エンジェリクの王族 (5)
王の言葉に逆らうわけにもいかず、マリアは渋々彼についていった。
王のための部屋の前で、宰相やララ、王を護衛する騎士たちは足を止める。入室できるのは、マリアと王だけ……。
長椅子を勧められ、マリアは露骨に顔をしかめた。王は愉快そうに笑う。
「そこまであからさまに警戒されると、かえって愉快になるものだな。よい。そなたの不満げな顔は悪くない。マリアンナも、余に対しては遠慮のないところがあった」
そう話す王の視線の先には、肖像画が二枚飾ってあった。女性と、少年。どちらも目がマリアと同じだ。
「マリアンナと、息子のエドガーだ。本当に目元はそっくりな一族だ。オルディス家の血筋というのは強いものだな」
王が長椅子に腰かける。さりげなく距離を取りつつ、マリアも肖像画を眺めた。
あの肖像画は、この長椅子に座った時よく見える位置に飾ってある。だから、王がマリアの隣に来ることもそう不自然ではなかった。
……あの絵を眺めるために、ここに椅子を置いているのだろう。
「こうして見ると、エドガー王子はやはりヒューバート殿下に似ております」
世辞ではなく、本心からマリアは言った。
エドガー王子とヒューバート王子が似ている……というより、二人とも父親に雰囲気がそっくりだ。だから、この兄弟も似通っていて当然……。
ふと、マリアはおかしな感覚に囚われた。
チャールズ王子は、二人の兄王子に比べると異質な気がする。似てはいるのだが、何か雰囲気が違うというか……適切な表現が思いつかないが、とにかく、ヒューバート王子、エドガー王子とは何かが異なっている。
だから王は、ヒューバート王子には父親としての情を見せても、チャールズ王子に対しては冷淡なのだろうか。
――きっと、いまのマリアには、口に出して指摘することもできない疑問だろう。
「エドガーは聡明で、余に似ず明るく利発な子であった。そのエドガーに似ているのなら、ヒューバートは有望な王子であるということだな」
他人事のような口調であったが、王にも自覚があるようだった。
「久しぶりに顔を合わせたが、ますます母親に似てきたものだ。余に似るより、そのほうがよほど良い」
「そのように自虐なさらずとも。やはり親子です。今日、謁見の間で並ぶお二人の姿は、とてもよく似ていらっしゃいました。ヒューバート殿下は陛下に悪感情を持っておられぬご様子。この機会に、歩み寄ってみてはいかがです?」
さすがに親子として健全な絆や愛情があるわけではないが、ヒューバート王子は父親にさほど悪い印象を抱いてはいない。
少なくとも、二人には王族としての責任感と自覚を抱いているという共通点がある。王族としての在り方、考え方が異なっているチャールズ王子より、いっそこちらのほうがまともな親子関係を築けるのではないか。
マリアは本心からそう思った。
ヒューバート王子に歩み寄る。
それは、王の心をひどく揺さぶったらしい。黙り込み、考え込んでいる王に、マリアは微笑みかける。
「もし良ければ、絵描きを一人紹介します。ここに飾るヒューバート王子の絵を依頼して――それを口実に、殿下とお話をされてみては?」
「……そうだな。その提案を、有難く受け入れさせてもらおう。ヒューバートも了承してくれるかは分からぬが」
こうして話してみると、エンジェリクの王も実に人間らしく悩む御方だ。初めて会った時は、彼のことを、遠い……どこか別次元に生きる人間のように見えたというのに。
しかし、忘れたわけではない。王もただの人間であったことを証明するように、彼は、暗く底の見えない執着心を持っている。
モニカに叩かれた頬に、王が手を伸ばす。その手を払いのける……わけにはいかないだろう、やっぱり。
王相手に色恋沙汰の駆け引きをしたくはないので、なるべく接触しない方針を取りたかった。王のほうは、全力でマリアとの駆け引きに興じるつもりのようだ。
