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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならのつづきは。
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16

 ユリアはベレンガリアに頼んで、コンフリーの軟膏を作ることにした。コンフリーとは昔から創傷や骨折、筋肉の炎症に効くと言われている植物で、修道院でもよく使っている。本当はそんなことをやっている暇がないのはわかっていたが、少しでも修道院以外のことに目を向けていたかったのだ。


 ラードとコンフリーの根が入っている鍋をかき混ぜながら、これを使う人の怪我が少しでも早く治りますように、と祈る。


 コンラートは昔から怪我が絶えない子どもで、それもユリアが見ている前で派手に上っていた木から落ちるものだから、いつもはらはらし通しだった。それで、どうして上ったかと問えば、いい感じに気持ち悪い毛虫を見つけたからと見せびらかした挙句、ぷちっと潰していたのである。毛虫が可哀想、とユリアは言った。


「とっても痛かったでしょう? ごめんね」

「毛虫に謝る必要なんてねえよ。変なやつだな」

「見てて痛いものは痛いのよ。どうしても必要なら仕方がないけれど、理由もないのに毛虫を殺すのはよくないわ。毛虫だけじゃなくって、鳥とか、子猫とかもいじめるのはよくないわ。小さいけれど、皆ちゃんと生きようとしているのに」

「なんだよ、大人みたいなこと言いやがって。世の中の大人は皆知ってるぞ、結局は何でも強い者が勝つんだ。きれいごとだけじゃ誰もついてこねえんだ」

「だからと言って、そのきれいなことを捨ててしまっては、私たちは森の獣と何が違うって言うの? ねえ、お願いよ、コンラート。自分が強いからって弱い子には手を出さないのなら、他の命にも同じことをしてほしいの。そんなことをしなくっても、コンラートが強いってことは私が知ってるから。……ね」


 ユリアはどうにかそれでコンラートを納得させたが、潰された毛虫の方にばかり目が行っていて、毛虫を持つ手の甲にかすり傷、腕には切り傷をたくさんこさえていたことに気づいてあげられなかったのは、さすがに酷かったように思う。


 コンラートがユリアよりも遥かに強いことは昔から知っている。だからいつも傷付くのはユリアの方だった。コンラートはユリアを振り回しすぎる。


 十一歳のコンラートは十歳のユリアを汚い泥の中に落とした。目に一杯の涙を浮かべたユリアは、コンラートが嫌いだと思った。突き飛ばしたコンラートが嫌い。ユリアを助けてくれなかったコンラートが嫌いだった。


 十五歳のコンラートは十四歳のユリアに再会した時、真っ先に暴言を吐いた。ユリアはこんな人とはやっていけないと思った。変わらないコンラートが嫌だった。コンラートはちっともユリアのことを考えてくれていない。


 ユリアはまだまだ妥協することを知らない子どもだった。今もどこかそうした部分が尾を引いているのかもしれないとさえ思う。


 今のユリアがいるのは不思議な巡りあわせの結果だ。文字を知りたい、知識を得たいという少女が、縁談を苦に修道院に飛び込み、当時求めていた夢をつかみ取った。修道女という立場にはなったが、幼馴染を一個人として心配もしているユリアもいる。


 コンラートがいなくなれば、この嵐のように湧き上がる感情も跡形もなく消え去ってしまうのかもしれない。胸に仕舞って、時折取り出して懐かしく思うことだってあるだろう。それが普通。初恋というものは叶わないものだとよくいうものだから。


 できた軟膏を陶器製の小さな容器に移し替える。後はこれを渡すだけ。


 これが、ユリアがコンラートに渡せる最後の贈り物になるかもしれない。


 もはやいつ新しい修道院長がコンラートを出入り禁止にするのかわからないのだから。







「今日、コンラートが来ました。院長さま……じゃなくて、マティルダさま」


 ユリアは日に一度、謹慎中の元院長にハーブティーを持っていき、少し話をするのが日課になりつつあった。

「そう? あなたのその様子から見て、まあまあ良い結果を出されたようで何よりですね、ユリア」

「ええ、あまり話すことはできなかったですが、見たところ、大きな怪我もなさそうで……。でも、最近修道院で起こった出来事は話せませんでした。言いづらくて」


 元修道院長マティルダは湯気が立ち上るハーブティーを口にし、思いのほか穏やかな表情のまま答えた。


「いずれは耳に入るでしょうがね。彼はこれから大変でしょう。あなたとの接触が絶たれてしまうわけですから。あの方にとっては、私が修道院長だった方が何かと動きやすかったでしょうし。これもまた世の流れというものかもしれませんね。そうでした、ユリア。一応言っておくことがあるのですよ」

