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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならのつづきは。
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最終話と合わせて二話連続更新 1/2

 城内の夜の見張りを終えたコンラートは仮眠を取り、書字板を開いてみた。修道院から戻ってからしばらく開く暇もなかったのである。


「私……教える……言葉。本、広がる……」


 読めねー。コンラートはあっさり解読を諦めた。まだまだ片足を初学者に突っ込んでいる彼には、いきなり難易度が跳ねあがったように感じられる。そもそも、いつもユリアが書いてくれる文字とは書体が違い、非常に読みにくかった。


 寝台に寝転がったコンラート。開け放たれた小窓から陽光が入ってくる頃になるまで、何度か書字板を取っては放り出しを繰り返し。


「はあ。ハウアー語? いいですよ。散々叔父に仕込まれましたから」


 恥を忍んでエンツィオに頼めば、簡単に了承される。ただ、苦々しいものも含んでいたが。


「僕は兄弟が多かったので、叔父が僕を修道士にしようと目論んでいたんですよねえ。どうにか阻止したものの、婚約者は勝手に決められたんですよ。彼女はヘドウィグ修道院に縁のあるご令嬢とかで」


 聞いてもいないのにべらべら喋る男であった。ふうん、と適当に相槌をつきかけ、ヘドウィグ修道院か、と聞き返す。


「そうですよ。あそこ、いい評判を聞かないんですよね。愛人や内縁の妻は当たり前、子どもを持っている者もいるというし、かなり財を溜め込んでいるという噂です。最近は手狭だとか言って町はずれの女子修道院に立ち退きを迫っているのだとか」


 ユリアのいる修道院。あそこは町はずれだったはずだ。


「それは……修道女たちも知っているよな?」

「自分たちのことですよ?」


 書字板を受け取りながら、さも当然のように言うエンツィオは、コンラートの事情を知らないままだ。エンツィオは書字板上で視線を走らせ、


「この筆跡……女性のですか。しかも修道院でよく使われている書体ですよね。これ、どこで書いてもらっているんですか」

「それはいい。早く言え」

「あ、はい……」


 エンツィオがたどたどしく朗読したのが次のようになる。



 私が師匠に教えてもらった中で、一番印象に残る言葉を送ります。図書室に関わる者は皆が大切にしている文言なのだそうです。

『本に知識はなく、本そのものは私たちの記憶を呼び覚ます装置に過ぎません。結局、知識が蓄えられるのは、頭脳。頭脳こそが、延々と広がり続ける、普遍の図書室なのです』



「それだけか?」


 エンツィオは大真面目に頷く。


 文通しましょう、返事に時間をかけても構わない、少し忙しくなりそうで――確か、ユリアは彼にそう言ったはずだった。けれども、書字板にあるのはおよそ文通しようという意志が感じられないものだ。謎かけをしているようでもあるが、その割に返事を求めていないようだ。


 コンラートは何度も頭の中で文章を反芻する。……さっぱり意味がわからない。ただ、ユリアの様子のことと言い、修道院立ち退きのことと言い、不穏なものを感じた。ユリアは、修道院のことを知っていて、口を噤んでいたのだ。そして授業の代わりに文通を求めた。……ユリアは彼を遠ざけようとしている? 


 すぐさまコンラートは立ち上がり、マントをはおり、剣を携えた。


「ちょっと出かけてくる」

「えぇ? そろそろ夕方ですよ」

「いいんだよ。構うな。暗くなったら適当に灯り消して寝ておけ」


 彼は宿舎を飛び出した。暗くなったら修道院の門が閉められるだろうから、その前にちょっとでも話をしておきたかったからだが、妙に気が急いているのも事実だった。


 戦場にいた時でもそうだが、こういう時の勘はよく当たる。


 走って市壁の外に出る門前に辿りつくと、人々が騒いでいる。


「妙にでかい煙が立ってんぞ!」

「火事か?」

「火事だ!」


 言われるままに眺めると、修道院のある方角から大きな煙が立っていた。


 コンラートはすかさず門を守る兵士たちに怒鳴った。


「城に知らせは飛ばしているな」


 青い衣は騎士の証。一目で彼らはコンラートのことを認識する。


「はい!」

「ならいい。馬を貸してもらうぞ! 後で返す!」


 コンラートは馬に跨って駆ける。








 ユリアは空が真っ黒な世界にいた。足元は砂利の多い荒地で、草の一本も生えておらず、進むたびにざくざくと音がする。


 ひたすら歩いていれば、川が現れた。黒く濁り、どろどろとしたぬめりのありそうな音を立てながら流れている。橋も何もなかったので、しばらく川面を覗き込むことにした。


 底が見えない真っ黒な川。これ以上何も染まりそうにないので、逆に澄んでいるようにさえ見えた。もっとよく近づこうと身を乗り出すと、目の前で白いものがぱっと散って、ユリアは前のめりに川に引きずり込まれそうになる。


