ミゲラ奪還 (2)
真っ暗な川を、ほとんどノアにしがみついた状態でマリアは泳いだ。
ミゲラを取り囲む川はさほど深さもなく、流れも穏やか。
橋はついているが、人が泳いで渡ることは可能ではあった――それでも、この季節、日がすっかり暮れてしまった時間帯にずぶ濡れになるのは辛いものがある。
濡れた身体に冷たい風が吹きつけ、マリアは少しかじかむ指先を息を吐きかけてあたためた。
「このあたりは住居が密集していて、死角も多く、警備が手薄になりやすいはずよ」
ミゲラの町を歩いた幼い頃の記憶を手繰り寄せながら、マリアが言った。
身軽なアレクがノアを踏み台に、高い塀をジャンプで飛び越える。
軽々とやってみせたが、アレクの身体能力があるからこそできること――真似しようとか考えてはいけませんよ、とマリアはノアに説教されてしまった。
……まだ何も言っていないのに理不尽だ。身体が冷えていてはさすがに無理だろうと、マリアも考えていたのに。
飛び越えて行ったアレクは、警備を確認して向こう側からロープを垂らしてくる。マリアはノアにおぶさり、ノアはマリアを背中に抱えたままするすると登っていった。
降りるほうはマリア一人でもロープを伝えば何とかなるような気がしたが、時間がかかると見つかってしまいますから、とノアに説得され、大人しく彼におぶさった。
塀を登るためにくくりつけてあったロープをアレクが切り離して回収すると、マリアは町を見渡して二人に説明した。
「南に進んだところに、ギルドの寄合所になっている大きな建物があるの。各組合の長たちが集まる場所で、この状況ならいまも人が集まっていると思うわ。まずはそこへ行って、住民たちの説得から始めましょう」
ミゲラにも商売や職人などのギルド――組合が存在する。
まだミゲラがオレゴンのものになってから一年程度。町長や役人などはオレゴン人に乗っ取られているだろうが、ギルドのような組織は昔からミゲラに住んでいるキシリア人が多く残っているはず。
そしてホールデン伯爵が雇った傭兵に町を囲まれ、ガーランド商会によって物流を止められているいま、きっとギルドの長たちは絶えず住民の代表として今後の方針を相談し合っているに違いない。
彼らを説得できれば、町全体の風向きを変えることができる。
見回りの人間に気を付けながら、マリアは寄合所を目指した。
もしかしたら、ギルドの人間もマリアを敵と見なし、オレゴン兵に突き出してしまうかもしれない。その可能性は十分過ぎるほど有り得るが、それでもマリアは寄合所へ向かった。
マリアが予想した通り、寄合所には夜遅いこの時間にもまだ人はいた。
顔に見覚えはある。何十年とミゲラで暮らしてきたキシリア人たち……各ギルドの長たち……彼らは侵入者に気付くと一斉に警戒し、マリアの顔を見て目を丸くしていた。
「クリスティアン様……!?」
「いや、クリスティアン様は、もう……」
「ならセレーナの姫様だ!」
「そうだ。マリア様はクリスティアン様にそっくりだった……!」
父親そっくりのマリアの顔は、これ以上ないほどマリアの素性を証明してくれる。マリアが紹介も証明もせずとも、すぐに全員がマリアの正体に気付いた。
職人ギルドの組合長は、かつてミゲラの町長だったマリアの叔父と若い頃からの知り合いだ。マリアのこともよく知っている。
組合長は、その場を代表するようにマリアの前に進み出た。
「マリア様。ミゲラを取り囲むあの兵は、マリア様の仕業ですか」
マリアに詰め寄る組合長に、ノアやアレクが強く警戒する。
屈強な職人である彼なら、マリアの細い首をへし折るぐらい造作もないことだろう。だから二人が、マリアとの距離を詰めて来る彼に警戒する気持ちは分かるが……マリアは二人を止めるようにちらりと振り返ったあと、改めて組合長と向き合う。
「その通りです」
