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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならのつづきは。
27/29

最終話

最終話です

二話連続更新 2/2

 グレゴールは客待ちの宿屋の主人に以前くすねておいた一枚の金貨を渡して、すぐさま川を渡る舟を用意させた。彼には時間がない。自分が姿を消したと思われる前にできるだけ遠くに逃げるのだ。それも、グイドット修道院の者がいない最果ての地に。


 船頭は風よけのフードを目深にかぶる腰の曲がった老人で、手つきもどこか危うかった。


「すまないが、急いでいる! 早く漕いでくれないか!」

「すみません」


 そう言いながらも、船頭の手つきは遅々、やがて川の中央で流されるがままとなる。船頭の背筋がすくっと伸びた。フードが取り払われ、グレゴールの眼が驚きのあまり丸くなる。


「師匠……」


 師と弟子は数年ぶりに顔を合わせることとなった。


「グレゴール。我々の修道院に帰ろう。罪は贖わなければならぬ」

「罪? どの罪のことでしょうか」

「すべて、だ。修道院の方でもお前のことをずっと追ってきた。何をやってきたのかはすでに知らされている。私もともに罰を受けよう。帰るのだ」

「誰も私を裁けないでしょう、師匠。せいぜい、一生幽閉されるぐらいのものです。……私が修道院を出る前と何も変わらないではないですか。ああ、それとも身体を切り刻まれて、聖遺物になる未来ですか。ですが、どう考えても何か奇蹟を起こすものではありませんよ。私の身体は罪で染まりきっているんです。私が死んだところで、全部塵にしかなりません」

「グレゴール。罪を告白し、懺悔するのだ。犠牲者たちのために主神に祈るのだ」

「なぜ主神に祈らなければならないのですか。私をあそこに縛り付けたのは主神です。そして、主神は罪を犯した私をも、今日まで生かしているのですよ。こちらは天罰がいつやってくるかと待っていたのですが、どうやら主神もまだ私を生きた聖人にしておきたいようです」


 弟子の歪んだ思想を聞かされた師匠は、自らの間違いを悟った。この弟子は無邪気な悪意の塊そのものなのだと。もはや戻れないところまで行ってしまった。


「確かにお前の身体は神秘そのものだ。男でもあるが、同時に女でもあり……神にもっとも近い人間だ。が、お前はとうとう悪魔の囁きに耳を貸してしまったのだな。どんな世であろうとも、人が人を傷つけるのは罪なことに違いない。私はどんなことをしてでもお前を止めに来た」


 グレゴールは荒んだ視線を師に投げた。


「師匠に私は止められません。だって、師匠。ここにはたったの二人きり……。師匠を河に突き落としてしまえば、もう一度逃げられますよ」


 ぎしぎしと舟が揺れた。


「……だったら、私も簡単に落とされるわけにはいかぬ」


 二人の男が舟の上で取っ組み合った。グレゴールは若さで師を圧倒したが、老人も死力を振り絞って抵抗した。


 最後、恐ろしく重い音とともに舟が転覆し、二人の身体は河に投げ出される。二人はなおも互いを沈めようともがいたが――同時に河の底に吸い込まれ、消えていった。









 スキウィアス女子修道院の最後の朝は、調度品がすべて燃えてしまった半壊の聖堂内での朝課と賛歌で終わってしまった。日の出とともに、修道女たちはそれぞれ新しい修道院へと旅立つのだ。大概は近郊にある別の女子修道院に数人ごとに別れ、特別な伝手がある者は遠くの修道院へ。


 寄付金を募って修道院の存続も検討されたが、たとえ存続したとしてもマルガレーテの幻視に関わる醜聞は消えない。グレゴールが行方知れずになった今、騒動にも修道院がなくなることで静かに幕引きをすべきだという意見が大勢を占めた。


 この後修道院の跡地がどうなるのかは未定であった。一時はヘドウィグ修道院のものになるかと思いきや、マティルダが手を回したのか、伯家の介入があり、他の修道院も利権を手に入れようと動き出したのだ。下手をすれば数十年は決着を見ないかもしれない。


