いを断り切れず……。あの選択だけは間違っていた」
当時を思い出しながら話すおじの顔は暗い。
「火災によって見込まれていた収入が減少した上に、あの出費で用水路を修復する費用がなくなってしまった。そして時間が経ち、もはや取り返しのつかない状態だ。火災直後なら三分の一程度の修復で済んだものが、いまや総取り替えしかない。いまあるものを取り壊しての造り直しだ。建設費用の倍以上の額になるだろう。当然そんな金はない。騙しだまし使ってきたが、小手先の修復では結局どうにもならない。どうにもならないが、その修復の費用もかさんでさらに財政を圧迫している。もはや抜けだすことのできない悪循環だ」
おじは溜息をついた。
「オルディス家は数年のうちに破産する。売れる物もなくなってしまったし、もう赤字を埋め合わせる方法がない」
書斎のテーブルに触れながら、おじは力なく笑う。
「この屋敷に来たとき、内装の粗末さに驚いただろう?由緒正しい公爵邸にはふさわしくないものばかりで。金になりそうな家財道具は私がほとんど売り払ってしまった。見苦しくない程度に安い品を代わりに置いているんだ。ローズマリーが私を酷く憎んでいるのは、それが原因さ。公爵夫妻に取り入って婿になり、夫妻が亡くなった途端屋敷中の物を売り飛ばす男――何度も説明しようとした」
おじの声のトーンが低くなる。瞳には、暗い影が映り込んでいた。
「すべての品を売ったわけじゃない。僕だって、手をつけていいものとそうでないものの区別はして売ったんだ。僕が領を仕切ることに文句は言うくせに、何の協力もしてくれない。僕が実権を握っているのが不満なら、僕に代わって動けばいい。僕がいなければ、十四年もオルディス家は維持できなかったんだ!」
話すうちに感情を抑えられなくなったおじは、最後は声を荒らげていた。
しかしそんな自分をすぐに恥じたらしく、少し決まりが悪そうにマリアを見た。
「おじ様のおっしゃる通り、今日までオルディス家が続いているのはおじ様のおかげです。私やオフェリアがオルディス家を頼って逃げることができたのも、おじ様が家を残してくださったからです。沈みゆく泥船を見捨てることなく、舵を取り続けてくれたおじ様には感謝しかありませんわ」
マリアはにっこり微笑む。
善良なおじの意外な一面に驚きはしたが、不快ではなかった。思わず出たおじの本音を、責めるつもりはない。おじが不当な扱いを受けているのは、短い付き合いしかないマリアでも同意だった。
「あ、いや……ここを出て行ったら、僕も――私も、他に行く場所がないんだ。両親は亡くなって、親戚もいない。後を継ぐ人間も、残すような財産も何もない私の家は、もう断絶してしまった」
「それでも、他人であるはずのおじ様がオルディスのために一番必死になってくださるのは事実ですわ。おじ様は、先代の公爵夫妻をとても慕っていてくださったのですね」
「……そうだね。私を公爵令嬢の婿にと推してくださったのは他ならぬ公爵だった。後ろ盾もなく借金はないが財産もなく途方に暮れていた私を、高く評価してくれていた」
「私はおじい様もおばあ様もお会いすることができませんでした。お二人は、私やオフェリアに似ているでしょうか?」
マリアが尋ねると、おじはじっとマリアを見つめ、記憶の中の先代公爵夫妻と比較しているようだった。
「目元は君もオフェリアも公爵にそっくりだよ。ローズマリーもスカーレット様も、瞳の色は父親譲りだ」
「それは私も聞いたことがあります。ほとんど父親似なのに、目だけは母方の血筋のものだと」
「オフェリアはスカーレット様に似ているからね。ブロンドは公爵夫人からだ。いまは少し赤みがかっているけれど、ローズマリーも十代の頃はそれは見事なブロンドだったんだよ」
「あら。では私の髪は、むしろ異色ということなのですね」
陽の光に透け、キラキラ輝く母や妹の金髪は美しかった。容姿にさほどこだわりのないマリアでも羨ましく感じるほどに。
「僕は君の髪も美しいと思うよ。艶があって、とても綺麗だ」
そう言って、おじはマリアの髪に触れる。自分を見つめるおじと目が合ったとき、不思議な感覚に陥った。
あの軽薄な男が――伯母の愛人が自分を口説いてきたときに感じたものを、なぜかいまも感じている。
コンコン、とノックの音が響き、おじは扉のほうに視線を逸らした。
夕食の準備ができたと召使いが呼びに来たようだ。今日の仕事は終わりにしようと声をかけるおじに返事をしながら、マリアは混乱する頭で必死に考える。
まさかおじが、自分を女として見てくるとは思わなかった。それに対して、マリアはいったいどんな態度を取るべきなのだろうか。
誰にも打ち明けられない悩みを抱え、マリアは書斎を出た。




