思わぬ邂逅 (2)
マリアは時折、警視総監ジェラルド・ドレイクの秘書として城に働きに来ることがあった。
働くこともドレイク卿のことも好きだが――ちょっとこの書類量はいただけないと思う。
「今日もまた、見事な山が築かれておりますね」
「マスターズの休みが長引いた。おかげで手が足りん」
ドレイク卿の有能な部下マスターズ。役人たちのまとめ役でもある彼が、休み。それも長めの。
その理由に心当たりがあるマリアは、バツの悪い思いで困ったように笑う。
「マスターズ様のお休みの理由は、やはりナタリアの結婚ですか?」
マスターズは、マリアの侍女ナタリアに想いを寄せていた。
ナタリアは恋人がいるから、と最初にお断りしていたのだが、仕事にかまけてナタリアを放ったらかしにする彼女の恋人に発破をかけるため、マリアがマスターズを焚きつけたようなところがあった。
マスターズが決定的な失恋に心を痛めて休んでいるのだとしたら、マリアにも責任はある……。
「最初から恋人がいたことは承知の上での横恋慕だったのだ。貴女やナタリア嬢が責任を感じる必要はない。それに休みが長引いているのは、失恋の痛手を癒すついでに実家に帰ってみたところ、無理やり見合いをさせられる羽目になったそうだ。それが何やら揉めているらしい」
ドレイク卿は事もなげにそう言ったが、マリアはやはり気にはなった。
失恋したばかりで縁談。良縁に恵まれることを祈るばかりだが……揉めて休みが長引いているようでは期待できなさそうだ。
そういった取りとめもない話をしているところに、王国騎士団団長と共にララが戻って来た。
「久しぶりだな、マリア!会いたかったぞ。君がいないこの部屋はむさ苦しいし重苦しいし、何を楽しみにすればいいのか困ったものだ」
笑顔でマリアを抱き締めるウォルトン団長に、ならば来なければ良いだけだろう、とドレイク卿は不愉快そうに眉をひそめる。
マリアの額にキスして頬ずりまでしてくる団長に苦笑しながら、私もお会いできなくて寂しかったです、と返した。
「まったくだ。本当は僕がキシリアへ行くはずだったのにカイルの奴め。僕に仕事を押し付けて抜け駆けとは、やってくれるものだ」
「押し付けたも何も、もとから貴公の仕事であろう」
ドレイク卿が呆れたように言ったが、ウォルトン団長の耳には都合よく届かなかったようだ。
カイルは悲惨な目に遭ってたぜ、とララは気の毒そうに呟いていた。
ウォルトン団長は執務室の奥にある休憩室から勝手に茶菓子を持ってきて寛ぎ始めた。ララも、団長が自分の分まで用意してくれるものだから、少々委縮しながらも菓子を頬張ってマリアの仕事が終わるのを待っている。
団長の好きにさせているところを見るに、なんだかんだ言っても、ドレイク卿は結構彼のことが気に入っているのだと思う。口では反発しながらも、それを受け入れて……。
「どうしたマリア。すごい顔になってるぞ」
茶菓子をつまみながら執務室の書類を適当に読んでいた団長は、突然不快そうに顔をしかめるマリアを視界にとらえて言った。
「いえ。口ではやたらと反発する男ということで、チャールズ殿下のことを思い出しまして」
チャールズ王子は、自分の父親――エンジェリクの国王にやたらと口答えしたがる。そのくせ、王に信頼されているという理由で騎士を自分の親衛隊に選んだり……たぶん本当は、父親が気になって仕方がないのだ。
エンジェリク王は、ヒューバート王子には距離を置きつつもそれなりに気にかけているが、チャールズ王子には冷淡だ――マリアを婚約者に宛てがうぐらいなのだから、王として王子に期待していないわけではないのだろうが。
だから父親の気が引きたくて、反発しているところもあるのだろう。そんな親子の溝に落っこちて板ばさみにされた自分は、なんと気の毒なことか。
「チャールズが王子になった経緯を聞いたんだけどさぁ……本当なら、王子になんかなれる人間じゃなかったんだよな?」
クッキーをポリポリとかじりながら、ララもチャールズ王子のことを話す。
「生まれた当時、母親はあくまで愛妾。王妃もいて、王太子が確定しているような王子もいた。ところが色々あってどっちも亡くなって、チャールズのもとに王子の座が転がり込んできた」
「不敬な言い様ではあるが、まさにその通りだな。パトリシア王妃やチャールズ王子が、栄誉な地位がうっかり手元に転がり込んでくるという幸運に恵まれたばっかりに、エンジェリク貴族はとんだ不幸を背負い込むことになった」
団長が皮肉っぽく笑う。ドレイク卿は、どうだろうな、とポーカーフェイスを崩さず反論した。
