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1945年1月、米国はついにフィリピン攻略へと動き出した。その前哨戦は、まず機動部隊による南西諸島、台湾、パラオなどの日本側航空基地の覆滅であった。この作戦には、マリアナ諸島のB29部隊や中国大陸の陸軍航空隊も参戦した。
これに対して、日本側もマリアナ失陥以降強化してきた陸海軍の基地航空戦力を総動員して反撃に出た。
この前哨戦とも言うべき戦いは、米国側の勝利で終わった。米機動部隊は空母「ハンコック」の大破、軽空母「モントレー」他数隻を喪う打撃を受けたものの、南西諸島からパラオに至る日本側の航空基地は、基地機能の被害こそ然程ではなかったが、在地航空戦力の実に7割を喪った。特に、敵艦隊を攻撃するための各種攻撃機部隊に限れば9割近い損失を記録した部隊もあり、当然それらの部隊はフィリピンでの決戦に参加することは不可能であった。
この2週間続いた戦いで、米側も空戦や対空砲火、沈没艦や損傷艦とともに喪われた航空機は総合計で300機を数えたが、これはウルシー環礁で控えていた予備部隊や、支援部隊から容易に補充できる数でしかなかった。
南西諸島から台湾、パラオを荒らし回った米機動部隊は1月下旬からフィリピンへの猛攻撃を開始した。
対する日本側のフィリピン防衛戦力は、基地航空隊が陸海軍総計で1500機あまりをかき集めていたが、これは旧式の予備機や低速の直協機や対潜哨戒機まで含めた数であった。
この航空戦力も、米機動部隊との戦闘で1週間もしないうちに半数を喪うか、使用不能に追い込まれた。
そして日本側の反撃能力が弱まったことを見計らうように、2月1日ついにレイテ島への上陸を開始した。
対する日本連合艦隊は主力の砲戦艦隊である第二艦隊がブルネイに、機動部隊である第三艦隊が日本本土にあり、マリアナ沖海戦後に竣工した空母「信濃」「雲龍」「天城」「葛城」を編入し、空母の数だけ見ればマリアナ沖海戦時よりも増強されていた。
しかしながら、搭載する航空機の搭乗員育成が間に合わず、かき集められた艦上機は400機あまりと、米機動部隊の4分の1ほどであった。しかも、艦爆や艦攻などの複数名の搭乗員が必要な機体は特にで、打撃能力が決定的に不足していた。
そこで、日本海軍は大博打作戦を考案する。
それは第三艦隊に北方防備の巡洋艦艦隊で第五艦隊を加え、艦載機は索敵用と対潜哨戒用の「彩雲」と「天山」を除き、艦上戦闘機である「烈風」「紫電改」「零戦」を300機あまりかき集めて集中搭載し、この機動部隊を日本本土から南下させて米機動部隊を誘引し、その隙にレイテ島の上陸拠点に砲戦艦隊である第二艦隊をブルネイから北上させて突入させるというものであった。
加えて、速度の関係から第二艦隊と行動を共に出来ない戦艦「山城」「扶桑」重巡「最上」「伊吹」を中心とする第二打撃部隊を急遽編制し、第二艦隊と呼応してスリガオ海峡から突入させるという陽動作戦が用意された。
この第二打撃部隊であるが、言ってしまえば急ごしらえの寄せ集め艦隊であった。2隻の旧式戦艦に加えて「最上」は過去の大損傷からの修理の際に、後甲板を飛行甲板とした同型艦とは性能が著しく違う姿となり、そして「伊吹」はなんとか確保された資材をやり繰りして、この2ヶ月前に完成したばかりの練度に不安が残る艦であった。
そんな艦隊であるから駆逐艦も寄せ集めで、護衛任務や修理・補給のためにフィリピン近海に立ち寄っていた駆逐艦が編入された。その結果、艦隊型駆逐艦と言えるのは「時雨」だけで、後の全ては「松」型かその眷属で占められた。都合9隻。
艦隊司令長官は、この直前に戦艦「山城」座乗の西村祥治中将から交代した木村昌福中将であったが、彼は思いきった策に出た。
まず、自身に水雷戦隊指揮までの経験しか持たぬことから、艦隊旗艦を身軽な「最上」に変更した。当人は「時雨」を希望したが、司令部の収容力や通信能力の観点から「最上」とした。
