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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第一部01 故郷からの逃亡
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選べないこと (2)


伯爵の言った通り、次の日は殺人的なほど忙しかった。

実は昨日伯爵に会った直前ぐらいに出港の日取りが決まったようで、マリアを休ませてしまったことを後悔しているような旨をリースは漏らしていた。


おかげで間もなく故郷を離れるというのに、悲しむ余裕すらマリアにはなかった。


「クリス、頼む、来てくれ!あの爺さん、訛りが酷過ぎて何を言ってるのかわからないんだ!」


リースと共に書類整理に追われていたマリアは、テッド――初めて会った時マリアの申し出に否定的だった眼鏡の青年――に呼び止められた。


「あの壺は……で……なのだ!わしは……!」


テッドに代わってマリアがキシリア人の老人客の対応にあたったが、マリアでも半分ぐらい何を言っているのか聞き取れない。訛りも酷いがそれ以上に早口で、しかもかなりどうでもいいことをまくし立てている。

とりあえず聞き取れたことを頭の中で整理し、リースに声をかけた。


「あの壺は高価なものなので、ぜひわしに譲ってくれと。わしにこそ相応しいのだ異論は認めんと言って財布を振り回してます」

「え。あのクズ入れですか?」


リースが指差した物を見て、マリアも頷いた。

怪しげな装飾品をジャラジャラと身に着けた老人は、リースたちがクズ入れ代わりに使っている壺が欲しいらしい。


「なに……で……もう……じゃ!」

「えーっと、意訳すると、これでも足りんのか持ってけ泥棒!だそうです」


財布を振り回す老人から距離を取りつつ、マリアは翻訳を続けた。リースは困惑しながら老人の財布と壺を眺めている。


「何かと勘違いされていませんか?この壺、何の価値もありませんよ?こちらできちんと鑑定していますから、間違いは――」

「!!!!!!」


意味不明の言葉でわめき散らす老人に、リースものけぞった。彼もマリアと同じことを感じたに違いない。

――刺激すると危険だ。


「わかりました。じゃあ、新しいクズ入れの購入代としてお金は頂きます。いくら何でもそんなに受け取れませ――」


老人が振り回した財布は、リースの顔を直撃した。

倒れ込んだリースのかたわらを自分の身の丈の半分はありそうな大きなつぼを抱えて通り過ぎ、老人は満足そうに店を出て行った。

その後リースの介抱に当たっていたマリアたちは、迷惑な老人の遺物に気付くのに遅れてしまった。


「おい、あの爺さん財布落として行ってないか?」

「何やってんだ。壺に入れとけよ……」


散々振り回していた財布を、店の前に落としていったらしい。ずっしりとした重みがあり、中には銀貨や銅貨が詰まっていた。


「ちょっと探してきます。あの壺を抱えてたら、そう遠くには行けないでしょうから」


一番若いマリアが、使い走りに行くのは当然だった。

財布を片手に商会の人間に声をかけて行けば、やはりほとんどの人間が老人の姿を記憶していた――大きなつぼを抱えた老人が、これまたよぼよぼの駄馬に乗って町を出ていく姿を見た、と。


しかし、思った以上に老人の進みが早い。マリアが追いつけずにいると、町の出入り口から子犬とオフェリアが姿を現した。


「お兄様!」


マリアを見つけたオフェリアが抱きつき、それに追随するように子犬がマリアの足下を駆け回る。


「何してたんだい、オフェリア」

「町の外までこの子と一緒に散歩に行ってたの」


ナタリアと、チェザーレを始めとする馬番たちも一緒だ。後ろからぞろぞろと馬が続いている。


「キシリアを出たらしばらくは船の中だからな。町の外で馬たちを走らせてきたんだよ」

「この子とももうすぐお別れだから、一緒に遊びたくて」


子犬を抱きしめるオフェリアを、叱る気にはなれなかった。苦笑しながら妹の頭を撫で、マリアはチェザーレに声をかけた。


「町の外にいたのなら、壺を抱えて駄馬に乗る老人に出会いませんでしたか?財布を忘れたみたいで」

「こんぐらいのでっかい壺を持った爺さんか?それなら西の方によろよろ走って行くのを見たぞ」


町を出てしまったとなると、追いかけるのは厄介だ。マリアが悩んでいると、オフェリアが子犬を近づけた。


「その財布のにおいをかがせて、この子に追いかけさせればいいわ!」


名案を思いついたとばかりに瞳を輝かせるオフェリアに、マリアは失笑するしかなかった。ナタリアも困ったように笑っている。


「このにおいを覚えて追いかけるのよ」


オフェリアに言われた通り、老人が持っていた財布をクンクンと子犬は嗅いだ。それからオフェリアの腕を飛び出し、地面を嗅ぎまわって走っていく。


「クリス、せっかくだからリーリエに乗っていけよ。乗れる奴がいないもんだから走り足りないはずだし、おまえのことは気に入っているみたいだからちょうどいい」

「リーリエは有難く借りていきますが……」


呼ばれてマリアのもとへやって来たリーリエは、自分にあれを追いかけさせる気か、と言いたそうな怪訝な目をしていた――ように見えた。マリアの願望がそう思わせたのかもしれないが。


