19
写本をしているうちにふと視線を後ろに向ければ、エレオノールが憮然とした顔で顎をしゃくっている。
「お客様ですって。私が呼びに行けと言われたわ」
「あらそう。ありがとう。応接室でいいのかしら」
「そうね」
用件は済ませたとばかりにさっさとその場を去るエレオノール。最近は随分と大人しくなったものである。新しい修道院長になってから、ますます彼女には過ごしにくい環境になったからだろうか。
羽ペンを置き、インクは零れないように栓をしてから立ち上がる。
図書室の読書台にはグレゴールがいて、恐ろしい速さで頁をめくっていた。あれで本当に頭に入っているのか不思議でならないが、その表情から真剣さがわかるというものである。人の頭の中はわからないものだが、グレゴールの読書量と速さは少なくとも彼の明晰さを裏付けるものである。彼はこの修道院にしかない一冊だけの年代記でさえもすらすらと諳んじていたのだ。しかも、初めて読んだその日のうちに。彼はわかりにくいところを関係者であるユリアに尋ねたのだが、その箇所はユリア自身も難解だと感じていて、機会があれば注釈をつけようと思っていたのだ。そこを的確についたグレゴールに、ユリアも舌を巻いたものだ。
彼女はそのまま静かに図書室を出て、第二の門を通過した。そこから応接室のある建物に向かおうと門から続く壁の角を曲がれば、ユリアに向かって突進してくる『神の御光』の姿があった。一目散にユリアを目指している。捕まったら、間違いなくのしかかられて、修道衣の裾を噛まれ、雑草のういた毛並みをこすりつけられて、ぼろぼろにされるに違いない。もうそろそろ天寿を全うするぐらいの年であるはずなのだが、力の強い羊なのだ。
ユリアは走って逃げた。つい先日も追いかけられたばかりだが、脱走騒動でも起こしたのか。もう嫌だ。
「誰かっ! 誰か!」
とっさに周りを見渡すと、いい気味とばかりにほくそ笑むエレオノールが遠目に見えた。直感でわかった。エレオノールが嘘をついたのだと。ああ、なんて学習しない子なのだろう。人の不幸を笑う者は、地獄への門をくぐっているのと同じなのだと聖典にもあるし、ユリアもエレオノールに教えたはずなのだが。
裾の長い修道衣を着ているユリアは、早くは走れない。よく考えもしないで走っているうちに、外部とつなぐ第一の門までやってきてしまった。
飛びかかってくる『神の御光』。ユリアが来たるべき衝撃に備えていると、影が差した。
「しっしっ。あっちに行け、羊」
彼は鞘に入ったままの剣を出して、ユリアに羊が寄らないようにした。
昔はユリアと同じぐらいだった背丈が、今は前も見えないぐらいに大きくなっていたことに、彼女は今更ながら気づいたのだった。
羊が大人しくその辺りの雑草を食み出したところで、彼はユリアに向き直り、首を傾げながら、
「お前、羊苦手だったっけ?」
と問うものだから、素のまま、ううん、と返事をする。
「あの子だけなんだけれど……どうにも変なぐらいに寄ってくるの。助かったわ、ありがとう、コンラート」
「大したことじゃない。昔の野犬と比べれば……って、覚えているか?」
「もちろん。そうそう忘れられることじゃないわ。本当に死ぬかと思ったもの。あの時もコンラートが助けてくれたわよね」
「お、おうよ」
頬をかくコンラートにユリアは微笑み、いつもの応接室に誘った。突然の訪問だが、幸いにも話すだけの時間はあった。
座った途端に、彼女は口火を切った。
「コンラート、私と文通しましょう」
そう言って、応接室に置いてあった書字板を取り出し、尖筆で文字を刻んでいく。視線は手元に向けたままだ。
「急にどうしたんだよ、ユリア」
「少し、忙しくなりそうなの」
嘘は言っていないが、ユリアの胸には罪悪感が募る。
「それに文字は自由自在に使えなくちゃ、身についたとは言えないでしょ。実践を兼ねて、私の書いたことへの返答を作ってきて。時間はどれだけかかっても構わないわ。どんな答えを持ってくるか、期待して待ってる」
「今ここで書くということではないのか?」
「ええ、戻ってからじっくり考えてほしいの」
修道院がどうなるかわからない今、コンラートがここに出入りするのは、彼にとってよくないことだ。コンラートのためにも、ユリアは時間をかけて遠ざけていくつもりだった。言葉できっぱり言ったところで納得はされない。彼女自身、最後まで突き放せるか自信がもてなかった。以前ならともかく、今は。