「陛下。私、妻帯者はお断りしたいのですが」
「パトリシアと離婚して、そなたを妃にせよと言うことか?それも一興かもしれん」
絶対に王妃になどなりたくないマリアの思惑に気付いている王は、笑い飛ばした。
「余には、パトリシアを王妃にしておかなくてはならない理由がある。その秘密を探るため、余を誑かしてみてはどうだ。存外、余も閨では口が軽くなるかもしれないぞ」
挑発するような王の言葉は、これ以上ないほどマリアには効果的だった。
パトリシア・レミントンを王妃にしなくてはならない、その秘密。それは王妃派やチャールズ王子にとって、何か致命的なものであるような気がして。
長椅子に押し倒して自分に覆いかぶさってくる王に、マリアは思わず抵抗を弱めてしまった。とっさに王の身体を押し返そうと手を伸ばしたものの、ほとんど力が入っていない。
わざと脱がしにくい男物の服を選んで着ているというのに、王がゆっくりと脱がしにかかるのも止めなかった。
露わになったマリアの白い首筋に王が顔を埋めて来る。
押し返そうと王の胸元を押す手を、そのまま王の首に回してしまいたい衝動に駆られた――。
突然、部屋に誰かが飛び込んできた。今日は乱入者が多い日だ。
「何を……エステル!?」
飛び込んできた女性にポカポカと殴られながら、相手を確認した王は驚いていた。
あのぼんやりとした表情が特徴的だったエステルが、キッと王を見据えて睨み、手で滅多打ちにしている。
エステルの登場に王が驚いて身体を起こすと、エステルはマリアの腕をぐいぐい引っ張った。
もしかして、マリアを助けようとしてくれたのだろうか。
「申し訳ございません、陛下。エステル様は、公爵のことが大変気に入られたご様子で。陛下が彼女に悪さをしていると勘違いしているのです」
「ポーラか……」
さっきもエステルと一緒にいた侍女が、ころころと笑いながら王に話しかける。
あの侍女は王妃に対しては縮こまっていたというのに、王に対してはずいぶんと気安い態度で。
侍女と王の顔を見ていたマリアの腕を、エステルがまだ引っ張っていた。
「エステル様の大切な御方に、無体な真似はどうか……」
余裕たっぷりに微笑む侍女に、王も自嘲めいた笑みを返す。
エステルはぎゅうっとマリアの腕をつかみ、獣が敵に向かって警戒するように歯をむき出しにして唸っている。エンジェリクの王に、その敵意を隠すことすらしていない。
それなのに王はそれを咎めず、侍女も平然としている。
「……エステルが出てきたとあっては、余が引き下がるしかないな。オルディス公爵よ、大事ないようで安心した。行くがよい」
「恐れ入ります」
頭を下げ、腕にくっついたままのエステル、意味ありげに笑うポーラと共に、マリアは部屋を出た。
部屋を出てすぐに、血の気の引いた顔をしたララが心配そうに駆け寄ってきて、宰相、ペンバートン公爵夫人もあとからやって来た。
「エステルが、あなたに助けてくれたお礼をしたくて追いかけて来たのよ」
「それで私と出会い、事情を話してエステル様に突撃していただいた。エステル様は、陛下の泣き所だからな」
公爵夫人と宰相が説明する。マリアは、まだ腕にくっついているエステルを見た。
ぼんやりとした表情だが、目はじっとマリアを見つめている。自分の何をそんなに気に入ってくれたのかは分からないが、助かったのは事実。
マリアはにっこりと微笑み、ありがとうございました、と礼を言った。
途端、ポッと顔を赤らめ、エステルがマリアから離れた。ポーラの後ろに隠れてしまったエステルは、それでもちらりと顔をのぞかせてマリアを見る。
「あなたの美貌も、なかなか罪つくりね」
公爵夫人が陽気に笑い、マリアは苦笑するしかなかった。
