祝福 (2)
マリアの部屋にナタリアを連れ込み、彼女の身支度を手伝う。
新品の自分の寝衣を着させ、ドレッサーの前に座らせてマリアがナタリアの髪を梳く。
主人に自分の世話をさせることにナタリアは抵抗していたが、じゃあ命令するわ、とマリアは無理やり了承させた。
今夜、デイビッド・リースはオルディス邸に泊まる。
というより、ガーランド商会の従業員寮を引き払って、彼もオルディス邸で暮らすことになった。
いずれ別に住居を持ってそこでナタリアと暮らすことになるかもしれないが、従業員寮にナタリアを連れ込ませるわけにもいかないので。当面は、オルディス邸でナタリアと共に同居だ。
「あなたの幸せそうな姿、きっとカタリナも喜んでいるわ」
セレーナ家への忠誠のために命を落とした、ナタリアの母。カタリナの名に、涙腺が緩んでいるナタリアの目尻に涙が溜まっていく。
マリアは優しく笑った。
「デイビッドさんのところに行くまでには、涙を拭いておくのよ。あの人、そそっかしいから。あなたが泣いてるのを見たら、自分との結婚が嫌だったからかも、なんて勘違いしそう」
マリアの言葉に、涙を浮かべたままナタリアも笑った。
唯一の肉親と、もう二度と会うことはできないと決意を固めて共に故郷を逃げ出してきたナタリア。
幸せになってくれて本当に嬉しい。ナタリアの髪を梳きながら、マリアは心の底から彼女の幸せを祝福していた。
「マスターズ様のこと、どうしましょう……」
「私のほうから伝えておくわ。もともと私が焚きつけたようなものだし、私が話をすべきでしょう。きっと分かってくれるわよ。マスターズ様も良い人だもの」
ジェラルド・ドレイク警視総監の部下アレン・マスターズは、ナタリアに横恋慕していた。最初から恋人がいると分かっていての恋心だったし、恐らく彼も理解してはくれるだろう。
デイビッドとナタリアの関係を進展させるために、彼の想いを利用したところはあった。それについては申し訳ないと思っているし、マリアにも責任がある。誠実に打ち明けておくべきだ。
「あなたは、デイビッドさんと幸せになることだけを考えてなさい。ほら」
ナタリアの手を引っ張り、デイビッドが待つ部屋へ行く。
扉をノックすると、「うひゃぁい!」と声を裏返してデイビッドが返事をした。そっと扉を開いたデイビッドは、清楚な寝衣に着替えたナタリアにぽーっと見惚れていた。
「ナタリアをよろしくお願いします。この子を悲しませるようなことをしたら、例えデイビッドさんでも許しませんからね」
「は、はい!一生をかけて、大切にします!」
顔を真っ赤にしながら、デイビッドは深々とマリアに頭を下げる。
そこまでしなくても、とマリアは笑い、ナタリアを部屋に送り込んで扉に閉めた。
家族も同然だったナタリア――幸せなのに、少し胸が痛い。そんな複雑な自分の内心に苦笑しながら、マリアは別の部屋へ向かった。
今夜は、メレディスも屋敷に泊まっていた。
与えられた客室で、メレディスはまた絵を描いている。
以前は自分の部屋に画材道具や描き上げた作品をすべて保管していたのだが、火事でそれらを一気に失うという経験をして以来、メレディスはオルディス邸にも道具類を分散して保管していた。
メレディスは、礼装のままオフェリアの誕生日パーティーに来てくれたウォルトン団長の姿を思い出しながら描いている。
「今日の男装はとても美しかったって、皆が言ってたよ。今度はその姿でモデルになってね」
部屋に入って来たマリアを見るなり、メレディスが言った。マリアは苦笑する。
ベッドに腰掛け、マリアはメレディスが絵を描き終えるのを待っていた。
「そう言えば、伯爵ってプラント侯爵のことを調べてたんだよね。キシリアへの武器流出の件、真相はわかりそう?」
「残念ながら、思った以上に厄介な相手が絡んでいそうなの。そのせいで、伯爵ですら手を引かざるを得なくて」
キシリアへの武器流出――決して忘れたわけではない。
オレゴンとの戦に挑もうとするキシリアの王ロランドにとって、最大の懸念となるはずなのだから。
だがその一件、問題はエンジェリクとキシリアだけに留まらないかもしれない。
「関わっている人間の中に、教皇庁の関係者がいるんですって」
「宗教絡みか。それじゃあ伯爵が手を引くのも無理はない。王権すら通用しない相手だ」
思ったよりも厄介で、複雑な事情を抱えていそうだ。キシリアからの情報を待ったほうがいいかもしれない。
――まったく、聖職者というものは、本当に鬱陶しい連中だ。
マリアがこぼせば、メレディスが苦笑した。
「そう言えば、先代のキシリア王トリスタンは大の修道士嫌いだったね。マリアも、そういったところは王をリスペクトしてるのかな」
「ええ。私も坊主は大っ嫌い。教会とも絶賛喧嘩中よ」
ロランドの父王トリスタンは、隣国オレゴンとの戦争に何かと口出ししてくる教皇庁と反発し合い、坊主嫌いを公言してはばからなかった。
僧に対して敬意を払おうとしないトリスタン王のことを、修道士たちも苦々しく思っており……。
そんな中、キシリアを大きな災厄が襲った。
――黒死病である。
「修道士の一人が言ったの。この災厄は、不遜なトリスタン王に怒る神が下した罰だと。その修道士は王によって火あぶりにされた――自分に敬意を払わぬからと罪のない多くのキシリアの民を命を奪い、私の母の命を奪ったと言うのなら、そんな神を尊敬なんかしないと……そう、私に誓わせたわ」
いまでも、あの時の悔しさと怒りはよく覚えている。
