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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならのつづきは。
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20

 本当は誰にも言っちゃ駄目だって言われたけれど、内緒で教えてあげる、とマルガレーテは興奮した声音でユリアを自分の寝台の端に座らせた。


「私は真っ白な、光で一杯の世界にいるの。そこにグレゴールさまの声が届いて、神の国を案内してくれようとしているの。でもそこに入るまでが大変なのよ。たくさんの悪魔が私の体中にへばりついて、なかなか神の国の門をくぐらせてくれない。彼らは口々に卑猥な言葉を投げつけたかと思えば、猫なで声で私を堕落の道へと誘ってくる。


悪魔の姿は……黒い靄みたいで、はっきり見えなかった。でも口の奥が真っ赤なの。それはわかったわ。だって、私を食べるように大きな口をぱっくり開くのだもの。あまりに恐ろしいから、私は叫び声をあげながら必死に逃げるの。いつの間にか真っ白な世界が真っ黒になって、何も見えなくなって……茨のようなものが足元に絡みつき、足は傷だらけになる。悪魔たちの攻撃もちっともやまない中だったけれど、どうにか進んだの。


『訓練』は、グレゴールさまは、私がどこまで耐えられるかを判断して、続けるかどうかを誘導してくださっているの。この間、やっと天の国の門が見えたのよ。でもそれは首が痛くなるほど仰がなくちゃいけないぐらい高くて。そこに向かってふわふわと飛んでいこうとしたんだけれど……落ちちゃって、ここに戻ってきてしまったわ」

「……そうなの」

「本当にすごかったわ。『訓練』を始めてから、自分の力がどんどん高まっていくのを感じるのよ。私、今なら何でもできるような気がするわ」


 こけた頬。青白い肌。黒い瞳だけは闇の中でもわかりそうなぐらいにぎらぎらと輝く。


 一息に長いこと喋ったためか、ごほごほと咳をするマルガレーテ。明らかに体調は悪化の一途を辿っていた。


「マルガレーテ。もう一つ教えてくれないかしら。他にグレゴールさまは『訓練』のために何をしてくださるの?」

「私のために秘薬を下さるわ。霊力を高めるものですって。本当によく効くわ。この秘薬を口に入れた途端、あっという間に神の国の近くまで連れて行ってくれるのよ」


 ああ、早くあの神にお会いして、啓示を授けていただきたいわ。


 恍惚とした表情をする彼女と違い、ユリアの表情はますます硬くなる。けれども努めてマルガレーテには見せないようにお願いした。


「その秘薬はどういうものなの? 少し調べてみたいから分けてもらってもいい?」

「いいわよ。ユリアが興味もちそうだと思って、少しだけ飲まずに取っておいたものがあるの。グレゴールさまには言わないでね。あの方は秘薬に関することにはとても厳しい態度でいらっしゃるから」


 ええ、とユリアは請け合って、粉末状のその「秘薬」をすぐさま薬草園にいたベレンガリアに見せてみた。


「まあ」


 少しだけ舐めて、すぐさま吐きだし、彼女の眉根がひそめられていく。


「ユリア。これをマルガレーテが持っていたのですって?」

「そう。……やっぱり、変よね。マルガレーテの身体がこんな急に悪くなるのだから、何か理由があるのかもと思っていたけれど……話を聞く限りだと、どう考えてもマルガレーテには幻覚症状が現れているようにしか……」


 恐る恐るユリアがベレンガリアに確認を取ると、ベレンガリアは粉末を小皿にしっかり戻して、少し考えてから、


「以前、『魔女の軟膏』というものがあると聞いたことがあるわ」


 と、言った。


「異端の魔女たちが作る特別な軟膏で、物によっては空を飛べることもあるらしいわ。それもまた、幻覚症状をもたらす薬草のエキスが入っていて、塗るだけで効果が表れるのですって。よく材料に挙げられるのは、ヒヨス、ケシ、ドクムギのような慎重な取り扱いが必要な薬草。……この薬にも、ムギが入っているようね。おそらく、麦角のついた有毒の麦なのでしょうね」


 ユリアは以前ベレンガリアに訳した本のことを思いだす。確か……。


「麦角は……めまいや吐き気、幻覚症状も引き起こすのだったわよね。最近のマルガレーテには全部当てはまるわ」


 どうしてグレゴールはこんなことを。


 二人ともが胸にそういう疑問を抱いたが、二人ともが口に出せなかった。


 グレゴールは恐ろしく博識な修道士であった。修辞学、法学、神学、古代哲学、文学、音楽、医学……そして薬学。彼の脳内に収められた巨大な図書室は彼の知る本すべてを自由自在に閲覧できる。口頭で伝えられる内容は、ユリアが実際に本を参照して比べてみても、一言一句間違えることはない。図像などは自分の手で正確に書き写していたし、ある語句を検索すると、出典をも正確に述べた上で、いくつもの用例を諳んじてみせた。ユリアが戦慄したのは言うまでもない。


 ……そんな彼が、薬草の幻覚作用についても知っていなかったわけがないのだ。


「……私、グレゴールさまに聞いてくる」

「それは危険なことよ、ユリア。相手は大修道院の修道士。私たちよりはるかに立場が上なのよ」

「だって、このままじゃ近いうちにマルガレーテが限界を迎えてしまうわ。私がやるわ。ベレンガリアは知らないふりをしていて。いざという時は私の代わりに告発して。ベレンガリアは薬草係だから、皆へも説得力があるでしょ、お願い」

「ユリア。やめなさい。年下のあなたがやることではありません」


 ベレンガリアは厳しい表情でユリアを止める。けれどもユリアはやめなかった。


「違うわよ、ベレンガリア。マルガレーテに立場が近い私だからいいのよ。私なら友人を過剰に心配したために起きた『間違い』にできるけれど、ベレンガリアに『間違い』は許されないわ。……修道院長がどう動くか私にはわからないから、たぶんこれが最善なのよ。ごめんね、一本小瓶をもらうわ。半分はベレンガリアが念のために持っていて」


 薬を半分に分け、ユリアはその半分を小瓶の中にさらさらと入れる。しっかりとコルクで栓をして零れないか確認してから袖の中に忍ばせる。


 今の時間、グレゴールは図書室にいるはずだった。



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