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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならのつづきは。
22/29

18

 商人たちの荷馬車が行きかう街道沿い。都市トゥアーに入るためにはその寸前にある大きな川を渡る必要があった。そこで渡し守たちが金をもらって舟を出す。大概は近くの村に住む農民たちが生活に余裕を持たせるために自ら進んでやることだった。


 だが舟を出せないとなれば、彼らにとっては貴重な現金収入の機会を逃すことになる。近くにはいくつも宿屋があったが、商売上手にも宿泊代と船代が込みになっているところが多いので、宿屋は彼らの商売敵でもあった。そこで、うまくもてなしこそできないものの、舟を出せない時は民家に泊まるように勧められるのはほとんどだ。


 川の増水で何日もその村に留まることになってしまったその老人は、藁のベッドで寝るような宿泊にも喜んで神に感謝を捧げていたので、家人たちも釣られて日々信心深くなっていった。彼の説教には人を感動させる力があり、無学な彼らにもわかりやすく教えてくれる。祈りを面倒がっていた一家の長男までもが感化されて、食事時に老人に合わせて手を組むようになったのだ。


「きっとこりゃあ、明日もだめかもしんねえよ、神父さま」


 川を眺めていた農夫は気の毒そうに言えば、老人は諦めたような面持ちで溜息をつく。


「神よ、なぜ私のみならず、大勢の人々に苦難を与えようとしているのですか」


 胸元にさがる花びらを模したペンダントを握りしめる彼の焦燥は濃い。


 目を瞑れば思いだす。


 自分の可愛い教え子。ある事情で修道院に入った不幸な子だったが、海綿が水を吸うように読んだ知識をすべて頭の『図書室』に入れ込むことができた、神のいとし子。


 老人は彼が何か大きなことを成し遂げるたびに、とても喜んだものだった。


――お前ほど自慢の弟子はいない。

――天才だ。お前は天才なんだよ。


 将来、どれほどの大人物になるかと期待をかけていた。


 修道院内で、彼の弁舌に勝てる者は誰もいなかった。彼の美貌の前では誰もがかすみ、知識面でも師匠をあっという間に追い越した神童だった。


 確かに弟子は「ある事情」のせいで幼い頃から崇められていたが、老人は心底自分の弟子だと思うようにして接していた。……けれども、内心の葛藤は聡い弟子にはお見通しだったことだろう。師匠であるにも関わらず、彼は弟子のやることなすことを全部肯定し、叱れなかった。祭壇にある主神の像に対するように、心のどこかで彼に間違いなどないと思い込んでいた。


 彼が旅に出たいと言った時は何の疑いもなく承諾した。それどころか、当時の修道院長への口添えもしたのだ。結局、修道院長は許可を出さないままだったが。


 彼は無断で修道院を飛び出した。院長の署名を真似て、通行証を偽造したのである。


 修道院は必死でその行方を追った。


 彼の足取りはすぐにわかった。一番近くにあった別の修道院で、すべての蔵書が燃やされたのだ。直前に宿泊していたのは彼だったから、間違いなく彼が犯人に違いない。


――師匠。私は誰も知らなかった知識を知りたいのです。

――自分が知っていることを他人も知っていることに我慢ならないのです。

――私だけが知っている。そこにこそ、私の価値があるのです。

――全部覚えているのだから、もう本なんて必要ありませんよね。


 彼の出奔の少し前、ぼや騒ぎがあった。何冊かの本が燃えた。幸いにも他に写本が残っていたものだったので、損失は少なかった。その時は、誰も彼がやったことだと思っていなかったのだ。


 老人は自分を恥じ、内密に修道院を出た。弟子を止めるためである。


 それからはずっと追いかけっこのような生活を続けている。弟子は巧妙に姿を消し続け、追いかけるのは一苦労であったが、老骨に鞭を打つ。


 それまでに五つもの修道院が焼けた。死人まで出た。刺し傷のようなものまであったらしいから、恐らく弟子が逃げる時にでも殺したのだろう。


 これは修道院の恥以上の問題だった。このようなことが明るみに出れば、下手すれば信仰の柱が揺らぐ。


 弟子は何をもってあまりにも大それたことをしでかしたのか、老人は今でもわかっていない。もはや、理解するという段階は通り過ぎ、残ったのは……。


 老人は昏い瞳でどす黒い川面を眺めつづけている。


「主神よ、これから犯す我が罪をお許しください」








 あれは七、八歳ぐらいの時だったろうか。


 いつもの路地裏の遊び場に行ったところ、遊び仲間は誰一人いなかったが、木箱に頭を突っ込んでいる黒い生き物を見た。木箱はガタガタっと大きく揺れて、横に倒れる。そこから顔を出したのは、荒んだ目つきをした全身真っ黒の大きな野犬だ。大きく開いた口には赤い舌や鋭い牙が見える。


 ユリアは両親から野犬の恐ろしさについていやというほど聞かされていた。ユリアのような小さな子どもは簡単に野犬の餌食になるし、赤ん坊を食い殺した話は街でも噂に上る。さらには一度人間の子どもの味を覚えてしまったら、それを好んで食するようになるという身の毛のよだつ話まであった。


 ユリアの顔がくちゃくちゃに歪む。足も動かなければ、泣き叫んで助けを呼ぶこともできなかった。死という恐怖に囚われて、ユリアを品定めしている凶暴な眼の前で、ただただ佇む。


 その時、だだっとユリアの前に駆け出た影が一つ。見覚えのある背中だった。彼の武器は小さな棒きれ。父親の工房からくすねてきたものかもしれない。


 ぶるぶると足を震わせながらも、彼は棒切れを突き出して、勇ましく野犬に叫んだ。


「俺が相手になってやる! 俺の方が強いんだからな! さあ、かかってこい。返り討ちにしてやる!」


 それからどれだけ経ったかわからないが、野犬はずるずると後ずさりしてその場を去る。彼はそれを見届けるような素振りを見せてから、ユリアを振り返って自慢そうに胸を張る。


「俺、すごかっただろ。野犬なんてあっという間に追っ払えるんだぜ」


 その後で、兄たちにも散々鼻高々に話に行くのだろうなあ、とユリアは漠然と思った。彼はなぜか兄たちと張り合いたがっている。ユリアにはさっぱりわからないが、結構幼馴染の中では大事なことらしい。


「いいか、ユリア。お前のことは俺が守ってやるからな!」


 泣きはらしたような真っ赤な眼をしたコンラートが、さきほどまでの恐怖を必死に隠しながら強がっていた。


 ほっと安心したと思ったら、ユリアの眼からぽろっと涙が落ちた。ついでにそれを見たコンラートの頬にも涙が伝うが、しゃくりあげるのを堪えて、乱暴に頬を拭った。


「……よしよし」


 不器用そうにユリアの身体を引き寄せて、背中をぽんぽんと叩いたコンラート。


 幼馴染の温もりに慰められたユリアは安心して泣き続けられた。


 コンラートは家族以外で初めて泣くのを見られた相手だった。


 木の根のようにユリアの心の底に絡みついている情景がふとした瞬間に浮かび上がってきた時、懐かしさと同じく胸を引き絞られるような気持ちにもなる。


 淡い初恋とはそういうものかもしれない。




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