オルディス家の女 (2)
エンジェリクに着いてからも、マリアは男物の服を着ていた。男のふりをする必要はなくなっていたものの、単に動きやすいという理由で続けていたのだが……。
オフェリアにも男物の服を着せておけばよかったと後悔していた。
翌日も、いとこはオフェリアを狙っていた。
年の近い女の子、というのが恐らくオフェリアが狙われる理由だろう。マリアを始め召使いたちはいじめられたり、嫌がらせをされたりしているが、オフェリアに対しては特に執拗だ。
マリアもナタリアもできるだけオフェリアから離れないようにし、それに対していとこの腰巾着をしている侍女が何かとオフェリアから引き離そうとしてくる。
全て屁理屈で返してマリアはオフェリアのそばについているのだが、ほんの少し離れた隙でもいとこは妹を狙っていた。
「やだー!やめてよーっ!」
妹の悲鳴が聞こえ、マリアは持っていた掃除道具を放り出して部屋に飛び込む。
道具を取り行くだけなら自分ひとりでさっさと取ってきてしまったほうが早くて安全だと考えたのだが、そんな隙も見逃さず自分たちを監視しているなんて、呆れを通り越して感心してしまった。
「今日の牛役はあんたよ!」
オフェリアはカーテンに包まれ、もぞもぞともがいていた。そのそばで、太い木の棒を持ったいとこが仁王立ちになって笑っている。
言葉の意味が分かってマリアはゾっとした。肉を叩くという調理作業を、たしか見たことがある。相手が人間だから手加減するなんてこと、この頭の悪いいとこがやるわけがない。
渾身の力でマリアはいとこを突き飛ばす。背は低くとも横幅が倍もある相手に手加減など、こちらもできるはずがない。
横から不意をつけば、体格差のある相手でもバランスを崩すことはできる――ムスタファに襲われた後ノアから教えられた護身術が、まさかこんなところで役立つとは思わなかった。
「あ、あんた、私に、こんなことしていいと思ってるの!」
侍女を巻き込んで倒れたいとこは、仰向けになったまま怒り狂った。
……もしかして、起き上がれないのだろうか。
「楽しそうなことをなさっていたので、私も牛に成りきってみただけです。まさか、命の危機を感じた牛が、ただ大人しく屠られるのを待つと思っておられるのですか?キシリアでは牛と戦う競技がありますが、相手の人間も命がけで挑むものですよ」
重たいいとこの身体を何とか起こそうとする侍女を無視して、マリアはまだ捕まったままのオフェリアに駆け寄った。きつく結ばれたカーテン紐を解き、泣きじゃくる妹を慰める。
ようやく起き上がったいとこは、木の棒を握り直してマリアに振りかぶった。ほとんど反射的に、マリアは解いたばかりのカーテンを放り投げた。
腕にカーテンが絡まり、いとこは苛立って奇声を上げる。
「何をやってるんだ!」
昨日以来顔を合わせていなかったおじが、慌てた様子で部屋に入って来た。
そう言えば、マリアとオフェリアが掃除していたこの部屋はマスタールーム――つまり、おじの寝室であった。おじはマリア、オフェリアの前に立ち、いとこたちと向き合う。
少しだけ、マリアは意外に思った。
自分たちに背を向けたということは、おじは、いとこのほうが何かをしでかしたと考えているということだ。自分の娘なのに……。
「お嬢様から牛の役を命じられたので、牛らしく反撃していました」
マリアの言葉に、おじが顔色を変えた。
「マーガレット、その遊びは二度とやるなと言っただろう!」
マーガレットとは、いとこの名前だ。興味がないので知りもしなかった。父親に叱られ、いとこは反省するどころかさらに意地悪く顔を歪めている。
「うるさい!お母様に飼われている愚図の分際で、私に命令しないでよ!あんたなんかいつでもこの屋敷から追い出せるんだから!脳なしのごくつぶしなんか、さっさと死ね!」
口汚く罵るいとこの醜さと、父親への敬意のなさにマリアは驚かされた――もっと驚いたのは、これだけ罵倒されてもおじが反論しないこと。