「何でしょうか」

「彼の喜捨のことです」

「ああ、それですね。今日、金貨という形で頂きました。今の院長さまもまだはっきりと出入り禁止を申し渡すわけでもなく、何もおっしゃいませんでしたが」

「ああ、それではなく」


 え、とユリアは首を傾げた。


「正確には喜捨というわけでもないのですが、彼とはちょっとした約束をしていたのですよ。彼としてはあなたのため、私としては修道院のために」

「……それを私が聞いてもいいのですか」

「私以外にも知っている者がいてもいいと思いますからね。私はもはや院長ではありません。私の言うこともアデルバイトは聞かないでしょう。であれば、彼に一番近いあなたが把握しておくべきことだと思うのです」


 そこまで大したことではありませんがね、と前置きするマティルダ。


「知っての通り、この修道院は都市の市壁の外にありますから、外からの危険があります。近頃は街で熱狂的な異端がいるという噂も、盗賊が近くに根城を作ったという噂も流れているようですから、防備はできるに越したことはありません。なので、彼には軍とこの修道院とを繋いでほしいとお願いしていたのですよ」

「マティルダさま。コンラートは新しく騎士になったばかりです。それはあまりにも大きな役目なのでは?」

「そのようなことはありませんよ。この役目に必要なことは、異変があった時に果敢に、そして真っ先にこちらを助けてくれるということ。軍の上層部の方には私との縁者もおりますが、やはり自由が利かない者も多いですからね、しがらみがない身軽な者、そして修道院に近い者を前々から考えていたのですよ。個人的に知り合っておくだけでも、かなり心強いものがありますよ。……本当に運のいい若者ですね、彼は」


 彼女は感心したように呟く。


「昔、ユリアを出せとこちらに突っかかってきた少年が、よくもまああそこまでになったものですよ。まだまだ騎士としては欠けているところばかりでしょうが、心根だけは合格をあげてもいいですね。その辺りの血気盛んな男だったら、すでに修道女の何人かが妊娠させられていたかもしれません」


 マティルダはさらりというが、ユリアの顔はかすかに引きつる。……そうなったら、とても恐ろしいことだ。


「女だけで生きるには難しい世の中ですよ。確かに私たちには修道女としての敬意は払われていますが、世の隅々にまで神の教えが行き届いているわけではありません。ユリア、他の女子修道院に関する本も図書室にありましたが、覚えていますか?」

「はい。過去、いくつもの女子修道院が襲撃された事例がいくつもありました。……被害者にとっては死んだほうがましだったのかもしれません……」


 口にするのも憚られる暴行の数々が生々しく書いている本。間違いなく、著者の修道女も同じ目に遭わされた。それでもどうにか生き残って、本を書き、巡り巡ってスキウィアス女子修道院にも収められている。


 修道女たちを守っているのは人々の信仰の力だ。その信仰が浸透していなければ、女子修道院は女性たちが大勢集まっている恰好の的になる。


「辛いですが、私たちはこうした歴史からよりよい未来に向かって学び取るべきことがたくさんあります。記憶を未来に繋ぐために本は生まれました。写本をする者は皆が担い手です。私も、あなたも。私たちがしたことを伝えるなら、すべてを本に残さねばなりません。知る者が途絶えてしまうのを恐れるならば。それが使命というものでしょう」


 ここでマティルダはふっと笑う。


「でも、写本ばかりしてきた私たちが一冊ぐらい、自分が書いたと胸を張れるような本を作ってみたいという本音もあります。私も、謹慎を機に一修道女に戻りましたし、こんな年にもなりましたから、自分の回顧録でも作ろうと思うのです。実はもう、書き始めているのですよ」


 少女時代からだと今の年齢に辿りつくまでどれぐらいかかるでしょうねえ。


 彼女はとても楽しそうにしている。院長でなくなったところで、修道女マティルダは尊敬すべき人だというのは変わらない。それが嬉しい。


「書き終わったら、ぜひ見せてくださいね」


 彼女は当然とばかりの顔をしてみせた。


「あなたは毎日来るものだから、自然と目に入りますよ」



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