変えられないこと (2)
ふと目が覚めたマリアは、ヴィクトール・ホールデン伯爵の腕の中でもぞもぞと身体を動かした。
何となく体勢が気に入らないような気がして、寝返りを打つ。それでも何か落ち着かないものがあり、マリアは寝付けなかった。
「眠れないのか?」
頭上から聞こえてきた声に顔を上げてみれば、伯爵は目を開けていた。
「すみません。起こしてしまいましたか?」
「いや、私もさっきから目が覚めていた」
マリアの髪を優しく梳き、額に口付けて来る。その仕草は幼子をあやすものと似ていて、マリアは甘えるように伯爵の胸にすり寄った。
「何か悩み事か」
「悩み事というほどではありませんが、来週またチャールズ王子からの誘いがあったので、少しばかり憂鬱です。そのことで、ヒューバート王子から笑顔で睨まれてしまいましたし」
「王子様から取り合われるとはな。君の魅力も、ついに傾城の域まで達しそうだ」
からかうような伯爵の言葉に、マリアは苦笑いするしかない。
まるで絶世の美女のような褒められ方だが、実際にはそういうわけではない。
チャールズ王子のほうは、またレミントン侯爵が言い出しただけ。王子自身がマリアを望んでいるわけではない。
ヒューバート王子のほうはオフェリアとの結婚に関してマリアが重要な立場にあるだけで、色っぽい理由でもない。
「君がチャールズ王子と結婚してしまったら、ヒューバート王子はオフェリアと結婚できなくなるからな。君たちが接近していること――気が気ではないだろう」
自分の髪を撫でる伯爵の手を取り、指を絡める。重なった手を見つめながら、マリアはぽつりと呟いた。
「私、誰かの妻になるのならば、ヴィクトール様の妻になりたかったです」
マリアのされるがままになっていた伯爵の手が、ピクリと反応する。これが、伯爵にとって酷な話題だというのはマリアも分かっていた。
「私が全てを捨てて、ヴィクトール様だけを選べたら、きっとそういった道もあったのでしょうね」
平民の男を、オルディス公爵の夫にすることはできない。
ホールデン伯爵の爵位は、貴族の養子となって得た一代限りのもの。彼は本物の貴族になれたわけではない。だが、伯爵以外の男の妻となることが、マリアは想像できなかった。
「どれほど財産を築こうとも、どれほど金を積もうとも、手に入らないものが世の中には存在する。私の生まれは、金では変えられない」
ドレイク卿が話してくれた、駆け落ちした彼の婚約者のことを思い出す。
彼女は愛した人と結ばれることを選んで破滅した。彼女の無責任が原因で地獄へ落とされた兄弟によって。
いまマリアが何もかも捨てて伯爵を選んでしまったら、オフェリアを地獄へ落とすことになる。
「金や愛だけでは、解決できないこともあるものですね……」
けれど、乗り越えられることはあるともマリアは思っている。伯爵からの支えは、マリアをいつも強く助けてくれた。
「ヴィクトール様。いつかチャールズ王子との婚約が解消されたら、私、ヴィクトール様の子を生みたいです」
顔を上げて伯爵を見上げてみれば、目を丸くしてマリアをまじまじと見つめている。隠すこともできないほどの動揺と困惑――そんな表情をする彼を見るのは初めてで、マリアは思わず吹き出してしまった。
「私がいずれ子を生まなくてはいけないことは、ヴィクトール様もご承知だったでしょう?」
「それはそうだが……私の子を望んでくれるとは思わなかった」
「最初の子どもはヴィクトール様との子がいいと、かなり前から私は決意していましたわ」
むにゅ、と伯爵がマリアの頬をつねる。
最初の子、というキーワードに引っかかったらしい。
最初の子――つまりは、まだ他にも子どもを生むということで。伯爵以外の男の子も生むのだと、言外に宣言したようなもの。
マリアの立場を考えれば仕方がないことではあるが、はっきり言われてしまうと、やはり伯爵としては面白くないはず。
だが、身勝手な言い分とわかっていても、マリアも譲れなかった。
「貴族でないヴィクトール様との結婚ができないように、ヴィクトール様の子に公爵家は継がせられません。いずれ、誰か適当な相手との子が必要になります。だから最初の子は、そういった打算や損得なしに生みたいのです」
そしてその相手には、伯爵しか考えられない。
自らの命を削る行為……それだけに、どうしても愛しい人の子が欲しい。
伯爵はまだマリアの頬を軽くつねっていたが、やがて溜息をつき、手を離して頬に口付けた。
「子ども。私は考えたことがなかったな」
マリアを改めて抱き寄せながら、伯爵が言った。