娘には甘かったマリアの父親でも、こんな反抗は許さなかったと思う。
「エルザ、マーガレットの行動を諌めるのも君の役目だろう。マリアとオフェリアはただの居候じゃないし、あの遊びは召使い相手でも許されることじゃない。マーガレットがやろうとしたら止めるように、前から言っておいたはずだ」
「ご不満があるのでしたら奥様におっしゃってください。私たちは奥様とお嬢様――高貴なオルディス家の方々にお仕えしているのであって、婿養子風情の旦那様の指図は受けません」
エルザと呼ばれた侍女は平然と口答えし、後ろで他の腰巾着二人が陰湿に笑っている。
「なら余計に、マリアとオフェリアへの態度は改めるべきだ」
「そのお二人は、オルディス家を出ていった方の子です。奥様もそうおっしゃっていましたわ。一族として扱う必要はないと」
おじは苦々しい表情を取るばかりで、侍女を罰しもしない。黙り込むおじを、勝ち誇ったように見下しながらいとこと取り巻きの侍女たちは出ていった。
「……すまない、マリア、オフェリア。見ての通り、この屋敷の人間は私の言うことなんか聞きはしないんだ。屋敷を空けていることが多いせいもあるだろうが、もとは貴族とは名ばかりの貧乏な家柄の人間だったもので……」
「おじ様が謝ることなど何もありませんよ。屋敷に置いて頂けるだけでも十分ありがたいことですから。それはおじ様のおかげですし」
その言葉は偽りではなかったが、オフェリアを慰めるおじをマリアは冷ややかに見つめていた。おじは善良かもしれないが、自分たちを助けてくれることは期待しないほうがいい……。
それでもやはり、おじがいれば多少の抑止力にはなるだろう。先ほども、いとこが反撃をやめて退散したのはおじの登場があったからだ。昼過ぎにおじが屋敷を出て行った後、マリアは妹を一人にしないようさらに気を配った。
「あのー、マリア様、オフェリア様、それはどちらか一人でやって、もう一人は厨房へ来てほしいんですけど……」
取り込んだ洗濯物を片付けていると、マリアは侍女の一人からそう言われてしまった。いとこの腰巾着連中ではない。こちらの顔色を窺うようにオドオドとしている。
「もうすぐ終わるのだけれど、それでもいますぐ厨房へ行ったほうがいい?」
「もうすぐ終わるのなら、なおさらどっちかは厨房に来てください!食事の支度は急がないとまずいんですから!早めに済ませておかないと、お嬢様がお腹をすかせて騒ぎだしたら、どんな恐ろしいことになるか!」
話しながら恐怖に顔をひきつらせる彼女を、説得することはできないだろう。話し方から察するに教養もあまりないようだし、こういう人間に得意の屁理屈を並べてもぽかんとされるばかりで意味がない、ということぐらいはマリアも分かっていた。
一人で洗濯を片付けさせるか、他の召使いたちと一緒に厨房で働かせるか――悩む余地もなかった。
「オフェリア、あなたは先に厨房へ行っていなさい。私もすぐ片付けて向うわ」
マリアがあっさりと了承したことに、侍女はほっとしていた。いとこがあれでは、マリアやオフェリアに当たり前のことを口出しするのも勇気が必要だったに違いない。それについてはマリアも同情した。
ただ……場合によっては、いとこほどではないにしてもマリアも自己中心的に行動する必要があるかもしれない。無用な敵を作らないよう、いとこと腰巾着以外には最低限の礼儀を持って接していたが、結局は信用できないのだったら妹の安全を優先すべきだっただろうか。
最後は雑に――いや、ほとんど放り出すように洗濯物を片づけ、マリアは急いで厨房へ向かった。
「妹はどこ?」
厨房に着くとすぐに妹を探したが、マリアの懸念通りオフェリアの姿はない。忙しなく食事の準備をする召使いの一人を捕まえて問い詰めた。
「オフェリア様?ええっと、たしか、甕の水が残り少ないので、水汲みに行ってもらったような」
オフェリアを一人にしたくないのは、あくまでマリアの意向だ。召使いたちにその意図を察しろ理解しろ協力しろと言える立場ではないが、マリアが顔をしかめたのは仕方ないだろう。