「もうひとつ。ペドロ様は、マリア様やオフェリア様を無事に逃がしたいクリスティアン様の意向を受け、町を挙げてフェルナンドに徹底抗戦を仕掛けた。最後には、オレゴンによって征服されてしまうことも承知の上で。それは事実なのですか?」
ピリピリと、痛いほど肌を突き刺す空気。それは住民たちの敵意のせいか、マリアを見据える視線のせいか――どちらであっても、マリアは嘘を付けない。
静かに頷いた。
「……よくぞ、ご無事であられました」
組合長は、マリアの手を取って強く握る。マリアを見つめる目には、涙が浮かんでいた。
「怒ってはいないのですか。私たち一族は、己の安全のために町を脅かしたのです。それなのに……」
「ミゲラは、セレーナ一族によって長年守られて来ました。クリスティアン様やペドロ様、多くの一族の方々が身命を賭してこの町を守って来たからこそ、今日まで栄えてきたのです。主に危機が迫った時――今度は我々が身命を賭してお守りする番です」
他の住人たちも、険しい表情、神妙な面持ちではあったが、組合長の言葉に同意するように頷いている。
ミゲラの人たちは、マリアたちを守るために戦い続け、そしてずっと待っていてくれた。
キシリア王が……セレーナの生き残りが、町を取り戻しに来てくれるのを。
熱いものが胸の奥からこみ上げて来るのを、マリアはグッと堪えた。
いまは泣いている場合ではない。
「町は必ず取り戻すわ。そのために、町の人たちを説得したいの。町を取り囲む兵士たちは、この町の物資を止めている。ガーランド商会が開門を待っているわ――町の人たちに届ける物資を持って」
「住民たちは、正直限界寸前です。町をご覧になったのならお気づきでしょうが、逃げ込んできたオレゴン兵が物資を独占してしまい、キシリア人を始め古くからこの町に住んでいる者たちは、食料や薬が不足しております」
「そうでしょうね。長引かせたくないわ。町の中から門を開けさせることはできる?」
「そのためにはやはり、マリア様ご自身に町の権利を取り戻していただく必要があります。王との誓約書、町の鍵……これらを手に入れていただかなくては」
町はそれぞれ、王と臣下の誓約を結んでいる。
中には自身の出身がどこであるかよりも、どこの王と町が臣下の誓約を結んでいるかを重要視する住民もいる。
本来は厳かな契約だ。王との契約を勝手に反故にすることは許されないことである。
それにこだわって、キシリア人であってもオレゴン王との臣下の誓約を守ろうとする住民もいるだろう。
だからマリアが誓約書を手に入れてしまい、誓約を無効にすれば、それにこだわる住民の意思を変えることができる。
そしてもう一つ。町の鍵――これは、ミゲラの門の鍵だ。
といってもこの鍵自体は飾りもので、別に門の開閉に直接関わりはない。この鍵は、所有していることに意味がある。
町の鍵は、代々ミゲラの町長が所有している。この鍵を奪ってしまえば町長としての権限を行使することができる。
もちろん、実際には住民の賛成、役人の認可など複雑な手続きを経て正式な町長になるのだが、とりあえずの建前はできる。
「町長としての証を手に入れ、マリア様が町の主としての正当性を主張してください。我々もマリア様を後押しする大義名分を手に入れることができますし、誓約に縛られがちな連中も動かすことができます。なにより、在住するオレゴン側の人間の行動に制限がかけれます」
「誓約書に、鍵……いまも役場にあるのかしら」
小さい頃に、叔父が説明してくれたのを見たことはある。その記憶を思い出しながら、マリアが聞いた。
「いいえ。キシリア王の軍隊が一度町に迫ったことで、いまの町長が住民の反乱を危惧しまして。自宅に持ち帰っているはずです」
「自宅。もしかして、叔父様が住んでいた屋敷に、いまの町長も?」
「はい」
前の町長も住んでいた屋敷に、いまの町長が。それは悪くない情報だ。
あの屋敷は、マリアも小さい頃に何度も遊びに行っていた。