「ですが、本当に助かりました。私、まんまと王のペースに乗せられるところでしたから。陛下は人の心を動かすのがお上手です」
「侮るなと言っただろう。貴女の年齢以上の年月を王として過ごしてきたのだ。人心掌握の術は心得ていらっしゃる。生半可な覚悟では、陛下を手玉に取ることはできぬぞ」
宰相の言葉に、痛感しました、とマリアは同意した。
宰相と話していると、つんつんとマリアの服の裾が引っ張られた。視線をやれば、エステルだった。おずおずと、マリアに向かって、細やかな刺繍が施されたハンカチを差し出してくる。
「エステル様が縫ったものです。助けてくださったお礼に、それを贈りたかったみたいで」
ハンカチを受け取り、ありがとうございます、と再度礼を述べる。エステルはまたポーラのうしろに隠れてしまった。
「オルディス公爵の助けになれたのなら、これ以上喜ばしいことはありませんわ。もしよろしければ、これからもエステル様と親しくしてくださいませ」
ポーラ、エステルの二人とは、そこで別れた。ヒューバート王子のように、二人もあまり人前に姿を出さないように暮らしているらしい――公爵夫人と共に出口に向かって廊下を歩きながら、そのような話を聞かされた。
「王妃パトリシアが、エステルの存在を隠したがっているの。と言っても、本当に隠すことは不可能なのだけれど。普段は、エステルという娘はいない者として扱っているわ」
「陛下は、エステル様を可愛がっているご様子でした」
意味ありげに公爵夫人が笑ったが、マリア自身も、たぶん可愛がっているというのは違うな、と感じていた。
……いまは、あれこれ詮索しても仕方がない。パトリシア王妃を手放せない理由も、エステルと王の関係も、いまのマリアでは知ることもできないのだから。
王、公爵夫人、宰相……事情を知っていそうな相手はみな、マリアよりも老練した人間。そう簡単には秘密を漏らすまい。
あのポーラという侍女も、恐らくは。初対面のおどおどした姿は偽り。王と対峙しても余裕で微笑んで見せるあの姿こそが本性なら、あれも一筋縄ではいかない相手だろう。
馬車に乗り込む公爵夫人を見送り、マリアも帰路につくことにした。
「おまえの身内って、やたらと王族に好かれるよな」
御者席ではなく馬車の中に同乗したララが、しみじみと同情するように言った。
「おまえは国王、オフェリアはヒューバート王子。おまえの親父さんも、キシリア王にえらく執着されてたし」
マリアの父に執着していたキシリア王とは、いまのキシリアの王ロランドではなく、その父王トリスタンのほうだ。
実の父から冷遇され、腹違いの兄と王位を巡る争いをしてきたトリスタンは、心から信頼できる人間が少なかった。その数少ない人間がマリアの父クリスティアン――トリスタンとは幼少からの友人でもあり、即位後も宰相として王を支え続けてきたクリスティアンは、王から強い信頼と寵愛を受けていて……父の美貌では、王との関係に怪しげな噂も出て来るもので……。
「親父さんのほうはノーマルだったけど、トリスタン王のほうはアウトだろ、あれ。親父さんに生き写しって理由でおまえを妃にしようとしたり」
さすがに幼馴染みのララは、マリアが目を逸らしたくなる過去もよく知っている。
トリスタン王は、ロランドの実母である王妃と死別している。その後、長い間独り身を貫いていたのだが……執着するクリスティアンにそっくりな娘のマリアを、後添えとして迎えようとしたらしい。
そんなふざけた理由で娘を奪われてなるものかとクリスティアンが断固として反対し、皇子という身分の婚約者をあてがうほどに。
「王に愛されるってのも、良いこととは限らねーよな」
冗談めかして話していたが、ララの言葉にマリアは苦笑するしかなかった。
彼の言う通り、国の頂点に立つ男に執着されたところで、苦労が絶えないばかりだ……。




