-番外編- ララ=ルスラン
ララが目を覚ますと、自分を心配そうにのぞきこむアレクと目が合った。
「……っ!痛っ……あいつら、容赦なく殴ってくれやがって……」
身体を起こそうとすると、あちこちから痛みが襲ってくる。
奴隷船に乗り込み、荒っぽいことも覚悟はしていた。しかし、それにしても初日からずいぶん派手にやらかしてくれたものだ。
口の中には鉄の味が広がり、口もとが濡れているのは唾液なのか血液なのか、その区別もつかないほど。
「大丈夫だって。ちゃんと貞操は守ったから。てか、向こうの踏みつぶしてやったから、あちらさんのほうが再起不能になったんじゃないか……」
心配そうにしているアレクに、冗談めかしてそう言いながらララは笑う。
抑圧された男ばかりの船で何が起きるか、温室育ちのララでもそれはわかっていた。予想通り、見た目の好い男はそういう意味で狙われるもので。特に少年のアレクは格好の餌食だった。
戦士だった父親に鍛えられているとはいえ、大勢に狙われてはさすがのアレクもひとたまりがなく。
ボス格の奴隷に目を付けられたアレクを逃がし、ララは彼らが追いかけるのを防いで――この有様だ。
「初っ端から大当りだったな。逆に考えれば、反撃する体力と気力があるうちで良かったかもな。雑魚連中は、これで俺たちを襲おうなんて考えなくなっただろう」
まだ自分をじっと見つめるアレクの頭を、ララはポンポンと叩いた。
何も言わず、表情も変わらないが、なんとなく自分を心配してくれているような気がした。
父親を処刑され、目の前で姉を辱められたアレクは、言葉と表情を失っていた。感情までは失われていないようだが、表情豊かでララの手を焼かせた悪戯小僧は、すっかり物静かで大人しい少年へと変化していた。
その変化は痛々しくて。こんな成長は望んでいなかった。
「エンジェリクに着くまでの辛抱だ」
アレクを励ますように言ったその台詞は、自分自身に向けたものでもある。
――大丈夫。エンジェリクに着いたら助かる。
あまりにも楽観的で浅はかな考えだが、いまはそれにすがらないと、とても正気を保てそうにない 。
手酷い裏切りと別れが続くララの心を支えているのは、かつての婚約者の存在。
彼女が苦境に立たされた時に、自分は何も助けようとしなかった。それなのに。
マリアなら自分たちを助けてくれるだなんて、都合の良すぎる考え方だ。
それでも、わずかな希望にすがってこの絶望的な状況をララは耐えていた。
マリアと婚約したのは、ララがまだ七歳の時だった。
外国人の、それも異教徒の女。
どんな女なのかララは不安で堪らなかった――美貌の宰相というあだ名がついた父親にそっくりらしいので、見た目の方は密かに期待していたが。
キシリアという外国に渡ってララは自分の婚約者と顔を合わせ、ホッと胸を撫で下ろした。
マリア・デ・セレーナは、おっとりした見た目の、可愛らしい少女だった。実は気と我の強い中身だったが、ルチル教とは距離を置いていて、ララの信仰に口出しする意思はないようだ。
話も合うし、父親のクリスティアンもララを気に入ってくれたようだし、一人で遠い異国に婿入りしないといけない心細さはあったが、もともと自分はいずれどこかに婿に出される身。
外国で、マリアたち以上にララの意思と信仰を尊重してくれる場はないだろうし、国内で結婚となれば監視と制限を受けることになる。
いくら仲の良い兄弟とはいえ、少し前まで王になれない皇子は処刑される風習があったのだ。王位争いを防ぐため、王になれなかった皇子は、王となる皇子とハッキリと待遇に差がつけられる。
それを思えば、マリアとの結婚はかなり良い条件だ。
監視のない外国で、ララの意思は最大限に尊重してもらえる。さすがにエルゾ教の布教は禁じられたが、ララが個人的にエルゾ教徒としての信仰と教えを守る分には干渉しないと約束してくれた。
「おーい、マリア。一緒に遊びに行こうぜー」
キシリアでの生活に慣れるため、次期セレーナ家の当主に婿入りする勉強のため、ララは年に数度、キシリアへ来ていた。
勉強が終わればマリアと一緒に遊びに出かける。それがいつものことだった。
「最近あなたと遊んでばかりだから、オフェリアが拗ねちゃって。今日は妹と一緒に遊ぶ約束なの」
「えー。俺、明日にはチャコに帰るのに」
「ごめんなさい。よければララも一緒に遊んであげて」
えー、とまた不満げな声をあげながらも、ララはマリア、オフェリアのそばに座る。
ままごとに参加するララを見て、オフェリアが布を手に床をポンポンと叩く。そこに横になれということだろうか。
