小さな親切、大きなお世話 (3)
ラスボーン侯爵による茶番劇があったその夜、マリアはホールデン伯爵から、シルバーサーカス団と、ライオンのシルバーについて聞かされた。
「シルバーは殺処分にはならないのですね、よかった」
人間の血の味を覚えたら、殺すしかない――ライオンを世話する人間がそう話していた。
ラスボーン侯爵側に非があれど、それとシルバーへの処分は別の問題だ。だから、シルバーを殺処分する必要はないという判断が下され、マリアはホッとした。
「襲ったと言っても、噛みついたわけではない。仔を連れ出そうとしている人間に突進していき、体当たりを食らわせた。それでドミノ倒しに泥棒共が転倒し、巻き込まれた侯爵の弟も足か腕の骨を折ったそうだ」
「見事な自業自得っぷりですね」
マリアはころころと笑い、差し出された手を取って伯爵の膝に座る。自分を抱き寄せる伯爵に、マリアは最近ある疑問を感じていた。
「ヴィクトール様、最近何か良いことがありましたか?」
伯爵の腕の中にいる時、マリアはとてつもない幸福感と安心感に包まれている――それはいまも昔も変わりないのだが、最近、特に伯爵が情熱的にマリアを求めて来るような気がして。
その日の気分でそういうことが起こるのはいままでもよくあったのだが、ずっとその状態が続いている。何かあったからではないかな、とマリアは考えていた。
何気ない疑問だったが、マリアが質問した途端、伯爵の目が泳いだ。マリアが目を瞬かせて見つめていると、そんなに態度に出ていたか、と問われる。
ベッドの中限定だが、割と出てた。マリアが素直な感想を答えれば、伯爵は苦笑した。
「……そうか。自制していたつもりだったのだが……浮ついた気持ちというものを抑えるのはなかなか難しいものだな」
「浮つく。ヴィクトール様が。よほど良いことがあったのですね」
マリアが言えば、ちゅっと口付けられた。
「君が私の子を生みたいと言ってくれただろう。あれが思いの外、嬉しかったらしい」
「そうだったのですか?その後話題に出すこともなかったので、ヴィクトール様にとって気が乗らない頼みだったのかと思っておりました」
「言われた時は実感がわかず受け流してしまったが、時間が経つにつれ嬉しさがわき上がって来た。早く婚約を解消してほしいと逸る時まである」
「まあ」
伯爵の胸に甘えるようにすり寄り、マリアはクスクスと笑う。
「いえ、早く婚約解消できるよう頑張ります――と言いかけて、なんだか不倫の常とう句みたいだなと思いまして。妻とは必ず別れるから、なんて。よくある陳腐な科白ですが、自分がそれを言う立場になるとは思いませんでした」
「ぜひ頑張ってくれたまえ。聞きわけの良いふりをしているが、実は衝動のままに行動したくなる時がある」
怖いです、と言いながらもマリアは笑顔のまま伯爵にお返しのキスをする。
伯爵も自分との子供を望んでくれている――マリアも嬉しかった。子どもは父親から望まれて生まれ、愛されていてほしいと思う。
子供すら自分の力を強めるための駒として扱っておきながら。都合の良い考えだと分かっているが。
「……本当はずっと、卑屈な想いにとらわれていたのだ。私は貴族ではない。君の永遠を伴にする相手にはなれない。だが君の初めては、悉く他の男のものになってきた」
伯爵の告白に、マリアは目を丸くする。そんなマリアに、伯爵は少し決まり悪そうに笑い返した。
「初恋に、男女としての口付け……それに君の初めての男も私ではなかった――そんな下らないことにずっとこだわるような男だ、私も」
幻滅したか、と問いかける伯爵に、マリアはぎゅっと抱きつく。
「ヴィクトール様は、私が思ってるよりずっと人間らしい感情を持った方だということは知っておりました」
そして、そんな伯爵の誠意や思いやりを自分は踏みにじってしまっていることも。それにずっと甘えてしまっていることも。
マリアは、間違いなくホールデン伯爵がいるから生きていられるのだ。いままでも――これからも。
ラスボーン侯爵がその後どうなったか。
それを知るには関係者に聞くのが一番手っ取り早い。とはいえ、レミントン侯爵やチャールズ王子に聞くわけにもいかない。
事件の捜査を任せられたジェラルド・ドレイク警視総監がその相手に選ばれるのは、当然の流れだった。
仕事を手伝うついでに捜査のことを聞いてみれば、捜査がすでに打ち切りになったことを教えられた。
「ラスボーン侯爵が早々に訴えを取り下げた。陛下もヒューバート殿下も侯爵の味方をせず、レミントン侯爵にまで目をつけられてはあの主張を続けるわけにもいくまい」
「喧嘩を売ってみたものの、孤立していると分かって一転逃げに回ったということですか。愚かとしか言いようがありません」
「いまさら主張を引っ込めたところで、レミントン侯爵が制裁を止めるはずがない。また王都から逃げ出すだろう」
願わくば、そのまま地方に引っ込んで二度と王都に戻って来ない欲しいものだ。
つまらない茶番に、つまらない結果。
マリアは溜息をついて書類に集中しようとした――。