「チャールズ殿下にとっても、うっかり王子になってしまった、というのは不幸な出来事だったかもしれん。王子ではなくただの貴族の嫡男として、贅沢と繁栄だけを享受していたほうが幸せだったのではないかと思うことがある」
「俺もドレイク卿の意見に同意かな。王子になんかなるものじゃないって、当事者だからすげー思う。しかもチャールズの場合、これまたうっかりヒューバートが本気出して王太子目指し始めたもんだからさ。お気楽でいられなくなったってのも不憫だよな」
同じ王子として、ララはチャールズに同情する部分があるらしい。ウォルトン団長は、彼にしては珍しく、嫌味っぽく笑った。
「ある日突然、それまで許されていた甘えが許されなくなったというのは気の毒かもしれんが、王子の座に在る以上はそれも覚悟しておくべきだったのだ。パトリシア王妃がいやがられる理由がそれさ。何の権利も持たない愛妾から王妃へ――大きな責任と義務も同時に背負ったというのに、その自覚がないまま能天気に愛妾時代と変わらず過ごしている。その無責任な考え方のまま王子と王女を育てて……あの様だ」
「私もレオン様の意見に同意です。王子という地位にあることが幸せだとは思いませんが、それが苦しいなら降りてしまえばいい」
チャールズ王子はマリアよりも年下――まだまだ未熟で、周囲に左右されやすい不安定な年頃だ。
ただの貴族の青年なら、あの傲慢さ、短慮さも幼さゆえの過ちと見逃されたかもしれないが、王子という地位にあってその権利を享受しているのならば、そんな甘えは許されない。
加えて、ヒューバート王子が競争相手として動き出し、甘えが許されない状況になっている――それに気付かず、いまもチャールズ王子は幼稚で甘ったれた思想を改めないまま……。
「そーなんだけどな。王子やるのは楽しくて良いことばっかりじゃないってこと、自覚しようともしないのは罪だ。だからチャールズを許してやれ、なんてことは言わねーよ。やっぱやらかしたところも大きいし」
ララが言った。
「あの王子様、モニカとかって女侍らしてるけど、女好きなのか?」
「迂闊な行動が多いせいで素行も褒められたものではないが……一族が推した婚約者候補もいたのだ。多少浮ついた真似はしていても、ライオネルほど酷いものはないだろう」
「おい、そこでなんで僕を引き合いに出す」
ララに話すドレイク卿に、ウォルトン団長が横やりを入れた。
女性関連の素行については、ウォルトン団長はチャールズ王子を非難できない、とマリアですら思った。
「アップルトン男爵令嬢とはやましい関係ではないと頑なに否定していたし、そこは私も信じているわ。王子は私より年下なのよ。それで私以上に爛れているなんてことはないでしょう」
「チャコならチャールズぐらいの年で嫁の一人や二人がいても不思議じゃないんだけどな。でもそっか。こっちの宗教って基本は一夫一妻制か」
チャコ帝国では力ある男が女性を大勢囲うのが普通だが、エンジェリクのようにルチル教を信仰する国では不貞は大罪だ。不倫も愛人も、建前としてはよろしくないものとされている。
婚約しているチャールズ王子は、不貞や浮気が疑われてしまうような真似は慎むべきなのだが……本人の主張や事実がどうであれ、モニカ・アップルトン男爵令嬢を側に置いて贔屓にする姿は、そうとしか見えない。
そうとしか見えないことをしている時点で、すでに問題なのだ。それを自覚せず迂闊なことばかり――マリアにとっては、蹴落とす格好の材料になるので有難い。
「そう言えば、ドレイク卿って結婚に失敗したことがあるって聞いたんだけど」
ララが言えば、ドレイク卿はじろりとウォルトン団長を睨む。そんな話を暴露しそうな人間は彼しかいない。
「マリアは知ってたのか?」
「寝物語に聞かされたことはあるわ。人に話したことはないけれど」
ドレイク卿は事もなげにマリアに聞かせてくれたが、他人の醜聞を吹聴して回る趣味はない。ドレイク卿の結婚失敗談は、ララはおろか、ナタリアやオフェリアにすら話していない。
「正式な結婚はしていない。式で花嫁に逃げられただけだ」
ため息交じりにドレイク卿が言った。
これもドレイク卿から聞かされていたのだが、隠しているつもりはないらしい。当時は大きな醜聞騒ぎとなり、貴族の間ではそれなりに有名な話だそうだ。
ジェラルド・ドレイク侯爵は、かつて婚約した女性がいた。
政略的なもので、宰相と強いつながりを持ちたかった向こうの家から是非に、と頼まれて婚約したのだが……相手の女性は親に隠した恋人がいた。平民で、親からは反対されると分かっていたから内密にしていたとか。