「お兄様、あんまり遠くへ行っちゃだめよ」


オフェリアに見送られながら、マリアは元気よく走っていく子犬を追いかけ、町の外へ出た。あの子犬はただ追いかけっこをして遊んでいるのではないかと疑いながら。




馬を走らせて数分、マリアは違和感を抱いていた。それなりに見晴らしの良い道なのに、大きな荷物を抱えた老人にまったく追いつけないのはおかしい。それに、マリアの知識が正しければこの先は林が広がるばかりで町や村などないはずだ。

地面のにおいを嗅ぎながらぐるぐるとその場を回る子犬に、マリアは近づいた。


「もう戻ろう。これ以上は遊ばないよ」


思っていたよりずっと、遠くまで来てしまった。こんなに町から離れることになるとは思わなかった――さすがに軽率過ぎた。

すぐ老人に追いつくものと思って追いかけてきたが、自分は一人で行動していい人間ではなかったのに……。


地面を嗅ぎまわっていた子犬が顔を上げた。声かけに反応したのかと思ったが、リーリエが小さく鼻を鳴らすのを見てマリアは彼女の頭を撫でる。


「どうしたの?なにか――」


リーリエの頭を撫でていた左腕に、ドスンと衝撃を受けた。バランスを崩して馬から転げ落ちそうになり、反射的に手綱を握っていた右手に力を込める。

おかげで地面に叩きつけられずにすんだが、左腕に走る痛みに耐えきれずマリアは絶叫した。


「きゃあああぁぁ!」


転落のはずみで左腕に刺さった矢が食い込み、肌を引き裂く。右手で手綱とリーリエをつかみ、倒れこむのは踏みとどまった。リーリエの背にもたれかかった状態でようやく、マリアは立っていた。

焼けつくような左腕の痛みにガタガタと震え、絞り出すように息を吐き出す。頭の中で何度も閃光が走り、ほんの刹那、気を失っていたようにも感じた。全身から噴き出す脂汗で、右手がリーリエから滑り落ちてしまいそうだった。


「間違いない。クリスティアン・デ・セレーナの娘だ」


聞こえてきた声に、ようやくマリアは顔を上げた。まだ焦点が定まらないが、馬に乗った数人の男たちがマリアを囲んでいる。ただの物盗りではないことは、彼らの見た目や言葉から分かった。

――そのへんの物盗りにしては、装備が上等過ぎる。


「クリスティアンの遺児なら、ご主人様は自分の手で始末をつけたいはずだ。生かしたまま連れていけ」

「首だけにしたほうが運ぶのは楽だぞ」


痛みで足に力が入らず、馬に乗るどころか自分で立っていることもできない。裂けた傷からは、真っ赤な血が滴り落ちていた。


マリアを狙った――あの老人も、こいつらが仕掛けた罠だった――考えなくてはいけないことがたくさんあるのに、意識がもうろうとして、考えがまとまらない。

いや、考えている場合じゃない……まずは逃げないと……逃げる方法を考えないと……。


「この血の量なら、どのみち連れていく間に死ぬだろう。いますぐ父親の下へ送ってやれ」


男たちの誰かが呟く。

その言葉に、マリアは全身の血がカッと熱くなるのを感じた。その一瞬で、震えも痛みも、すべてが消え去った。


「なんだこいつ!?」


ギャンギャンとけたたましく吠え叫び、子犬が男の一人に飛びかかる。 弓を持った男の馬に噛みついたようだ。驚かされた馬は嘶き、棹立ちになった。弓持ちの男は馬から放り出され、動揺は他の馬にも伝染していく。マリアの包囲網が弱まった。


その隙をついてマリアはリーリエに飛び乗り、馬を走らせた。子犬の痛々しい鳴き声が聞こえてきても、男たちが体勢を立て直す様子を感じても振り返らず、林の中に飛び込む。


うっそうとした林は視界が悪く、足元も頭上も障害物だらけ。しかしそれらはマリアの味方にもなる。ここでは弓を使えないし、物音を立てず近づいてくるのは不可能だ。乗馬の腕には自信がある。