「ヴィクトール様は孤児だと、以前お話ししてくださったことがありましたね」
「探せばどこかにいるのかもしれんが、いまのところ親兄弟はいない。いるのかどうかも分からんというのが正確だな」
生まれてすぐ教会の前に捨てられた――という話を、マリアは伯爵から聞いていた。
親は生きているのかも分からない。探すにしても手掛かりは皆無。天涯孤独と言っても差し障りのない身の上だ。
「ヴィクトール様と血の分けた家族を私が作れるなんて、とても光栄なことです」
伯爵の胸にもたれかかったまま話をしていると、だんだん眠気が戻ってくる。少し重たくなった瞼を閉じて、マリアも改めて伯爵にすり寄った。
「血の繋がった家族を作る、か……」
静かにそう呟く伯爵の声を最後に、マリアの意識は闇の中に落ちて行った。
チャールズ王子との二度目の逢瀬は、王都から少し離れた田園地帯であった。
乗馬服と馬を準備しておくよう言われたので、マリアは優秀な白馬のリーリエを連れて約束の場所へ赴いた。
レミントン家の召使いたちは侯爵によってきっちり管理、統制されているようで、あまり気の利かないパトリシア王妃の侍女たちとは違い、マリアが到着すると丁重にもてなし、王子と侯爵のいる場所まで案内してくれた。
どうやらチャールズ王子は、狩りの準備をしていたらしい。
「来たか。お前は馬に乗れると聞いていたんだが」
マリアが頷けば、王子は上機嫌で笑う。マリアにまで笑顔を向けるとは、本当に機嫌が良いようだ。
「チャールズは狩りが好きなんだよ。でも私やジュリエットは馬に乗れないし、陛下はそういったことに興味がない。付き合ってくれる人間がいるのは、やはり嬉しいんだろう」
レミントン侯爵が言った。
相変わらずチャールズ王子は身勝手で、行くぞと声をかけるなりマリアの様子も構わず馬に乗って行ってしまう――乗馬はマリアも得意としているので、ついていくのは特に問題ないが。
「狩りの経験は?」
「父に連れられて何度か。エンジェリクでも、キツネ狩りに参加させて頂いたことはあります。ただ、自分で弓を使ったことはありますが、本当に形だけです」
「ルールは知っているのだな」
チャールズ王子は早く狩りを始めたくてたまらないようだ。侯爵の話していたように、狩りは純粋に彼の趣味なのだろう。
王子が馬を走らせていくのを、マリアは追った。
王子のお守り役であることは承知の上で追いかけたが、意外とチャールズ王子の手綱さばきは悪くない。走らせた馬に乗ったまま、小さな動物を弓で射止めている。
「お見事です」
狐を一撃で仕留めたのを見て、マリアが言った。
「フフン、なかなかのものだろう。これだけは褒められたことしかないぞ」
「そうなのでしょうね。狩りに詳しくない私から見ても、殿下の腕前は相当のものだと分かりますもの」
馬に乗り始めて一年程度、弓は使ったことがない――恐らくこればかりは、いまのヒューバート王子では絶対に勝てない。
マリアも、素直に賛辞の言葉を送った。
自分の腕前が認められたことがよほど嬉しいのか、チャールズ王子もマリアの賛辞に対して無邪気に喜んでいる。
「あの兎ぐらいならお前でも仕留められるだろう。ほら、弓を構えろ」
「さすがに走りながらは無理です」
乗馬の腕には自信があるが、弓を使うのは止まった状態でなければ無理だ。
マリアが苦笑しながら首を横に振ると、僕が追い詰めてやる、と王子が言った。
「そこで構えて待ってろ。タイミングをしっかり見計らえよ」
逃げ出す兎を、馬に乗った王子が追う。マリアは言われた通り、弓を構えて兎を狙うタイミングを待った。
従者たちに指示を出し、王子は兎を追い詰めて行く。馬に乗る従者たちは王子の倍以上の年齢だろうに、一番巧みに馬を動かしているのはやはり王子だ。
――人間、探せば秀でたものの一つもあるものだ。
「なんだ。思ったより上手いじゃないか」
「お褒めにあずかり恐縮です」
王子が追い詰めてくれた兎を一羽。それから偶然飛び出してきたもう一羽を仕留めたマリアに、王子は終始笑顔だった。
もう少し続けるか、と王子は言ったが、マリアがそれを止めた。
「一度休憩に戻りましょう。空が暗くなって参りました」
「ん……それもそうだな。一雨ありそうな様子だ」
暗い雲の一群が空を覆い始めたのを見て、王子も頷く。
狩りに慣れているだけあって、そういった判断は正しく下せるようだ。ただ、マリア自身、その指摘をするのが遅すぎたと思った。
侯爵たちが待つ場所に戻るよりも先に、大粒の雨が降り始めた。
「雨が止むのを待つぞ。向こうの空は明るい。一時的なものだろう」