そして、かき集められた「松」型の内、水雷兵装を持たない対潜型の「雛芥子」と対空型の「菖蒲」の2隻を前衛に配置し、これに後続して「時雨」と5隻の「松」型を単従陣として右舷側に、そして左舷側に「最上」「伊吹」のグループを置き、やや後方に「山城」「扶桑」をやはり単従陣のグループとし、最後尾の後方警備役に残る「松」型2隻を配した。
前衛の配置はもちろん索敵と警戒に加えて、この時期脅威となっていた米潜水艦対策であった。
巡洋艦と戦艦でグループをわけたのは、性能の違いとともに、いざとなれば魚雷発射管を有する巡洋艦で、木村中将自ら水雷突撃する腹づもりであったからだ。
こうして、第二艦隊主力とは別コースで出撃した木村艦隊は、主力がパラワン水道からサマール島沖を抜けるルートに対して、スール海を横断する航路を取る。
寄せ集めの木村艦隊であったが、配置された「松」型はいずれも電探と逆探、探信義を装備しており、さらに「最上」には4機の「瑞雲」が「伊吹」には同じく2機搭載され、ある程度の航空哨戒能力を有しているのは、通信能力に劣り、制空権を奪われている状況では心強いものであった。
しかし、後にレイテ沖海戦と呼ばれるこの海戦は、序盤から日米双方にとって、番狂わせの展開が連続した。
まず米機動部隊を吊り上げるべく出撃した小沢中将指揮の第三艦隊は、太平洋に出た直後から米潜水艦の追跡を受け、その出撃を通報された。
この報を受けた米機動部隊の主力部隊である第五艦隊では、小沢艦隊を早期に迎撃する案と、マリアナ沖海戦と同じく、敵航空機群の撃退を優先する案が出たが、結局後者の意見が採用された。
ただし、迎撃し易いように艦隊の遊弋位置を北寄りにするとともに、ウルシーで待機していた補給・整備中の一群を予定より早く復帰させ、同じく待機中の英東洋艦隊ともども呼び寄せる策に出た。
一方ブルネイを出港した伊藤整一中将指揮する第二艦隊主力も、狭隘なパラワン水道通過時に米潜水艦と遭遇した。
この潜水艦「デイス」は日本艦隊への襲撃を試みるも、重厚な駆逐艦の布陣に襲撃機会を逸し、発見の報告のみに留めた。
対する日本側は「デイス」発見の報で狭隘な水道をできる限り早く通過する策に出たが、この際に重巡「愛宕」と「摩耶」が相次いで触礁し、駆逐艦2隻とともに後退する羽目に陥った。
このため、第二艦隊は初っ端から進撃速度が予定よりも鈍ってしまった。
対して低速で別動隊とされた木村艦隊は、全く空襲も潜水艦により襲撃も受けることなく西進した。数回米索敵からの接触を受けたものの、それだけであった。
というのも、米側は木村艦隊の艦隊規模から、レイテで上陸支援中の第七艦隊の砲戦部隊と、同じく周辺で遊弋する護衛空母部隊で、木村部隊は容易に撃退できると判断していたのだ。
なお、伊藤艦隊についても、南下してくる小沢艦隊から目を逸らす陽動と見ており、まさか日本側が空母機動部隊を囮にして、砲戦艦隊を突っ込ませるという考えには思い至っていなかった。
またこの時点でも、日本の基地航空隊が散発的な攻撃を仕掛けており、この基地航空隊の攻撃で軽空母「プリンストン」が撃沈されるという、思わぬ出血を強いられていた。
フィリピンでの戦いを、決戦と考える日本陸海軍上層部では、本土にB29が迫る中でも航空戦力を抽出し、島伝いでの補給を続けていた。しかも、補給される機体は「紫電改」や零戦54型、四式戦闘機「疾風」や五式戦闘機「迅雷」で、機体の出来や乗り手に左右される面は大きいが、これまでの日本製の機体に比べて明らかにレベルの違う機体だった。
だから、攻める米軍側もフィリピン上空の制空権を完全に奪取したとは言いがたく、どうしても航空機の運用に慎重になっていた。これが陽動艦隊への攻撃を控えさせるというマインドに繋がっていた。
それでも、上陸部隊を直接援護する護衛空母部隊からの攻撃が伊藤艦隊に差し向けられた。
延べにすると、約300機の攻撃機が伊藤艦隊に波状攻撃を仕掛けた。
しかしこの攻撃、三群の護衛空母部隊がテンでバラバラに襲撃したものだから、確かに戦艦「陸奥」重巡「妙高」大破など、それなりに戦果は挙げたが、撃沈艦は0で、伊藤艦隊の進撃も止められなかった。
