名犬マサパン
その日のマサパンは様子がおかしかった。
よく晴れた日だというのに外に出たがることもなく、床に伏せって悲しげに鳴くばかり。餌をやってもいつもの半分しか口にせず……マリアは不安でたまらなくて、マサパンにずっと付き添っていた。
「老衰……というほどの年でもありませんよね」
明らかに元気をなくしているマサパンを撫でながら、ノアが言った。
「私たちと出会った時はまだ子犬だったから、たぶん、三歳ぐらいのはず」
「長旅で疲れたのかもしれん。キシリアへ来てから、はしゃぎ回っていたからな、彼女は」
伯爵はマリアを励ますようにそう言ったが、マリアは笑い返しながらも不安な気持ちを拭いされなかった。
キシリアで出会い、一緒にエンジェリクに渡って、またこうして一緒にキシリアへ帰って来た大事な友達。
ずっとマリアのことを守ってくれていた……これからも、マリアたちのそばでその元気な姿を見せてくれるものだと思い込んでいた……。
「もしかして、先日野盗に襲われた時どこか痛めたのかしら。私が気付かなかっただけで、本当は怪我を……」
マサパンの毛皮を丁寧に掻き分けて見て行くが、特にこれといった傷は見当たらない。もしかしたら目に見えないだけなのかもしれないが……。
その日の移動は馬車になった。
馬車に乗ってもマサパンは大人しく伏せっているばかりで、途中で馬車を降りて休憩することになっても、よたよたと馬車から降りてくると地面に伏せてしまい、動こうとしない。
天気も良く、心地よい風が吹いているのに、走り回ろうともしないなんて。
「マサパン。あなたともうお別れだなんて、そんなことないわよね?」
町に着いてからも、マサパンはよたよたと宿まで一緒に歩き、部屋に入るなりまた伏せてしまう。
そんなマサパンを撫でていた伯爵が、ふと手を止めた。
「……大人しい理由が分かったかもしれん」
むんずとマサパンの後ろ脚を掴んで、伯爵が言った。
伯爵が掴んだ後ろ脚――マサパンの固い肉球には、なかなか痛そうな木の棘が突き刺さっている。ぶちっと伯爵が棘を引っこ抜くと、マサパンが痛々しい鳴き声を上げ、自分の後ろ脚をペロペロと舐めていた。
――しかし、マサパンはそれから数分としない内に部屋の中を走り回り始めた。
「足が痛かっただけですか」
散歩へ連れて行けとせがむマサパンに、ノアが苦笑する。
ノアを引きずるようにして元気に散歩へ出て行ったマサパンは、帰って来るとむしゃむしゃと用意してあった餌を貪った。
「餌を食べないのも、動けず体力を使わなかったことが原因のようだな」
伯爵が笑って言った。
ペロリと自分の鼻を舐め、周りに心配をかけたことを気に留める様子もなくマサパンは愛らしい瞳をマリアに向ける。マリアがマサパンを撫でれば、尻尾を振っていた。
「マサパンらしいわ」
次の日にはすっかりいつも通りになったマサパンを連れて町を出ようとすると、マサパンはマリアを引っ張って走り出した。
どこへ行くのかとマリアがついていけば、何やら見覚えのある二人組に向かって真っ直ぐ走って行く。
「メレディス、シルビオ!」
大きな荷物を抱えた二人組に向かって声をかければ、二人が振り向いて目を丸くする。
王都ドラードの近くまで帰って来ていたのだが、どうやらメレディスたちもこの町に滞在していたらしい。
抱えた大荷物から察するに、二人も町を出ようとしていたのだろうか。
「マリア、君もこの町に来てたんだね」
再会を喜んでむぎゅっとマリアを抱きしめるメレディスに、シルビオが非難の声を上げた。
「おい。俺に荷物を押しつけて抜け駆けするな」
「すごい荷物ね」
シルビオが抱えている大荷物を見て、マリアが呟く。中身は絵だろうか。
「僕一人じゃ限界があるけど、シルビオがいると思うと心強くてつい」
ちょっと調子に乗っちゃった、と悪戯っぽく笑うメレディスに、マリアも笑った。シルビオからは二人揃って睨まれた。
マサパンとマリアを追いかけてきた伯爵も、メレディスとシルビオの姿を見てちょっと嫌そうにしている。
「元気になった途端、余計なものを発見してくれるな」
「相変わらず、大変優秀なことで」
ノアはかすかに笑っていた。
メレディス、シルビオと合流し、マリアはドラードへ帰ることになった。キシリアでの旅は終わり、エンジェリクへ戻る日が近づいていた。