恋人と別れたくない、でも親にも逆らえないと悩み続けた彼女は、式当日に姿をくらました。
「式当日に駆け落ちって……やべーな」
「かなりまずいことだ。事実、私や父はそれに対して何の制裁も下さなかったが、あちらの一族は破滅した。婚約を持ちかけておきながら相手に恥を掻かせたのだ。それが目的だったと思われても仕方がない。まともな貴族ならそんな家に関わろうと思わないだろう。あちら側も、贖罪のため先祖代々の屋敷や財産を売り払って私たちに多額の慰謝料を払い、一族の者たちは自ら社交界から離れ、地方でひっそりと……」
結婚式当日に、何の落ち度もない花婿を置き去りにして花嫁が逃げた。
式に招かれていた貴族たちの口を閉ざせるはずもなく、花嫁側の一族は糾弾された。
花嫁の母親は、式当日に倒れそのまま帰らぬ人に。父親はその後すぐに亡くなった――自殺ではないかとも言われている。
そして花嫁の姉弟は婚家で蔑まれ、職を失い……。
「花嫁の姉の一人が、その醜聞騒ぎで離縁させられたそうだ。弟のほうも内定していた職がなくなったらしい。それで逃げ出した花嫁を探し回って、姉弟たちが復讐したとかしないとか。あまり悲惨な話は好きじゃないから、僕も詳しくは調べていないが」
「私も興味がないのでその後は知らん。貴族にはよくある政略結婚で、花嫁とも一度しか顔を合わせていなかった。いまから思えば、向こうも私と結婚する意思がないから接触を最低限にしていたのだろうな」
ドレイク卿は、意に添わない結婚をさせられそうになった相手の女性のことを、どちらかと言えば気の毒に感じているらしい。
マリアから見れば、拒否するにしても方法があっただろうに、と否定的な意見しかわかない。
結局、どちらにも良い顔をしようとして自分の都合を優先し、最悪の結果を招いたに過ぎない。ドレイク卿にはっきり伝えていれば、彼が協力してくれたかもしれないのに。
そうマリアがこぼせば、ウォルトン団長に笑われてしまった。
「ジェラルドと臆することなく話ができる女性なんか、マリアぐらいしかいないさ。見ろ、この恐ろしい風貌を」
「見た目の恐ろしさについて、貴公にだけは言われたくない」
ドレイク卿は彫刻のように美しい容貌だ――石像のように冷たいポーカーフェイスが、何とも言えない近寄りがたさを醸し出しているが。
それに対してウォルトン団長は厳つい。軽薄……もとい、陽気な表情が親しみやすさを生みだしている。
まさに正反対な二人だ。
「んー……てことは、もしかして。ドレイク卿って、女性経験はそんなに多くなかったりする?」
おずおずと。しかし好奇心を抑えきれずにララが尋ねた。
自分も最近女性を知ったので、その手の話題にものすごく興味があるのだろう。マリアはなるべく反応しないようにしながら、涼しい表情で沈黙していた。
「多くないどころか、二人だけだ」
「えっ」
ララと団長が、まったく同じように驚いた。
「二人……ということは、一人はマリアだろう。ならもう一人は、僕が紹介した女か!?式で花嫁に逃げられて、お前を元気づけてやろうと思って紹介した、あの……」
団長曰く、ドレイク卿に女性を紹介したのは、後にも先にもそれ一回だけらしい。
ドレイク卿との友情をそれなりに大事にしている団長は、さすがにそこまで下世話にはなれなかったそうだ。
式当日に花嫁に逃げられるという衝撃的な事件の時だけ、激励とちょっとしたからかいのつもりで女性をすすめたとか。
「いわゆる初体験だったのだがな。それで女性にはまらなかった」
「……嘘です。私とのこと、身に覚えがないとは言わせませんよ」
女にはまらなかったなんて、そんな白々しい。マリアは思わず冷たい目でドレイク卿を見てしまった。
ドレイク卿の言葉が事実なら……自分との関係は何なのだ。
「嘘ではない。というよりも、貴女と関係を持って納得した。私は少々特殊な性癖持ちだ。初めての時は相手任せにして、それが満たされなかった――その性癖の自覚がないまま。だから自分は女性との行為に楽しみを見出せない人間なのだと思い込んでいた」
「なるほど……」
マリアも納得してしまった。
自分が主導権を握れるようになって初めて、自分の特殊性癖に自覚を持ち、それが楽しいと感じられるようになったわけか。
……そんな経験をさせてあげた相手になれて嬉しいとは思わないが。
むしろ、うっかりそんな扉を開かせてしまった我が身に、マリアは苦笑するしかなかった。




