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埃と塵が舞い上がる図書室は、赤みがかった陽光に染め上げられていて、グレゴールの瞳も濁ったような色合いを見せていた。読書台に座る姿はさながら古帝国の神話で思索にふけり過ぎたあまり石に変わってしまった美しい賢者を思い起こさせる。古帝国の異教の女神が彼を口説いているのにも気づかなかったためだ。
世界一美しい石像にさせられた彼はその後、異教の女神が彼のために作った世界一美しい庭の中に佇み、思索にふけり続けているのだという。世界が滅ぶその時まで。一説には彼が思索し続けているのは世界の滅亡から逃れる方法で、女神は大それた願いを持った人間を戒めるために石像にしたとも言われている。
「グレゴールさま」
ユリアの声は石像の青年を呼び覚ました。分厚い本が閉じられ、視線がユリアの方へと向く。
ああ、と半分夢の中にいるような返事に、彼女は既視感を覚える。本を読み終えた時の彼女とまるっきり同じであった。
「失礼しました、修道女ユリア。ついつい没頭しておりました。後少しで読み終えそうだと思うと、次から次へと頁がめくられて、ついつい時間を忘れてしまいそうになります」
「研究の方はいかがでしょうか」
だめですね、と彼は失望感をあらわに嘆息した。
「ここにある私が知らない本はすべて目を通しましたが、私が求める答えはないようです。そもそも本には書かれないことだから仕方のないことですが」
本に書かれないこと、という言葉が耳に引っかかるユリア。
「あの、グレゴールさまが研究されていることとは一体……」
グレゴールの眼が揺れる。それだけでそこが張りつめた空間へと変わるようだった。
「私の知る本や知識について聞くことはあっても、私に個人的なことを聞くのは初めてのような気がしますね。あなたは私自身にはまったく興味を持っていないと思っていましたが」
彼が立ち上がれば、圧迫感が増す様だった。ユリアの身体は強張る。
グレゴールが一歩、ユリアに近づく。ユリアは一歩退いた。
「……失礼のない程度にといつも心がけていますから。不快に思われたのなら謝ります」
「不快? まさか。とても気分がいいですよ。実は、あなたに以前から個人的な興味を抱いていましたから。ああ、逃げないで。別に何もする気はありませんから」
「それなら、離れていただけますか。このままでは皆にいらぬ誤解を与えてしまいます」
彼は唐突に笑い声を上げた。それは普段の慎み深く寡黙な青年とも、読書に熱中する知識人とも違う、決定的に別の印象へと塗り替えるような、軽率さが見え隠れする。
「あなたがそれを言いますか? 定期的に男と二人きりで過ごしていたあなたが? ああ、修道女ユリア。確かにあなた自身にやましいことなど何もなかったのはわかりますよ。正しくあなたは『聖女』だった。でも相手の男の気持ちに気づかなかった、とはさすがにおっしゃらないはず。男に求められて、嬉しかったですか?」
グレゴールは含みのある微笑みを浮かべ、急にユリアとの間を詰める。ユリアは抵抗する間もなく、グレゴールの身体に抑えられた。
「何をするのですか。すぐにやめてください」
掴まれた両手首がぞわぞわして気持ち悪かった。百足が這いまわるのに似ている。
いくら美形の男と言えど、見知らぬ男性に押さえつけられることに嫌悪感が募る。
別に何もする気はありません? ユリアは甚だその台詞に文句をつけたくなった。
彼女の耳元にグレゴールは口元を近づけ、囁く。
「修道女が女でないと誰が決めたのでしょうね。彼女らのすべてが望んでそこに入ったわけでなく、信仰心にも乏しいのなら、巷で姦通を犯す修道女がいたとしても不思議ではなく……その相手が修道士であることも何もおかしいことはありません。女子修道院は『神の花嫁』の家ではなく、『女の園』の間違いではないでしょうか。実に危ういことです。いつ彼女たちは娼婦に成り下がるのか」
「すべての修道女たちが風紀を乱しているわけではありません。大半の修道女たちは毎日忠実に神への奉仕に力を尽くしています。……何事も決めつけない、というのが学問に対する正しい姿勢ではありませんか」
「それはもう。あなたが言うことは何でも正しい。……きれいごとだ」
「知っています。でも最後まで信じようと決めました」
それからユリアは緊張のあまり唾を軽く呑み込みながら、用件を切り出した。
「グレゴールさま。私の知る限り、『幻視』したとされる女性たちが、幻覚作用のある薬草を服用していたという記録はありませんでした。それどころか、そういったものは魔女が作る薬に使われ、修道院の薬草園で育てることもあり得ません。『訓練』は、本当に『訓練』なのでしょうか。あなたが私たちよりはるかに格式のある修道院の者だということで、これまで皆があなたのいうことを全面的に信用してきましたが……私たちは、これからもあなたを信じていても大丈夫なのですか」
グレゴールは答えを明言することなく、おもむろにユリアの修道衣の袖口に手を突っ込んだ。全身に鳥肌が立つ。ユリアの身体はとうとうがたがた震えだす。
「袖に何か入っていると思っていましたが、これだったのですね」
栓をされた小瓶を振るグレゴール。それはユリアが分けておいた『秘薬』だった。
「修道女マルガレーテはあんな大人しそうな顔をしておきながら、とんだ手癖の持ち主だったというわけですか」
人は見かけによらないものですね、と一人で笑っている。
それから小瓶の栓を抜きながら、おもむろに真顔になり、
「私には常々疑問に思っていることがあるのですよ。……『聖はどこまで聖なるものか』。逆に、『聖なるものはどこまで行ったら俗に堕ちるのか』。私の研究は本で調べられるものではなく、ずっと実験を続けるしかないのですよ。スキウィアス女子修道院の創設者と同じ名を持つあなたは聖ユリアの名が導いた聖女であるのか、ということも私の興味の一つでしたよ。実に面白かったですよ。普段は澄ました聖女といった風情の敬虔な修道女が、一人の男の前ではその仮面を外している。私にもなびく様子を見せなかったあの修道女ユリアが。よい観察対象でした」
「な……」
「あなたは私と境遇が少し似ていますね」
ユリアが問い返す前に、グレゴールの手がユリアの顎にかかり、無理やり開けられた口に粉末が流し込まれる。
吸い込むと同時に、身体から力が抜けていく。
――ああ、あなたはこの薬と相性が悪かったようですね。
心底どうでもいいと感じているような声音を最後に、ユリアの意識は暗転した。