しかもこの攻撃で護衛空母部隊とその搭載機の燃料や弾薬を大きく消費し、上陸した部隊の援護が不十分となった。
やむなく、上陸部隊総司令官マッカーサー元帥を宥めすかして、戦艦部隊の内40cm砲搭載艦である「コロラド」「ウェスト・バージニア」「メリーランド」に「カリフォルニア」を加えた4隻と巡洋艦12隻、駆逐艦20隻が伊藤艦隊迎撃のためにレイテ湾を離れた。
残る戦艦「テネシー」「ペンシルヴァニア」と残存する巡洋艦、駆逐艦、魚雷艇戦隊が木村艦隊を迎撃する布陣をとった。
こうして舞台が整い、レイテ沖海戦の一部を構成するスリガオ海峡海戦が勃発した。
当初木村中将は、夜戦も考慮したと言うが、寄せ集め艦隊であることや、狭隘海域での敵レーダーへの警戒から、敢えて航空攻撃を受けやすい昼間の戦闘を選んだ。
スリガオ海峡突入前に、木村艦隊は陣形を変更し、それまで先行していた警戒艦を最後尾に下げて、「時雨」と5隻の「松」型による単従陣を先頭に出し、続いて重巡、戦艦、残る駆逐艦を単従陣とした。
また海戦突入直前にこの時点で残存していた4機の「瑞雲」を爆装の上で出撃させた。
対する米艦隊は当初魚雷艇、駆逐艦の双方向からの波状攻撃、最後に戦艦、巡洋艦による丁字戦法を当初考慮したが、散発的に行われる日本の基地航空機による攻撃や、ところどころにあったスコールに阻まれたため、魚雷艇による襲撃後は日本艦隊に正面からの反航戦を挑むプランに変更した。
開戦の口火は、日本側が先行させた「瑞雲」水上爆撃機による魚雷艇発見と攻撃から始まった。
たった4機とは言え、いずれも250kg爆弾と20mm機銃で爆装しており、米魚雷艇にとっては侮りがたい敵であった。
こうして気勢をを削がれたところに「山城」「扶桑」「最上」「伊吹」の射撃、それも三式弾による広範囲への焼夷弾攻撃を受けたため、米魚雷艇の襲撃は失敗に終わった。
次に発生したのが、駆逐艦同士の戦い。数としては日本側の6隻に対して、連合軍側(米豪合同)は8隻であったが、日本側はいずれも高速と長射程、大威力を誇る酸素魚雷装備なのに対して、連合軍側はいずれも「松」型の倍の大きさと武装を誇る艦隊型駆逐艦であった。
結果は痛み分けで、日本側が「松」型3隻を砲撃で喪ったのに対して、米側は砲撃での損失はなかったが、2隻が魚雷攻撃で撃沈された。また日米双方とも残存駆逐艦は大なり小なり損傷し、後退した。
そして戦艦と巡洋艦同士の戦闘は、文字通り真正面からのガチンコ対決となった。日本側が戦艦2重巡2に対して連合軍側も戦艦2巡洋艦4と、多少連合軍側有利であった。
結果的に戦艦は双方ともに1隻ずつ「山城」と「テネシー」を喪い、巡洋艦は日本側が「最上」を喪失したのに対して、連合軍側が「オーストラリア」と「ボイシ」を喪失した。
うち「ボイシ」は「伊吹」の魚雷を2本受けたのが致命傷となった。
こうしてスリガオ海峡海戦は「松」型も参加した本格的な砲撃戦となったが、双方ともに同程度の被害で痛み分けとなった。
ただし、レイテ沖海戦という戦役レベルで考えると日本側にとって、一時的に有利な情勢をもたらした。
と言うのも、ここで一部戦力を割いて迎撃を行った第七艦隊は、伊藤艦隊に戦力的に劣勢となり大敗してしまったからだ。
このため、一時的にレイテ上陸地点周辺の部隊と船団は、パニックに陥ったが、その後残る3個護衛空母艦隊が文字通り捨て身の反撃を行って伊藤艦隊を退却させ、米上陸群は首の皮一枚で救われることとなった。ただし、この結果として12隻もの護衛空母が日本側の水上艦艇からの砲雷撃と、潜水艦からの雷撃で喪われるという事態になったが。
そしてこの間、米機動部隊主力たる第5艦隊はと言えば、日本の第三艦隊への攻撃やフィリピンの日本空軍力への対処で手一杯となり、ウルシーからの増援戦力と合わさって、第三艦隊の空母2隻を撃沈したものの、撤退する伊藤艦隊と木村艦隊への攻撃は失敗し、艦載機多数を喪失した。
結果的に、日本海軍のフィリピン救援は失敗したが、ではこれで連合軍がフィリピンを容易に手に入れられる状況になったかと言えば、決してそういうわけでもなかった。