 灰色の修道衣を着た修道女たちは、別々のところへ行く同胞たちに口々に「さよなら」と言い合っている。


 ユリアのところにもセプティミナに、バフィン、マルガレーテが挨拶に来た。マルガレーテはまだ薬が抜けていないのか、青白い顔のままだったけれど。


 ともにベレンガリアも行くというのでひとまずは大丈夫だろう。


 修道院長だったアデルバイトは、また一修道女からやり直すのだという。彼女は一人、遠くにある厳しい戒律の修道院に行くのだそうだ。


 彼女はもの言いたげにユリアを見ていたから、一言、大丈夫です、と告げた。


「アデルバイトさまこそ、お気をつけて」


 エレオノールはひとまず実家に戻るらしい。非常に鼻息が荒い。


「あなたが我が家に来たら、もてなしてもよくってよ!」

「……エレオノール。あなたは『謙虚』という言葉を胸に刻んでおきなさい」


 エレオノールの未来が心配になってきたユリアである。


 ある者は徒歩で、ある者は馬車の迎えでその場を去っていく。


 最後に、マティルダがやってきた。そしてユリアに渡される大きな包み。


 中を覗いてみれば、羽ペンやインク、そして、羊皮紙が何枚か。


「餞別ですよ、ユリア。これからも物を書くことがあるでしょうから。この羊皮紙は、つい先日長寿で天に召された『神の御光』のものも混ざっています。あの子はあなたに非常に懐いていましたから、あなたが使うのがもっとも喜ばれるでしょう。……いつか、あなたの本を読ませてくださいね」


 これにはユリアも感極まった。ユリアが守ってきた本はアッタの冊子も含め、すべて燃え尽きてしまったが、それでも人はまた何かを残すことができるのだ。ぼろぼろと泣きだすユリアを、マティルダは優しくハンカチで拭う。


「元気でやるのですよ」


 そして彼女も迎えに来た馬車に乗っていってしまった。


 ユリアは一人になった。


 最後に修道院を振り返る。もう誰もいない、戻ってこない日々。


 そのすべてに「さよなら」と呟いた。


 ユリアの荷物はマティルダにもらった包みの他は、少しの着替えぐらいのもので、後は着の身着のままである。町に向かって歩き始めれば、前方に人影が見えた。


「コンラート。見送りに来たの?」

「……まあな」


 彼はとことん暗い面持ちであった。


「少しぐらいは見送らせてくれ。……で、どこの修道院だ?」


 どうやらコンラートの中ではユリアが修道女を続けることは確定らしい。修道院を旅立つ日は聞いてきたのに、肝心のことはまったく口に出さない男なのであった。


「えーと……まずは、服が欲しいわ。後、髪覆いも」

「そうか。修道院に行く前に市場だな……」

「そうじゃなくて……」


 コンラートはひねた視線をユリアに向ける。いっそ俺を殺してくれ、と叫びだしそうだ。


「コンラートは私にどうしてほしいの? まだ結婚してほしいと思っているの?」

「当たり前だ!」


 噛みつくような即答である。しかし次には、


「でも、無理強いはしない。待つ。……待つぐらい、許してくれるよな?」


 と、自信なさげに言うものだから、ユリアも呆れてしまった。


 コンラート、とユリアはその名を呼び、おもむろにヴェールを取った。赤みがかった金髪が現れる。その長さは肩より少し長いぐらいだ。


「手を」


 ユリアが片手を差し出した。言われるままにコンラートが出した手を、ユリアは握る。


「どうしたんだよ、急に」

「手を繋いでいこうと思って」


 ペンダントは服の内側に入れ込んでしまう。そこまですると、コンラートにもようやく意味が通じた。その顔に喜色が滲んでいく。


「……いいのか」

「うん。コンラートが死ぬまでは一緒にいるわ」


 彼は微妙な顔になった。


「死んでも一緒、とは言わないのかよ……」

「それは……日頃の行いかしら。今のところ、地獄まで一緒にいてもいいとは胸張って言えないから……」


 ごめんなさい、とユリアは素直に謝るが、それはそれでコンラートもますます微妙な顔になるというものである。


「そういや、お前っていつもそんな感じだった気がする……」

「でも一緒にいたいのは本当。髪が伸びるまではお預けだけれど」

「そうかよ」


 片手で顔を覆うコンラートはいかにも疲れています、と訴えかけている。


「しばらく実家にいるわ。そこまで送っていって」

「……わかった」


 ユリアの態度についていけないコンラートである。送っていったユリアの実家で、ユリアの父親に再び殴られる未来のことなど考えてもいなかった。


「じゃあ、行くぞ」


 ユリアの手が引っ張られた。昔もこうやってコンラートに引かれたものだ。彼女は青空を仰ぎ、目を細める。


「早いわ。もう少しゆっくり歩いて」


 ん、とコンラートの歩みが緩やかになる。


 未来はまだ何も書かれていない羊皮紙のようなもの。


 今ユリアは新しい羊皮紙を前にしているだけ。何を書くのかは、彼女の自由。


 本そのものよりも、人こそが宝なのだ。人の数だけ図書室があると思えば、これほど楽しみなことはない。


 今度は人の生きる世界で新しい『本』を見つけよう。


 未来はきっと、明るい。




最後まで読んでいただきありがとうございました

本編はこれで終了で、ごく短い蛇足の番外編を二本載せたら完結の予定です

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