「喧嘩の相手をサーカス団に変えたらしい。ライオンの殺処分と賠償と慰謝料の請求を訴え出ている。そちらの管轄はマクファーレン判事になるだろう」
「サーカス団を訴えた……」
マリアは一抹の不安を感じた。
どう考えても、サーカス団は被害者。ラスボーン侯爵側が加害者だ。
しかし流れ者のサーカス団と、エンジェリクでもそれなりに格のある侯爵とでは、サーカス団のほうが分が悪い。
主席判事のアルフレッド・マクファーレンは公明正大な信頼できる人物だ。彼なら良き裁定を下すはず……。
しかしそれから数日後。
マリアはフォレスター宰相の執務室にいた――マクファーレン判事と話すため。呼び出されたマクファーレン判事は、マリアを見て苦笑していた。
「やはり。あなたは私と話したがると思っていました」
「ならば前置きはいりませんね。ラスボーン侯爵の弟一味が起こしたシルバーサーカス団での事件。ガーランド商会を侯爵に譲渡する、とはどういうことですか」
この決定を聞いた時、マリアは我が耳を疑った。
ホールデン伯爵は会長の座を退陣させられ、その後任がラスボーン侯爵。血の気が引くような気分だった。
敵愾心を隠すことなく、マリアは思わず判事を睨んでしまう。落ち着け、と宰相にまでなだめられてしまった。
「この和解条件は、メレディス……ガーランド商会で働く私の弟を通じて、ホールデン伯爵本人から提示されました」
「伯爵が……?」
「はい。スポンサーとなっているガーランド商会がその埋合せを行うので、サーカス団にできるだけ有利な裁定を下してほしい、と」
マクファーレン判事は、自分を睨みつけるマリアにも丁寧に説明する。マリアは睨むのを止めた。
判事が嘘をついているとは思わない。ホールデン伯爵のことだ。きっと何か考えがあってそう言って来たのだろうが……。
「ラスボーン侯爵は了承しました。エンジェリク一の商会を手に入れることができるのです。これ以上の結果は望めないでしょう。もともと、サーカス団を訴えたところでその主張が認められるかどうかも難しいことですし……」
マクファーレン判事も、今回の一件は侯爵側に落ち度があると判断しているらしい。ならばマリアが彼に恨み事を言うのは筋違いだ。
マリアは頭を下げ、判事に無礼な態度を取ってしまったことを詫びた。
――だが、ガーランド商会がラスボーン侯爵のものになるのは我慢ならなかった。
「それで今度は私のほうに突撃か」
ホールデン伯爵に笑われたが、マリアは頬を膨らませ、じとーっと伯爵を睨む。
「だって。ガーランド商会が他の人間のものになってしまうのですよ。ヴィクトール様はもちろん、商会の皆さんだって、これからどうなることか……」
ホールデン伯爵あってのガーランド商会だ。マリアにとっても大切な場所で……親しい人たちもたくさんいる。
色々言ってやろうと思ったのにいざ伯爵を前にすると言葉が出ず、マリアは目を伏せた。
そんなマリアを優しく抱き寄せ、伯爵が言った。
「金で買えないものがあると以前言っただろう。私の才覚やキャリアは金では買えない。一時のことだ。商会はすぐに私が取り返す」
「……必ずですよ」
マリアも伯爵に抱きつく。マリアの髪を撫でながら、ただ、と伯爵が言葉を続けた。
「取り返すには君の協力が要る。そして君の協力がなければ、私は正真正銘、無一文の何も持たぬ男となってしまう。それでも君が見捨てないでいてくれるなら――」
「もちろんです」
伯爵の言葉に覆いかぶせるように、マリアは食い気味に返事をする。
「私がヴィクトール様を見捨てるなんてそんなこと、ありえません。何でもおっしゃってください。私にできることでしたら何でもいたします」
「そうか」
穏やかに微笑む伯爵を、マリアはじっと見つめた。
「まさか私がヴィクトール様を助ける側になる日が来るだなんて、思ってもいませんでした」
完璧で、肩を並べるどころかその背中を追いかけるのも精一杯な、強い男。助けてもらうばかりで、それに見合うだけの何かを彼に少しでも与えられているのか、いつも不安だった。
「君に怪我をさせたのはラスボーン侯爵の妻だったな。あの男も、君を快くは思っていまい。羽虫が耳元を飛び回るのは不愉快だろう。潰せる時に潰しておいたほうがいい――下手に見逃すと、その内足下をすくわれるぞ」
その言葉に、マリアは察した。
サーカス団を助けるためだけでなく、ラスボーン侯爵を潰すためにガーランド商会を手放すつもりなのだ、伯爵は。ラスボーン侯爵が、マリアにとって目障りな存在だから……。
「私、ヴィクトール様に犠牲を強いてばかりです……」
「犠牲だとは思っていない。オフェリアへの献身を犠牲と考えない君と同じように。特に君が私との子を望んでくれていると分かって――」
伯爵が笑う――獲物を狙い定めた獰猛な獣のような目で。
「負の遺産を、我が子に受け継がせるような真似はしたくない。覚悟しておきなさい、マリア。君の敵は我が子の敵――引いては私の敵だ。私はそれらを全て潰す。確実に」
マリアはふっと笑い、伯爵の首に腕を回して自ら彼に口付けた。
「ヴィクトール様は、やっぱり悪いお人ですね」