というのも、対地支援を行うべき第七艦隊と護衛空母群が壊滅的な打撃を被ったため、米第五艦隊はその戦力の一部を、この代替として派遣せねばならなかった。
これは米第五艦隊の動きを大きく掣肘し、以後計画されていた硫黄島や沖縄への上陸作戦のスケジュールを大きく延期させることとなった。
そして「松」型にとって、ここからが本当の戦いであった。
フィリピンへの増援物資を運ぶ輸送艦の護衛に、フィリピン陥落前に少しでも物資を本土に運び込む輸送船団の護衛と、仕事はいくらでもあった。
一度米軍の上陸を許し、さらに主力であり機動部隊の第5艦隊が健在である以上、日本側の劣勢は覆い隠せないものであったが、それでも「松」型駆逐艦と、彼らに護衛された増援船団や資源還送船団は犠牲を払いつつも任務を続行した。
1945年5月にルソン島にも連合軍が上陸したことで、フィリピン失陥は確実なものとなったが、それでも8月の日米終戦まで、在比日本軍は戦闘を継続した。
1945年6月時点で、日本本土は米軍の超重爆撃機B29による度重なる爆撃を受けている状態であった。このため、本土の軍需工場や都市の被害は大きくなりつつあったが、一方で米軍側も決定打に掛けていた。
日本側が硫黄島を確保し続けていたため、護衛戦闘機も不時着場もないB29爆撃機は、性能的には可能とは言え、乗員に多大な負担をかけ続ける長距離単独爆撃を行うしかなかったからだ。
対する日本側も、高高度への砲撃可能な15cm高射砲の生産と配備や、ようやく完成した局地戦闘機「震電」や戦闘機「烈風」などを配備して対抗した。
米国としては、残る日本への切り札はソ連の参戦か、原子爆弾の使用であった。
しかし、前者は既にその兆候を見せ始めた冷戦のことを思うと、むしろソ連が対日戦争に参入するのはよろしくないものであった。
しかもこの後の7月に行われたポツダム会談では、そんなアメリカの足下を見てか、ソ連の要求がエスカレートし、対日参戦後の北海道並びに東京・群馬・新潟を結ぶ線以北のソ連統治まで言い始めた。
もちろん、米国としては認められない。そもそも、太平洋上にソ連の拠点となるような場所を譲ることすら、脅威になりつつあった。
この会談で、後に西側となる米英とソ連の敵対は決定的なものとなった。
となると原爆の使用だが、硫黄島も沖縄も取れていない状況では、日本本土への投下は機材やクルーへの負担が大きく、心許ないものであった。
そうこうしている間の昭和20年8月9日、ついにソ連軍が満州、樺太、千島への侵攻を開始した。
これに対して、日本側は猛反撃を開始した。米軍の台湾以北への侵攻は当分ないと見た日本は、台湾、沖縄方面への戦力抽出中止や、中国戦線を縮小してまで、満州の関東軍に精鋭4個師団を残し、既に貴重とも言えた戦車400両と第一線用航空機600機を集結させていた。
また海軍もレイテ沖海戦を生き残った「大和」「武蔵」を中心とした残存艦により編成された最後の有力艦隊である第二艦隊を舞鶴から出撃させ、ソ連軍の拠点であるウラジオストクへと砲撃を加えた。
この第二艦隊には3隻の「松」型が参加していた。
相次ぐ艦艇の損耗に、連合艦隊は主力艦隊にすら「松」型を参加させなければならなかったが、相手が格下のソ連海軍と対地・対空戦闘であるなら、何ら問題はなかった。むしろ、この時出撃した3隻はいずれも5式40mm機関砲装備艦で、来襲したIL-2攻撃機を撃墜する戦果を挙げている。
また樺太や千島、朝鮮方面の救援に駆け回った駆逐艦の3分の2が「松」型だった。この時点で「松」型は実質的な帝国海軍の主力駆逐艦となっていた。
一方ソ連軍は千島方面では、8月18日に占守島へ上陸したが、日本側は陸続きの満州や樺太を重視し、この島の防衛は最低限の戦力しか置いておらず、片岡飛行場の戦力も数機の偵察、哨戒、防空用機だけで、ソ連軍が上陸を開始すると、すぐにお隣で海軍の軍港もある幌筵島に後退した。
この撤退作戦にも「松」型やその眷属である輸送艦の姿があった。
そして、後に世界の歴史を変えた8月19日。日本軍が撤兵し、ソ連軍が迫る占守島片岡飛行場上空に、アリューシャン列島から飛来した3機のB29が出現、その内の1機である「エノラ・ゲイ」号から、1発の爆弾が投下された。