私の死を望む奴らに、殺されてたまるものか――。


二度目のリーリエの警戒を、今度は見逃さなかった。リーリエの足を止め、周囲を警戒する。数メートル離れたところに、黒い人影が現れた。


「良い馬だ。それに、その馬に負けないほどおまえも良い腕をしている」


長い剣を持った青年は、笑いながらそう言った。

黒いマントを羽織り、大きな黒い馬に乗り、不敵に笑う彼は、マリアとさほど年齢は変わらないように見えた。だがマリアを見つめる目は、ノアと同じ――隙がない。

あの剣も見せかけのものではなく、相当使いこまれたものだろう。人を殺すことなど、きっと彼はためらわない。そう感じさせるオーラが彼にはあった。


「あんな年寄りのために死なせるのはもったいないな。おい、俺と勝負しろ」


マリアは一言も返事をしなかったが、青年は構わず話を続けた。


「三秒待ってやる。このまま北に向かって走れ。出口まで俺に追いつかれなければ殺さず見逃してやろう。いーち……」


言うが早いか、マリアは再びリーリエを走らせた。

あの青年の言葉がどこまで本気かはわからないが、自分に有利なチャンスを見過ごすつもりはない。

あの状態から、マリアに追いつくことはできないはず。あの黒い馬にどれほどのスピードがあるのかは知らないが、林の中で本気を出すことはできない。余計なことは考えず、追手を振り切ることにだけマリアは集中した。


青年の言った通り、林の出口は北にあった。日の光が差し込み、徐々に明るくなっていく。うしろから猛スピードで馬が走り込んでくる音が聞こえていた。あの青年が追っている。考えている余裕などなかった。

しかし林を出た途端、先ほどの男たちが飛び出してきてマリアを取り囲んだ。マリアが林を出て数秒差で、青年も後ろから現れた。


「すいませんねぇ、シルビオ様。話が聞こえたもんですから先回りさせてもらいました。シルビオ様が追い詰めてくれたおかげで助かりましたよ。手柄はわしらのものですがね」


背後の青年に気を取られていたせいで、他の男たちの包囲網に気付かなかった。

やはりそう甘くはいかなかった……。

それでも、マリアは男たちを真っ直ぐ見据えた。諦めるつもりはなかったし、何より、恐怖や不安をこいつらに見せてやるつもりもなかった。


「悪く思わんでください。どうせ、シルビオ様が手柄を立ててもご主人様は気にもしないでしょ。ならわしらの報酬にさせてくださいよ」


明らかに男たちのほうが年上にもかかわらず、青年にへりくだっている。内容は不遜なものだが、それでも一応の敬意を見せているということは、シルビオと呼ばれるこの青年は……。


「たしかに。俺が手柄を立てたところで、父上がいまさら俺を評価することはあるまい。手柄が欲しければ勝手にしろ」


青年はマリアを通り過ぎて、男たちに近づいた。


「だがな、俺の楽しみの邪魔はするなと言ったはずだ」


青年が、男を斬った。返す刀でもう一人。ほんの一瞬の出来事だった。

事態を飲み込めない男たちは、間抜け面でぽかんと口を開いている。マリアも息を呑んだ。彼の気迫と素早さに意をつかれ、身動きひとつ取れなかった――隙を狙って、逃げ出さなくてはいけなかったはずなのに。


「な、なにを――」

「うるさい」


あっという間に三人目が斬り捨てられる。四人目は恐れ慄いて凍りついている。五人目は、賢明にも逃げ出した。しかし、すぐに悲鳴が聞こえてくる。


「クリス君!」


男の悲鳴と共に聞こえてきた声に、マリアは振り返った。馬に乗ったノアが、血に濡れた剣を片手に走り込んできた。


「ノア様!」


マリアの声に、四人目の金縛りが解けたようだった。錯乱した彼は青年やノアではなく、マリアに向かって剣を振りかぶってきた。


「クリス君、伏せて!」


ノアの指示に、考えるより先に体を動かした。リーリエの背にピタッと張り付き、頭を下げる。頭上から、鈍い音が響いた。背中にボタリと生ぬるいものが降り注ぐ。

投げつけたノアの剣が、男の胸を貫いていた。

男から自分の剣を回収したノアは、マリアを背後に庇い青年と向き合う。


「おまえもなかなかの腕だな」


青年は抜き身の剣を自分の肩にかけ、気楽そうにノアに声をかけた。背後にいる自分でもわかるほど、ノアは殺気に満ちている。そんなノアに動じる様子も見せないとは、やはり恐ろしい男だ。


「悪いが、こいつらを殺したのはおまえだと報告させてもらう。さすがにバカ正直に話すわけにもいかないからな。俺もまだ命が惜しい」


そう言って、青年は剣を収めた。まだ刃先を向けるノアを笑う。


「こんな状況じゃなきゃ、おまえとも腕試ししてみたかったんだが――そいつをさっさと手当てしてやれ。興奮して忘れてるみたいだが、その出血量じゃ本当に死ぬぞ」


指摘されたマリアは、急に視界が暗くなるのを感じた。意識が遠のき、全身の力が抜けていく。倒れこむ自分を、ノアが抱きとめる。慌てたように自分を呼ぶノアの声を、聞いたような気がした……。


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