王子の指示を受け、従者たちも適当な木のそばに寄って雨宿りを始めた。
王子に連れられてマリアは一番大きな木の下に入り、馬から降りて王子と並んで立つ。
大きな木はマリアとチャールズ王子をすっぽりと覆ってくれたが、リーリエが濡れてしまうのが気になって、マリアは肩が触れ合うほど王子にくっついていた。
「……おい、近いぞ」
「申し訳ありません。馬を濡らしたくなくて」
チャールズ王子の顔が赤いように見えるのは、マリアの気のせいと言うことにしておこう。
王子は、渋々といった様子で仕方ない、と呟いた。
「良い馬のようだからな。濡らしたくない気持ちは理解してやらなくもない」
「ありがとうございます。殿下の馬も、なかなかの名馬ですね」
「分かるか?」
パッと顔を輝かせ、王子は自分の馬を撫でる。
「そうだ。これは父上より賜った馬だ。僕が初めて馬に乗ったのは七つの時だったが、筋がよいと師から絶賛されてな。父上も僕を褒めてくださって……その年の誕生日に贈ってくださったんだ」
父親から贈られた馬のことを語る王子の笑顔は、いままで見たどの顔よりも魅力的だと感じた。
幼稚な反抗も冷淡な父親の気を引きたくて――きっとそうなのだろうと、マリアも納得した。
「……お前は、父上が姉上と接している姿を見たことがあるか?」
自分の馬を撫でていた王子が、それまではしゃいでいた声のトーンを落として尋ねて来る。マリアが頷けば、どう思う、とさらに問いかけてきた。
「父上と姉上の関係のこと……。正直に言え。僕が聞いたんだ。率直な意見を……許す」
マリアは考え込んだ。
チャールズ王子の機嫌を取りたいとは思わない。が、嘘をつきたいとも思わない。
王子が何を気にしているのか、手に取るように分かる――それは王子の杞憂だ。
「お二人の間に、公にされていない何かがあるのは確かだと思います。ただ、エステル様は陛下の愛人ではございませんわ」
「本当にそう思うか……?僕の機嫌を取るための世辞ではなく……?」
「殿下に好かれたいと考えていない私が、なぜ機嫌を取る必要があるのです」
マリアが鼻先で笑い飛ばせば、それもそうだな、と王子はどこかホッとしたような顔で相槌を打つ。
エステルは、王の愛人ではない。
自分が王に言い寄られているから、などと言うつもりはないが、エステルを見る王の目は、男が女を見るそれではないという確信はあった。
きっと二人の関係はもっと複雑で、知らなければよかったと思わせるような暗いものが潜んでいるに違いない。
「お帰り。途中で雨に降られなかったかい。心配していたんだよ」
出迎える侯爵に、チャールズ王子は先ほどよりずっと上機嫌な様子で応えた。
「ご心配をおかけしました。雨宿りをして、すぐ止んだので、その後も狩りを……見てください。なかなかの成果でしょう」
王子は自慢げに結果を見せびらかす。侯爵はあまり関心がなさそうに頷いていた。
「お前もいくつか持って帰っていいぞ」
王子は、マリアに向かって気前よくそう言った。
「お気持ちは有難いのですが、動物の亡骸は妹が嫌がりますので」
「私も女性への土産にこれをそのまま、というのはないと思うよ。せめて毛皮に加工してあげたらどうだい」
マリアは毛皮に興味はないのだが、それは黙っておくことにした。和やかな雰囲気にわざわざ水を差すほど、マリアも無粋にはなれなかった。
「すまないね、公爵。今日はここまでしか見送れなくて」
マリアの見送りには、レミントン侯爵だけでなくチャールズ王子も一緒に来た――今回は、前のように渋々といった様子ではなく。
「いいえ。馬が良いと言ってお断りしたのはこちらのほうなのですから、どうぞお気づかいなく」
馬車を用意してくれると侯爵から申し出はあったのだが、どうせリーリエを連れてこなくてはいけないのだし、直接馬に乗って行くからとマリアは断っていた。
今日はマリア側も護衛兼従者が必要になるのだからララを堂々と供にできるし、馬に乗れるならそちらのほうがいい。元々マリアは馬車より乗馬派だ。
「ではな、オルディス公。また城で」
チャールズ王子が自ら声をかけて来るものだから、マリアは挨拶を返すのも忘れて目を丸くしてしまった。
「おい。なんだ、その態度は。僕が挨拶してやったと言うのに」
「すみません。私も人間ですから、驚くことも戸惑うこともあるのです」
理由になっていないぞ、と怒りながらも、いままでよりずっと友好的な雰囲気だった。
そして別れ際、王子がマリアの頬にキスをする――婚約者への挨拶としての儀礼的なものだったが、それでも。
笑顔で侯爵たちと別れながら、マリアの胸中は複雑だった。