「私がママで、お姉ちゃまがパパなの。ララはばぶちゃんね」
「俺が赤ん坊役かよ」
と言いつつ、ララはごろんと横になる。
そんなララに、ベッドシーツをかけるようにオフェリアが布をかけ、幼子をあやすようにポンポンと叩いた。
その日はオフェリアの遊びに付き合い、ララは少しだけ不満だった。
明日にはチャコ帝国に帰ってしまい、しばらくマリアに会うことができない。
オフェリアのことは嫌いではないが、年が離れていることもあってマリアとララの会話についていけないことが多い。
仲間はずれにするとオフェリアは拗ねてしまうし、マリアはオフェリアを優先しがち。ゆっくりおしゃべりを楽しめない。
だから、ララはその夜、マリアの部屋に忍び込んだ。
「いくら婚約者と言っても、レディの部屋に、夜、訪ねて来るのはどうかと思うわよ」
そう言いながらも、マリアは自分のベッドに潜り込んでくるララを止めなかった。読んでいた本を置き、マリアもベッドに入った。
「良いじゃん。結婚することは決まってるんだし。責任?はちゃんと取るって」
「そういう問題じゃない気がするけど。まあ、いいわ」
蓋を開けてみれば、マリアとのお喋りなんて他愛もないことばかり。
キシリアのこと、帝国のこと、それぞれの生活のこと、家族のこと……。
文化も風習も何もかも違っているから、マリアの話を聞くのも楽しいし、ララも何でも話した。
マリアが話しているのを聞きながら、ララは不意に彼女の唇に見入ってしまった。
じっと見つめてくるララに、マリアも目を瞬かせた。
「どうしたの?」
「んー……あのさ、マリアってキスってしたことあるのか?」
「キシリアには挨拶のキスがあるけれど、それとは違うキスのこと?」
「そうそう、それ」
キシリアでは挨拶としてキスをする習慣があることはララも知っていた。頬や額、手の甲など。
最初はものすごく戸惑ったが、慣れてくれば何てことはない。ララも、マリアにしてもらったことや、マリアにしたことはある。
そっちじゃなくて、いわゆる男女の仲としてやるキスのことだ。
なぜそんなことが頭に浮かんだのかは分からない。ただなんとなく、聞いてみたくて。
「ないわよ。ララと婚約してるのに、他の男とするわけないじゃない」
そうだよな、と答えつつ、顔が熱くなるのをララは感じていた。
そうだよな……俺の婚約者なんだから、俺以外の相手とするわけないよな……。
「なあ、してみないか?」
「キスを?あなたと?」
マリアがちょっと考え込むようにララから視線を逸らす。しばらくララはマリアの返事を待った。
マリアは、ララに視線を戻したかと思うと、もぞりと動いてララの唇にちゅっとキスする。
ララは目を見開いた。ガバッと起き上がり、後ずさりして危うくベッドから転げ落ちそうになった。
「なにしてんだよ!?」
「してみないかって言ったのは、あなたじゃない」
「それは……でもこっちにも心の準備ってものがあってだな!」
男って面倒なのね、とマリアは眉を八の字にして言った。
顔どころか身体中が熱くて、心臓がバクバクとうるさい。頬や額、手の甲にするのと同じ――場所が唇に代わるだけで、なんてことないと思ってたのに。
予想以上に動揺する自分に、ララも驚きを隠せなかった。
パチリと目を開けると、今度は白くなりはじめた空が視界に飛び込んできた。
アレクと一緒に船の片隅に逃げ込んで夜を明かすうちに、いつの間にやら自分も眠っていたようだ。
まだはっきりとしない目をこすって眠気を振り払うと、手が濡れた。
……懐かしくも愛しい夢を見て、自分は涙を流していたらしい。
「アレク、起きろ。そろそろ船の仕事を始めないと、商人にまで目をつけられちまう」
自分にぴったりくっついて眠っていたアレクを起こし、ララが言った。
奴隷として、船の仕事も真面目にこなさなくてはならない。
目立たないよう気を付けてはいるが、商人もララたちが訳ありの奴隷であることは分かっているはずだ。これ以上注意を引かないようにしなくては。船の上では逃げ場がない。
――エンジェリクに着けば、すべて解決する。
そう何度も自分とアレクに言い聞かせ、屈辱も苦痛も耐えた。
そしてエンジェリクに着き、国の王都ウィンダムへと到着するとすぐ、ララはアレクと共に脱走を図った。
それまで商人たちに対しては従順に振る舞っていたララたちの逃亡――長く苦しい船旅の疲れも見せずに逃げたが、赤毛にチャコ人のララはどうしても目立つ。
ララはアレクと別行動を取ることにした。自分を囮にして、アレクだけでも逃げ延びてくれれば……。
守ってやれなくて、ごめんな。