投下された爆弾は片岡飛行場の上空500mにて起爆し、地上にもう一つの太陽を出現させた。
飛行場に接近していたソ連軍の内、爆心から一番近い3km地点にいた部隊では、熱線による軽度の火傷やその後の爆風による転倒者、そして不幸にも爆心方向を双眼鏡で確認していたための失明者数名が発生したが、それ以上の被害はなかった。
だが、彼らは目撃した。飛行場・・・いや、飛行場だった場所におどろおどろしく立ち上るキノコ雲を。
その様子は、対岸の幌筵島からも観測され。さらに同島に寄港中の「松」型駆逐艦「橘」からも目撃され、同艦乗り組み士官がカメラが撮影したキノコ雲の写真が今に伝わる。
この原子爆弾の投下に、ソ連はもちろん米国に猛抗議したが、米国の言い分は「降伏しない日本軍への使用であり、また最初は原子爆弾の威力を見せつけるために、周囲に人家の少ない軍事基地に使用した」と強弁した。
この威力を見せつける相手が日本だけでないことは、明白であった。
そして昭和20年8月20日、大日本帝国政府はソ連を除く交戦中の全ての国に対して、無条件降伏すると発表した。
ソ連を除いたのは、もちろん今まさに満州・樺太・千島で激闘が続いているからだ。
もちろん、ソ連政府はこの虫の良い日本の無条件降伏に意義を唱えたが、既にソ連と距離を置きつつあった米英蘭など西側諸国は「ソ連の参戦は、自国のみで責任をとるべき問題。日本が自衛のための戦闘を続けることに、我々は干渉しない」と宣言したため、ソ連単独で戦うしかなくなった。
しかし、実際のところウラジオストクは灰燼に帰し、太平洋艦隊はほぼ全滅し、千島や樺太では押し返される始末。唯一満州だけは、自慢の機甲部隊を使って進撃を続けるも、日本側も精鋭部隊や航空部隊を投入し、その速度は破竹とはほど遠く、それどころか日本側がソ連領内に爆撃を仕掛けて補給線を絶つなど、長期戦の様相を帯びつつあった。
しかも、この頃太平洋方面では停戦した各地域に西側連合軍が進駐しつつあり、その中には朝鮮半島もあって、知らぬ間に沿海州の喉元に米英軍のナイフが迫っていた。
結局この状況にソ連も白旗を揚げ、日本側と停戦した。時に1945年9月15日のことであった。
日本は無条件降伏し、満州・台湾を含む全占領地の放棄と保障占領と連合国の勧告に伴う国内改革を強いられたが、樺太と千島は何とか守り抜き、また大幅な制限付きながら軍備の保有も認められた。
終戦時残存していた「大和」「武蔵」などの戦艦や大型空母、重巡以上の巡洋艦は接収、破棄、売却となったが、沿岸警備と残存領土の航路を結ぶ軽空母や軽巡、駆逐艦、海防艦、潜水艦は性能や隻数の制限を強いられたが、保有を認められた。
結果として、戦後日本海軍が再出発に際して、数的に主力を成したのは「松」型とその眷属たちであった。その中には終戦時まだ建造中で、工事続行の上戦後完成した艦も多数あった。
また一部の艦は、中華民国やタイ、独立した韓国やインドネシアなどに譲渡され、アジア各国の海軍を支えた。
「松」型が本格的な海戦に参加した数は、レイテ沖海戦含めて数えるほどしかないが、大量に就役した同型によって守られた通商路と輸送路がなければ、日本の継戦能力の低下はもっと早く進み、終戦時より厳しい状況に置かれたことは、想像に難くない。
そして戦後の海軍存続の際も、その復活を支える屋台骨となった。
小さな艦体ゆえに、比較的小さな湾や港にもその姿を現し、国民の多くに海軍の存在をアピールした点も見逃せない。
戦後20年もすると、新造艦建造の条件が緩和され、老朽化も相まって「松」型の退役が相次いだが、それでもフィリピン海軍に譲渡された最後の2隻が退役したのは、戦後75年近くが経過してからである。
この2隻は退役後もフィリピン海軍において教材として保管されているが、現在記念艦として日本国内へ帰還させる運動が起こっているのは、周知の事実である。
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