あの屋敷には、要人の脱出用に隠し通路が作られていたりする。一族の正当な後継ぎであったマリアは当然そのことを教えられていたが、オレゴンの征服によって落下傘して来ただけの新参者の町長なら知らないかもしれない――教えてくれる相手がいないのだから。
「屋敷内への潜入は問題ないわ。でも、屋敷の前まで辿り着けるかどうか」
「そうでしょうね。マリア様はクリスティアン様にそっくりです。オレゴンの兵士の中には、先の宰相の顔を知っている者も少なくはありません。顔を見られたら、侵入者であることはすぐに発覚してしまうでしょう。しかし屋敷までの道は警戒が非常に厳しくなっており……」
組合長が黙り込む。すると、話を聞いていた住人たちが口を開き始めた。
「マリア様のために、我々が囮になるんだ」
住人の一人がそう言えば、周りも同意する。
「オレゴン兵士の横暴に腹を立てている者も多い。セレーナの姫様への協力はさておき、個人的怨恨での反抗を煽るのは難しくない」
「暴動が起きれば、それを抑えるために警備は手薄になる。屋敷内も警備の兵士がうろついていると聞いた。そいつらも減らせるかもしれない」
住人たちの中では、陽動のための暴動を起こすことは決定事項らしい。
口々に、どこでどう騒ぐか、誰を仲間に引き入れるか相談している。
「マリア様、我々は夜明けを待って騒動を起こします。それまでお休みください。といっても、寄合所の一室をお貸しする程度なのでベッドなどは用意できませんが」
「ありがとうございます。皆さん、お力添えは有難いのですが、どうかご自分たちの命を優先してくださいませ」
与えられた部屋は組合長の言ったようにベッドはなく、マリアは木の長椅子で休むことになった。
ノアから、休んでいてください、と言われたし、三人の中で一番足手まといになりやすいと言う自覚はある。大人しく甘えることにした。
「アレク君も休んでいてください」
アレクはふるふると首を振ったが、マリアも声をかける。
「いつも男の人と一緒に眠ってるから、そばに男性がいないと落ち着かないのよ」
「……と、いうことにしておいてください。どうぞ」
マリアとノアの両方に説得され、仕方なくアレクは長椅子にもたれかかるように床に座った。
マリアが横になれば、ちょうどアレクの顔がそばに来る。艶のあるアレクの髪を見つめながら、マリアはうとうととしていた。
アレクの手が、もぞもぞと動いている。手話でマリアに話しかけているようだ。
『あの人たちが、マリアを騙してオレゴン兵に突き出そうとしてるとか、考えたりしない?』
「その可能性を思い浮かべなかったことはないわ――いまも」
『そう……』
アレクが心配するのももっともだ。
マリアと顔見知りがほとんどだが、だからと言ってそれだけで信頼するのは危険だ――本来は。
だがマリアは、彼らを疑うつもりはなかった。
「アレクやノア様を巻き込んでいるのだから、あまり楽観的に構えるのもどうかとは思うのだけれど……きっと大丈夫よ」
『マリアが言うなら信じるよ。マリアは人を見る目があるし』
「信頼されるのは有難いけれど、信じられるかどうかより、信じたいかどうかで判断する人間だから、私。裏切られたって構わないって、そう思ってるの。自分が信じたくて勝手に信じたんだから、裏切られたとか、騙されたとか、そう恨むのは筋違いだって」
アレクの手が止まる。何やら考え込んでいるようだ。少し間を置いてから、また手話で話しかけてきた。
『信じるの怖くない?裏切られても平気?』
「平気ではないわ。裏切られるのは辛いし、悲しい。でも疑い続けるのも疲れるものよ。なら信じたい人を信じたほうが、自分も楽でしょ」
『……意外とマリアって、行き当たりばったり?』
「それはそうよ。私、まだまだ未熟だもの。あれやこれや考え込むより、行動してみたほうが手っ取り早かったことのほうが多いわ」
またアレクの手が止まった。横目でマリアを見るアレクの顔は苦笑しているような、呆れているような――なんだかんだララに似てるよね、と言われてしまった。