嫌ったり、憎んだりするだけでよかったのなら、こんなに苦しいことはなかった。それだけじゃ割り切れないものをユリアは捨てきれないでいる。
文通は口実だ。でも、ユリアは心を込めて刻んだ。
細かな文字にコンラートの顔がしかめられる。
「うわ、ちっせー文字だなぁ」
「それなりに書くことが多かったの」
二つ折りのそれを閉じて、どうぞ、とコンラートに渡す。
「中身は後で見て。わからない文があったら、どなたかわかる方に訊ねてみて。ハウアー語だったらそれなりに読める人がいるはずだから」
じゃあ、今日はこの辺でね、と切り上げようとすると、おい、とコンラートの低い声が呼び止めた。真っ青な瞳が直接ぶつかってくる。だがそれは怒りを含んだものではなかった。
「……暗い顔をしているぞ。平気か」
「平気よ」
「嘘つけ。ひきつった笑顔を浮かべられても全然嬉しくねーよ」
ユリアは指摘された笑みを、頬を引っ張ることで確かめた。自分ではさっぱりわからないものである。
はあっと呆れたように溜息をつくコンラート。そのままユリアの前に跪く。顔はユリアを見上げた。
「今はちゃんと騎士しててやるから、手だけ触れる。いいか?」
「え?」
「いいよな?」
「ええ、まあ……」
驚きすぎてうっかり肯定してしまったユリアは、自覚する前に、しっかりとコンラートの手がユリアのそれを取った。手の甲に軽い口づけが落とされる。
「……修道女ユリア。あなたは自分にとってのミンネです。自分はあなたの僕。あなたの盾にも剣にもなりましょう。そして、あなたが望まない限り、自分はこれ以上触れることはありえません。あなたがどれだけ遠くにいようとも、自分が心を捧げることだけはお許しを。それ以外は望みません。自分はあなたを昔傷つけた代わりに、誰よりもあなたの意志を尊重します。愛するがゆえに、私は来るはずのないあなたを待ち続けましょう」
ユリアは息を呑み、たちまち狼狽をさらした。
「えっと、コンラートこそ大丈夫? 急にかしこまっちゃって、まるで本物の騎士みたい」
コンラートの顔が引きつった。
「一応、自分も騎士という身分にいるのですが……」
「え、ああ、そうね。うん、そうよね、そうだったわ……」
ユリアの手の甲を親指で撫でるコンラートに、彼女は自分がとてつもない過ちを犯そうとしているのではないかという気になってきた。今すぐ手を引っ込めたいのを堪えている。
彼はやがて立ち上がり、繋がれていた手は離れた。
「俺にはお前の気持ちがわからん。昔からだ。さっぱりわからないんだ。でもさ、ユリア。俺はお前の特別でありたい。再会できたのも、今こうしているのも、俺とユリアとの間に特別な巡り合わせがあったのだと信じているんだ」
「コンラート、私は……困るわ」
だろうな、と彼は物わかりよく頷き、書字板を片手に門から出ていった。
次会うことがあれば、気まずくなるのは間違いない。コンラートはいつも通りかもしれないが、ユリアは……。無意識に自分の手の甲をさすっていたことに気づいて、慌ててやめた。
図書室に戻る途中、聖堂内で、新しい修道院長となったアデルバイトと行き合った。ユリアを見て、厳しい表情を浮かべるのを見て、きっとコンラートと会っていたところを目撃されたのだろうと悟る。
彼女は開口一番にこう言ってのけた。
「あなたもいずれわかるわ。人間の男に愛されるよりも、主神を愛する方が満たされた気持ちになることを。早く目を覚ましておきなさい」
確かにユリアは信仰心に篤い修道女だったが、修道女になったきっかけは神の召命を受けたということもなく、本を読みたいと願ったためだ。
神は人々に生きる拠り所を与えてくれる。どんな災難に見舞われても、神はいつでも見守っていてくださるに違いない。……でもその愛は誰にでも平等で、穏やか。ユリアの心を乱すには至らない。その点で、神よりも本の方に関心がいく。写本の成果は目の前に現れ、読書をすれば本の世界へ心奪われる。
なのでアデルバイトが徹底的にユリアを惑わせたいのなら、こう言わなければならなかった。男に現を抜かすよりも、本に触れている方が何倍も幸せなことですよ、と。
ユリアは小さく、はい、と答えた。いいえ、と心の中で唱えているようだった。