商人たちに捕まった時、ララは心の中でそう呟いた。
国を出る時に、何があってもアレクを守ると決めたのに、ララは最後までそれを全うすることができなかった。婚約者の苦境も見捨てて、今度はアレクのことも……。
運良く逃げ延びて、どこかでマリアに会うことができたなら。自分のことを、マリアに伝えてほしい。それから、何の助けにもならなかった自分を許して欲しい……。
「ララ?あなた、ララなの?」
聞き覚えのある声が自分の名を呼ぶ。
幻聴かと思った。
自分に都合のいいことばかり考えるようにしていたから、ついに妄想と現実の区別がつかなくなったのかと。
顔にかかる髪を払いのけて自分の顔を覗き込むマリアの姿に、ララは自然と笑みがこぼれた。
声をかけようとしたのに、言葉が出てこなくて。
あの時、マリアに会うことができてどれほど嬉しかったことか……きっとマリアは分かっていない。
恩を着せるような性格でもないから、知りたいとも思っていないに違いない。
チャコ帝国へ帰れないことが確定し、ララは正式にマリアの従者となった。
二度と故郷へ帰れない事実に少しばかり胸は痛んだが、マリアの存在は大きな励みになった。
マリアも同じ――故郷へは帰らない。その決意を持って再びエンジェリクへ戻るマリアに、ララも最後までつき従う。迷いやためらいはなかった。
「おーい、マリア。いないのか?」
ミゲラ町長の屋敷、マリアに宛がわれた寝室で。
ララは扉をノックした。まだ日は高く、つい先ほどまでマリアは執務室で町長代理として仕事をしていた。
そんなマリアが休憩に行って来ると部屋を出たっきり戻って来ないので、マリアを探してララは彼女の寝室にまでやって来た。
ノックをしても返事はないが……たぶん彼女はここだ。
婚約者から従者に格下げになったが、マリアの部屋に出入りするにあたってはより気安い身分にはなった。
召使いの立場になると、逆に人間扱いされないため主人の部屋にも容易に立ち入ることができる。もちろん、マリアはララを召使い扱いはしなかったし、召使いだからと言って非人道的な扱いもしなかったが。
「やっぱりか。おい、起きろ。もうシエスタが必要な季節でもないだろ」
服を脱ぎ捨て、肌着だけでベッドに横になっているマリアを見つけ、ララは声をかけた。
キシリアにはシエスタという習慣がある。
特に日差しのきつい季節は、昼間働くなんて自殺行為だ。だから休息をしっかり取って、日差しが和らいだ時間にまたしっかりと働き出す。
とは言え、シエスタを日常的に取るのはだいたい夏の間だけ。もう冬も目前の季節になってまで、シエスタは必要ない。
……マリアの場合、夜遅くまで起きているから昼に寝る癖がなかなか抜けないのもある。
「ちゃんとお昼寝しないと病気になるわよ……」
薄らと目を開けて、マリアが言った。呆れてララが反論しようとしたが、マリアはすぐに瞼を閉じてしまう。
「おい。このままだと襲うぞ。そういう関係になったんだから、少しは俺にも恥じらうようにしとけ」
「いいわよ、別に。襲っても」
――こいつ、本当に悪い女になったよな。
ララはベッドに腰掛け、マリアの頬に口付けた。
「襲わねーよ。そういうことがしたくないわけじゃないが、俺にまで何かを差し出す必要はないんだ」
マリアの頭をぽんぽんと叩き、彼女が寛いで眠れるよう促す。
マリアが男と関係を持っている――それも、複数の男と。
その事実を知った時愕然としたし、憤然ともした。そして悲しくもなった。
変わらざるを得なかったのだ、マリアは。
自分たちを守ってくれた父親を喪い、代わりに守ってくれる男がマリアには必要で。
無償の愛情で見返りを求めることなく守ってくれていた父親と違い、彼らがマリアを守るのには、何かしらの理由や求めるものがあるからで。
だからマリアは、彼らが求めるものを差し出すしかなかった。
男たちを卑怯だとは思わない。
彼らもまた、マリアが求めるものをしっかりと差し出しているのだから。
救いの手を差し伸べようともしなかったララに、マリアも、男たちも、責める資格はない。
ただ……。
「ララ」
ララの手を取ったマリアが、自分の頬に触れさせる。緑色の瞳が、ララを真っ直ぐと見つめていた。
「良いのよ。襲って」
微笑みかけるその表情は、妖艶で、可憐で。
誰がそんなものを教え込んだのかと思うとチリチリと胸の奥で焦げ付くものがあった。マリアを抱き寄せ、その唇に口付ける。
マリアはララの初恋の相手で――本当は自分だけのものになるはずだったのに。
その想いだけは、どうしても抑えることはできなかった。




