小休止
オルディス領は一面雪に覆われ、真っ白に染まっていた。
厳しい寒さが続きながらも、領民の表情は明るい。これほどまでに幸福な空気に包まれて新しい年を迎えたのは久しぶりのことで、年も明けてずいぶん日が経ったというのに、まだ領内では年明けを祝っていた。
オルディス公爵の誕生日が一年の終わりにあることすら、祝いの口実だ。
新年おめでとう、公爵様おめでとう――そんな声が、屋敷にまで届いている。マリアはそれに苦笑しながら、事の成り行きを見守っていた。
お茶会用にセットされたテーブル。
その席にはマリアとオフェリア……そして、隣接するプラント領の領主キャロライン・プラント侯爵夫人が座っていた。
侯爵夫人は手にしていたティーカップをそっとテーブルに置き、優雅に微笑む。
「大変結構なお茶会でした」
キャロラインがそう言うと、オフェリアがホッと溜息をつきながらテーブルに突っ伏した。
「うう、疲れたぁ……緊張したよー……」
「お疲れ様。上手にできていたわよ」
マリアがクスクスと笑い、キャロラインも控えめに笑う。
今日は王妃教育の一環として、キャロラインを招いてお茶会の練習をさせていた。
初めて会うキャロラインにドキドキしながらも、オフェリアはテーブルマナーとマリアからの言いつけをしっかり守り、キャロラインから合格点をもらえたようだ。
「とってもドキドキしたけど、キャロライン様が優しい人でよかった。美人だし、なんだかお姉様みたいな人だね」
オフェリアが素直な褒め言葉を口にすれば、キャロラインはほんのりと顔を赤らめ照れていた。どうやらキャロラインは、無邪気に褒められることに慣れていないらしい。
「お姉様、もうドレス着替えてもいい?」
本番さながらのお茶会なので、オフェリアは苦手なコルセットとペチコートの動きにくいドレスを着ている。合格をもらえたことで、すぐにでもそれを脱ぎたがった。
オフェリアが着替えに行っている間、マリアはキャロラインに話しかけた。
「今日はありがとうございました。私だけではどうしても甘えが出てしまうので……オフェリアには良い経験となりました」
「お役に立てたのなら、私も嬉しいです。とても可愛らしい妹さんですね」
「おほほ。それほどでもありますわ」
マリアがしれっと言ってのければ、キャロラインが失笑した。
――オフェリアは世界一愛らしい、マリアの自慢の妹だ。
「……オフェリア様を見ていると、なぜアップルトン男爵令嬢は同じようになれなかったのか、つい疑問を抱いてしまいます。彼女も、純粋で危なっかしいという点では、オフェリア様と同じはずなのに……」
キャロラインからの忠告も、モニカは悪いように受け取って、結局自分の考え方を改めようとはしなかった。
彼女は、他人の話を聞き入れようとはしない、自分の考え方を変えようとしない、とキャロラインが以前話していたが……。
「モニカ・アップルトンにとって、私たちは信頼できる人間ではありませんから。オフェリアと異なっているのは、仕方がないと言えるのかもしれませんね」
オフェリアは、マリアの言うことなら何でも聞く。今日キャロラインをもてなしたのだって、マリアがそうしなさいと言ったからだ。
――いつも自分を守ってくれる大好きなお姉様が言うことなんだから、そうするのが一番良い。
その絶対の信頼があるから、オフェリアは素直に聞き入れるのだ。信頼関係のない他人からそれまでの価値観とは異なるものを押しつけられたら、オフェリアでもさすがに反発しただろう。
「貴族と平民ということも、実は大きな壁になっているのだと思います。彼女にとって、貴族社会は平民の時には問題なかったことが大きな問題になるのだからこうしなさい、という忠告は、嘲りにしか聞こえないんじゃないかしら」
「……そうですね。それはあると思います」
キャロラインが同意する。
キャロラインに平民に対する嘲りの気持ちはなくとも、モニカにとっては平民を馬鹿にしているとしか感じられないのかもしれない。
キャロラインに平民への侮りが一切なかったと、そう言い切ることはできない。平民の価値観を受け入れず、貴族のルールに従えと言うのは、傲慢な一面もある。
――だがそういう世界に自ら飛び込んできたのは、モニカのほうではなかったのか。
「平民のお母様に育てられて、最近男爵の父親に引き取られたんでしたっけ、あの子」
キャロラインが頷く。
「ならば父親はいったい何をしているのかしら。危なっかしいことをしている娘に言い聞かせるべきでしょうに」
「アップルトン男爵は爵位こそありますが、それこそ平民と大差のない生活ぶりです。奥様と結婚して、それでようやく城に出入りできるぐらいの格を得たとか」
「つまり彼女は、貴族になったところで、本来なら王子様に会えるような家柄ではなかったということね」
そういうところは、チャールズ王子とも共通している。
なるはずのなかった立場――本人も周囲も覚悟も責任もないままその幸運に目がくらみ、結果自らの首を絞めている……。
「お姉様ー、ユベルたちが帰って来たよー!」
ゆったりとした衣装に着替えたオフェリアが、パタパタと走りながら部屋に駆け込んで来た。
もう淑女らしさを忘れてはしゃぐ妹を、マリアは微笑ましく見ていた。オフェリアには、まだまだ天真爛漫な少女のままでいてほしい。
「ただいま、オフェリア。お茶会は上手くいったかい?」
ヒューバート王子は、マリア、オフェリアから遅れてオルディス領へ遊びに来ていた。