愛する母を奪っていった傲慢な神に、自分は頭を下げたりしない。マリアに強い決意をさせた。
いつの間にかマリアの隣に座っていたメレディスが、そっと自分を抱き寄せる。メレディスの肩にもたれかかり、マリアは昔のことを思い出していた。
母が亡くなった時のことは、なるべく思い出さないようにしていた。まだマリアは五歳で……オフェリアは、顔すら覚えていられないような年で……。
「私は、母の最期に立ち会うこともできなかったの。美しかった頃の姿だけ覚えていればいいと言われて、亡くなった後も対面させてもらえなかった……。当時は悲しくて堪らなくて泣き喚いて抵抗したものだけれど、いまならそれで良かったのだと思えるわ。私の記憶にある母の姿は、どれも美しく……優しく微笑んでいるものばかりで……」
マリアは深く溜息をつく。
やっぱり、自分もまだまだだ。母のことを思い出しただけで、声が震えてしまう。
それきり黙り込んでしまったマリアに、メレディスは何も言わなかった。
「……あのね、メレディス。あなたに相談したいことがあったの。あなたのお兄様のこと」
我慢しきれず話題を変えるマリアに、メレディスはうん、と相槌を打つ。
「ドレイク警視総監が、主席判事に誰か推したい人間はいないかとおっしゃってくださって……。メレディスのお兄様は、優秀な判事よね?」
「そうだね。さすがにキャリアが違い過ぎて父ほどではないけれど。それでも、十二分に優秀だと思うよ」
「私、主席判事にアルフレッド・マクファーレン伯はどうかと思っているの。それで、身近にいて、彼のことをよく知っているあなたの意見を聞きたくて」
メレディスとアルフレッドの父ジョージ・マクファーレンは、判事としては優秀な人物だった。その息子ならば、主席判事として推薦されても周囲も納得するだろう。アルフレッドは、宰相嫌いだった父親とは異なっているようだし……。
「うーん……僕は兄のことが好きだから、どうしても身内の贔屓目が入っちゃうけど……でも、悪くないんじゃないかな。もともとマクファーレン家は中立派だったし。王妃派というより、フォレスター候への個人的怨恨から対立していただけで。チャールズ王子とエヴェリー侯爵令嬢の婚約が解消されたのなら、もう王妃派に肩入れする理由もないだろう」
メレディスが考えながら言った。
「メレディスのお義姉様の生家は、エヴェリー家と親戚だったわね」
「そう。遠縁だけどね。エヴェリー侯爵と兄さんの仲も決して悪くはなかったはず。でもチャールズ王子はアップルトン男爵令嬢と親密にしてるんだろう?なら侯爵がチャールズ王子に肩入れする理由もなくなるし、兄さんも君と対立したいとは考えないよきっと」
「なら私、やっぱりアルフレッド様を主席判事に推すわ」
そしてできることなら、ヒューバート王子のおかげで彼が推薦されたように見せかけたい。
ちょうどトリスタン王に関連して、彼の王が判官選びを行った際の逸話も思い出した。それを利用するためには、周囲の協力が必要だ。
「ねえ、メレディス。あなたから、お兄様にお願いすることってできる?」
甘えるようにマリアが言えば、メレディスがまた苦笑した。
「僕、一応家を出た人間なんだけど」
「お願い。どうしてもヒューバート殿下の手柄にしたいの。そのためにも、アルフレッド様の予定を確実なものにしないと」
上目遣いで小首を傾げて頼んでみれば、メレディスはまんざらでもなさそう笑った。でも了承はしてくれない。
「じゃあ、僕が兄に頼む代わりに、マリアも僕の頼みを聞いて」
「なあに?」
「ヌードが描きたい」
「却下」
即答するマリアに、メレディスも、なら僕も聞かない、と即座に返す。
「なんでそんなにヌードを描きたがるのよ。絵の題材なら、他にもたくさんあるじゃない」
「人物画の基本と言えば、やっぱりヌードだし。特に、君の美しさはよく知ってるから……。着飾ったりしなくても、ありのままの姿でも美しい君の姿を描きたいんだよ。大好きな君のことは、何枚描いても満足できないんだ」
「……セールストークの腕も上げちゃって」
メレディスの絵描きとしての知名度も上がり、仕事も増えた――それに伴い、お世辞のレベルも上がったような気がする。
お世辞じゃないよ、とメレディスは笑うけれど。
「……誰にも見せない?」
「それはちょっと……約束できないかも」
メレディスが気まずそうに目を逸らす。
「僕、絵に関してはすぐ自慢したくなる性格で……黙ってられる自信はないかな……。マリアのヌード、欲しがってる人はたくさんいて……絵描きとしての仕事は、あんまり断りたくないし」
自分のヌード絵なんかを欲しがりそうな人たち――心当たりばっかりで、マリアは顔をしかめた。
「言えば直接見せてあげるのに。どうして絵にして所有したがるのかしら」
「なら彼らのヌードも描いて、マリアにあげようか?」
メレディスが冗談めかして言ったが、それ面白いかも、とマリアは目を輝かせる。
逞しくもバランスの良い男性たちの身体が、いつでも自分の好きな時に見れる――魅力的な提案かもしれない。
「えっ……あれ、僕、余計なこと言った?」
「でも保管場所に困るわね。オフェリアに見られるといけないから、この屋敷には置いておけないし」
それに、触れないならつまらない。
そういう結論に落ち着き、男性陣のヌード絵はとりあえず遠慮しておくことにした。
自分のことを好きなだけ描いてもいいからマリアのこともたくさん描いてくれ、と言い出しそうな人もいるし。身の安全のためにもやめておこう。