マリアが機嫌を急降下させたことに気付いた召使いがまずいという顔をして口を開きかけたが、それを無視して井戸のある裏庭に向かった。
裏庭でオフェリアを見つけたとき、マリアは叫び出しそうになった。
水の入った重い桶を一所懸命引っ張り上げているオフェリアの背後に、いとこがいる。意地の悪いニヤニヤ顔で何を企んでいるのか、考える冷静さもマリアにはなかった。
もし、あの子がオフェリアの背を押したら……。
「オフェリア――!」
たまらず声を張り上げようとしたとき、バーンと近くの扉が開く音がした。びっくりしたいとこもオフェリアも音の方向に振り返る。
両手に空の桶を持った少女が、どうやら蹴飛ばして扉を開けたらしい。顔立ちは幼いが、背はマリアより高い。
少女の登場に気を取られたオフェリアは、引き上げかけていた桶を井戸の中へ落としてしまった。少女がそれを軽々と引き上げ、自分が持ってきた桶に水を入れていく。オフェリアの持っていた桶にも半分水を入れると、再び両手に持ってきた桶を持ち、にこりと笑った。
水がたっぷり入った桶がふたつ――決して軽くないはずだが、少女はそれぞれの手に提げている。
「手伝ってくれるの?」
オフェリアが聞くと、少女が頷いた。
「ベルダ!あんた、何してるの!?」
いとこの腰巾着が怒鳴ったが、ベルダと呼ばれた少女はにこにこと笑っている。
「ワタシ、働ク」
片言のエンジェリク語でベルダが返事をすれば、違う、と腰巾着が怒り狂った。
「自分の仕事をやりなさい!そいつを手伝うんじゃない!」
「ワタシ、働カナイ?」
怒鳴りつけられきょとんとしたベルダは何か思案するようなそぶりを見せた後、持っていた桶を豪快に放り投げる。水の入った桶が地面に叩きつけられ、ずぶ濡れになったいとこと腰巾着侍女たちが悲鳴を上げた。
「いい加減にしなさいよ!ふざけてるの!?」
「働カナイ、言ッタ!」
怒るいとこや侍女に対し、ベルダは開き直って怒鳴り返す。おそらくリーダー格であろう侍女が、言ってもムダよといさめた。
「言葉が通じないから分からないのよ。バカ過ぎて相手にするのもバカらしいわ。お嬢様、お召し替えに参りましょう。この女はあとで厳しく罰しておきます」
立ち去っていくいとこたちの後ろ姿を見送るベルダが、にやりと笑う。思わず傍観してしまったが、彼女がうまく立ち回ってくれたおかげであっさりと解決できたから有難い。自分では、こうはならなかっただろう。
「妹を助けてくれてありがとう」
マリアが姿を現すと、オフェリアが嬉しそうに飛びついてきた。
「気にしないでください。私もあいつら大っ嫌いだから、ちょっとすっきりしました」
オフェリアは目を丸くしてベルダを見つめた。いたずらっぽく笑うベルダに、マリアも笑い返す。
「エンジェリク語、上手なのね」
「そりゃエンジェリクでの生活も長くなりましたもん。あの人たちはバカだから、私がまだ言葉が分からないと思い込んでるんです。ちょっと考えれば、こんな都合よく言葉が分かったり分からなかったりするなんておかしいって、気付くはずなのに」
もう一度手際よく井戸から水を汲み、両手に桶を持ってベルダはマリアとオフェリアのほうに向いた。
「さ、行きましょう。二人でやればすぐ終わりますよ。私、結構力持ちですから」
「でも、あなただって自分の仕事が……」
「平気です。指示が分からなかったふりしてとぼけます」
悪びれることなく言い切ったベルダに、マリアも一瞬言葉を失ってしまった。それからふっと笑いがこぼれた。この屋敷へ来てから初めて、とても自然に笑顔になれたような気がした。
「賢いのね。私も、エンジェリク語が分からないふりをすべきだったわ」
なぜベルダが自分たちを助けてくれたのかは分からないが、とりあえず信頼しても良さそうだ。場合によっては、きっと彼女のほうが自分より機転が利くに違いない。
――やはり、頼りになる相手ができるというのは心強いものだ。マリアは改めてそう感じていた。