オフェリアがお茶会の特訓をしている間、マルセルと、キャロラインの婿であり従者のセドリックを連れて、王子はマサパンの散歩に出かけていた。
「お帰りなさい、セドリック。マルセル殿とは、ゆっくりお話できた?」
今日、キャロラインがオルディス領に遊びに来てくれたのは、セドリックのためでもある。マルセルとセドリックは友人同士だ。
「ああ。手間をかけさせて悪かったな」
「いいえ。私もオルディス公爵やオフェリア様と会えて楽しかったわ」
セドリックと共にプラント領へ帰るキャロラインを見送る際、キャロラインから美しい花束を渡された。
「遅くなってしまいましたが、お誕生日おめでとうございます。ささやかなものですが、これは私と父からの贈り物です」
「まあ、ご丁寧に。どうもありがとうございます」
「またプラントにも遊びに来てくださいね。お父様も、公爵が来てくださるととても喜びますから」
ララからじとーっと睨まれているのを感じながら、マリアは笑顔でキャロラインたちを見送った。
キャロラインたちを乗せた馬車が見えなくなると、マリアはララに振り返る。
「……何か言いたそうな顔ね」
「心当たりはあるだろ。絶対伯爵に言いつけてやるからな。せいぜいお仕置されてろ」
こんな時ばっかり伯爵を利用するんだから、とマリアが拗ねてみせればララに額を小突かれた。
「お前なあ……チャールズに怒られるのも当然だろ。ちょっとは自重しろ」
「夜這いをかけられた側なのに、私が怒られるなんて理不尽だわ」
「気に入らなきゃ容赦なく追い返すだろ、お前の場合。キャロラインも自分の親父止めろよとは思うけどさあ」
二人が何の話をしているのか不思議そうにオフェリアが見つめているのを、ヒューバート王子が優しく微笑んでごまかしていた。
「ダニエル、おじ様はまだ帰ってきていないの?」
マリアが尋ねると、屋敷の召使であるダニエルが頷いた。
オルディス領の領主でもあるおじは、新年の挨拶回りに出掛けている。オルディスを愛する領主として領民たちに声をかけ、喜びや楽しい気持ちを盛り上げに行っていた。
「お祖父様のところへ立ち寄ってるのかしら。私、ちょっと行って見て来るわ――護衛はいいわよ。領内なら私一人でも大丈夫だから」
馬のリーリエに乗り、マリアは祖父の慰霊碑がある場所へ向かった。
マリアの予想通り、おじは慰霊碑の前に座り、祈りを捧げていた。
慰霊碑は、十六年前の大きな火災で亡くなった人たちの弔いのために作られたもので、マリアの祖父――先代のオルディス公爵もその火事の犠牲者だった。
おじをオルディス家の婿に選んだのは祖父であり、おじにとっては敬愛する恩人だ。
「おじ様、こちらにいらっしゃったのですね」
「マリア――ギルバート様に、去年のオルディスのことを報告していたんだ」
マリアの姿を見つけ、おじはゆっくりと立ち上がる。
おじは左手と左脚がいささか不自由で、屈んだり立ち上がったりするには杖などの補助が必要だ。マリアはおじを支え、寄り添った。
「去年は、ついに黒字となったそうで」
「うん。あくまで去年一年の収支に限っての話だけれど。さすがに長年の負債は大きい。完全な黒字になるまでには、まだまだ時間がかかる。でも……」
おじは幸せそうに笑う。
十六年前の大火災はオルディス領の財政に甚大かつ深刻な影響を与えており、領主のおじは苦労し続けていた。去年、ついに大火災の傷跡から立ち直り、オルディス領は立ち直り始めていた……。
「十年もすればきっと、往年の繁栄を取り戻すに違いない。その頃には私も引退して、マリアに後を任せているだろうか」
寄り添うマリアの手に、おじがそっと手を重ねて来る。マリアも手を握り返し、おじの負担にならない程度にその身体にもたれかかった。
「その頃にはきっと、私の子に――次期領主への教育に、おじ様は手を焼いていることでしょう」
「マリアの……?そうか……そうだね。マリアの子か。男の子でも女の子でも、賢くて美しい子になりそうだ」
「他人事のような口ぶりですけれど、おじ様がその子の父親になっていただく予定ですからね」
「えっ」
おじが目を丸くする。
「公爵家の跡を継ぐ子ですから。お祖父様が婿にと認めたおじ様を私が選ぶのは、当然ではありませんか」
マリアは事もなげにそう言い切ったが、おじは顔を赤くし、ごにょごにょと考え込んでいる。
「お嫌ですか?」
「嫌なわけじゃ――その、すごく嬉しいよ。正直に言えば。でも、僕の子を望んでくれるとは思ってもいなくて……」
「正直に白状すれば、おじ様だけではないのです。このお願いをするのは。私、たくさんの子を生む必要がありますから」
マリアが言えば、おじは少し神妙な表情になった。
オフェリアのためだね、とマリアの真意を察して相槌を打つ。
「王太子妃……王妃となれば、オフェリアには子を生む義務ができます。ヒューバート王子は愛妾を持たないでしょうから、王家の繁栄のため特に大きな負担を強いられることに……」
王妃の外戚であるマリアが生めば、多少はオフェリアの負担も軽減させられる。どれほど不誠実と罵られようと、マリアが可能な限り子を生んでおくというのは絶対だ。
「オフェリアの結婚も、いよいよ現実のものに近付いて来たんだね。あの子が嫁いで行くのかぁ……おこがましいことを言うようだけど、娘を嫁にやる父親の心境が分かるような気がするよ。とても寂しいな」
そうですね、とマリアも頷き、おじの手をさらにぎゅっと握った。