 その時、メエ、と羊の声がして、ユリアは誰かによって地上に引き戻された。川から突き出された二本の手がゆらゆらと川底へと沈んでいく。


 誰に助けられたのだろうと思って振り返れば、その相手はユリア自身だった。


 いや、ユリアによく似ているものの、顔立ちはより慈悲深く、より神々しい。神秘的なという表現がよく合うような女性だ。


 彼女は薄く笑って、川とは反対の方向を指差した。その先には光が見えた。こちらを誘うように点滅している光の先に、ユリアが進むべき道がある。そう言いたげに。


 足元で、メエ、と羊が啼いている。もきゅもきゅと口元を動かし、ユリアを見ているのは『神の御光』である。


 『神の御光』とユリアは延々と荒野を歩き続け、そのうち、耳元で何かが跳ねるような、パチ、パチ、という音が聞こえてくる。息苦しくなってきた。


 視界がぱっと暗くなり、頬を熱風が撫でている。


 ユリアが再びゆっくりと目を開けてみれば。


 目の前で山と積まれた本が、燃えている。一冊、一冊、と投げ込まれていく。


 ユリアが重い頭を上げようとすれば、ちっ、と近くにいた誰かが舌打ちをして、本は投げ込まれなくなった。


 扉が開けられ、その誰かが出ていく。ユリアはその髪が黒の短髪であることを確かめると、辺りを見回した。


 ユリアがいるのは図書室だった。でも、本棚はすべて空っぽで。


 本が次々と消し炭のようになっていく。ユリアは声にならない悲鳴を挙げて、本を助け出そうと本の山に手を伸ばす。一冊でも多く、助け出さなければ。


 ユリアは放火犯が途中で諦めたのか、一冊だけ火に投げ込まれずにあったものを真っ先にどけた。奇しくもそれは以前アッタが書いた冊子を隠してあった本だ。一人で抱えるにはあまりにも重すぎ、貴重書だからと元々は本棚から鉄の鎖で繋いであった。今は背表紙のところから乱暴に引きはがされている。ひどい、とユリアは呟いた。


 炎は本の山ばかりではなかった。他にも窓からは別の煙がちらりと見えて、他の場所も燃えているのだろうと直感する。


 でもユリアは目の前のことで精一杯だった。本。一冊でも多くの本を救って、別の場所に移さなければ。一刻も早く、安全なところに。


 ユリアは、うんしょ、と本を持って立ち上がった。頭がくらくらとし、煙のせいで咳も止まらないが構わなかった。


 十三歳だったあの時。彼女は家族よりも、コンラートよりも本を読めるようになることを優先させた。今も、結局ユリアは『本』を捨てられない。


 もうユリアには本を守ることしか残っていないのだ。彼女の青春はすべてそこに注いできたのに。ここに来ても先人たちが大切にしてきた本を守れずにみすみす貴重な本たちを失くしてしまうのは耐えられない。そんなことになるぐらいだったら、いっそ本を守って死んだほうがいいぐらいだ。


 ユリアは一冊の本を持って階段を降りようとするが、そこにも火が回ろうとしていた。聖堂の祭壇にあったタペストリーが黒ずんでいく。


 すでにほかの修道女たちは逃げているのか、誰もそこにはいなかった。


 こういう時、誰も本を守ろうとは思わないのか。一人ぐらい駆けつけてもいいだろうに。いや、何か事情があるのかもしれない。


 ああ、何だか疲れたな、とユリアは思う。炎の色に一瞬見惚れた。


 本を守れて死ねるのならそれはそれで本望かもしれない。


 ユリアは迫る火から守るように本を強く抱きしめた。一歩、一歩、降りていき……足がもつれかけたのをこらえる。同時にぎしっと音がして、脆くなっていた階段の一部が崩れそうになっているのがわかる。


 一瞬、生まれてから今までの走馬燈を見た。両親や姉たちに囲まれ、コンラートたちと遊んだ子ども時代。コンラートとは絶交して、母親の針仕事の手伝いに精を出し、本に憧れ続けた少女時代。アッタのおかげで修道院に入り、ひたすら自分の好きなことに打ち込めた数年間。大祝祭日にコンラートと再会してから今日までのこと。


 階段下にコンラートが両手を広げて待っていた。ユリア、と叫んでいる。


 何でいるのだろうと疑問に思う。するとコンラートは言うのだ。俺が助けに来ないわけないだろ、と。ふうん、と冷めた言葉が出た。助けてくれなかったこと、あったでしょ。


 彼は気まずそうにするが、なおも叫んでいる。


 いいから飛び込んで来い。その本は重すぎる。もう落としてしまえ。


 ユリアは首を振って拒否した。これは大事な本だ。諦められない。これを守って死んだっていい。


 彼は、馬鹿野郎! と叫んで、階段を上がろうとするが、崩れかけたのを見て、諦めた。ユリアを見上げて、もう一度手を広げる。


「本だけ残ったって意味ないだろ! 本はお前のおかげで何十年、何百年と残るかもしれねーよ! 大勢がお前に感謝するかもしれない! けれど! 今この時だって大事なんだよ! 本はただの記憶装置なんだろ、人の頭こそが知識を蓄える図書室なんだろ! だったらユリアの命の方が何千倍も大事に決まっているぞ! いいから難しいことをごちゃごちゃ考えるな! 骨の一本や二本折れようが受け止めてやるから来い!」


 そういうものだろうか。ユリアは首を傾げるが、コンラートが自信満々に言うものだから、それもそうかもしれない、と思えてきた。


 ふと気になったので聞いてみた。もしも私が死んでしまったら、コンラートはどう思う?


 彼は怒っているような、泣いているような声で答える。――大洪水だよ、馬鹿野郎。


 ユリアはうん、と子供のように返事をした。本のために命を捨ててもいいかと思っていたけれど、コンラートが悲しいのならやめだ。本は残らなくとも、ユリアは全部を失くしたわけじゃない。


 ユリアも素直にコンラートに向かって手を伸ばす。がたん、と何かが落ちたような音が遠くで聞こえ、とん、と階段を蹴ったユリアの身体は温かいもので包まれた。


 まったく世話がかかるな。彼は尻もちをつきつつ、ユリアの背中をぽんぽん、と叩いてぼやいている。


 お互い様じゃないかしら。ユリアも返すが、外に出た途端にほっとして、意識が遠のいた。

 まるで夢のような出来事だった。



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