表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

 架空戦記創作大会お題③となります。

 1941年12月8日、大日本帝国は米英を中心とする連合国に宣戦を布告し、それと同時に東南アジア各地へ侵攻を開始した。加えて、遠く太平洋上のハワイ・真珠湾には第一機動艦隊が航空戦力による奇襲攻撃を仕掛けた。


 後に第一期作戦と呼ばれる南方資源地帯、ならびに日本の防衛圏の拡張は、開戦から半年もしないうちに完了し、日本はその戦略目標を達成した。


 しかし、その作戦行動を担う大日本帝国海軍では、深刻な事態が発生していた。それは想定以上の駆逐艦の消耗であった。


 開戦から半年のうちに、日本海軍が喪失した駆逐艦は11隻にのぼり、このうち9隻までもが「吹雪」型以降に建造された駆逐艦であった。


 しかも日本海軍にとって衝撃的だったのは、このうち本来の用途である艦隊同士の戦闘で沈んだのは、スラバヤ沖海戦の「朝雲」とバリ島沖海戦の「満潮」の2隻のみで、後は全て航空機や潜水艦による雷撃、および敷設された機雷に触れてのものであった。


 この結果は、日本海軍の関係者にとって衝撃の数値であった。帝国海軍が長年に渡って整備してきた駆逐艦戦力が、本来の性能を発揮できぬまま、しかもこの時点では格下と認識されていた航空機や潜水艦により喪失してしまったのだから。


 さらに6月に発生したミッドウェー海戦でも、南雲機動部隊に所属していた駆逐艦「嵐」が米潜水艦「ノーチラス」の雷撃を受けて大破、後に自沈処分となった。しかも、この時近くにいた戦艦「霧島」も被雷(こちらは不発)するという事態が発生した。


 これは日本海軍駆逐艦の対潜能力に、決定的な疑問を生じさせるものであった。


 ただし、この出来事で陣形が乱れた結果、後の米急降下爆撃機の照準が「赤城」と「蒼龍」のみに絞られ、2隻は轟沈したものの、被弾を免れた「加賀」と「飛龍」の反撃で米空母2隻を仕留められたのは、ある意味皮肉な出来事であった。


 こうした状況から、日本海軍では艦艇建造計画に大きな変更を強いられることとなった。駆逐艦に関しても、開戦以来の度重なる損害の補充に加えて、敵潜水艦や航空機への一層の対策を求められたのである。


 この時点で、日本海軍が建造中の駆逐艦は「吹雪」型の流れをくむ主力の艦隊型駆逐艦(いわゆる甲型)である「夕雲」型、そして艦隊水雷戦の極致の性能を有する試験駆逐艦(いわゆる丙型)の「島風」、さらに対空駆逐艦と言うべき直衛艦の流れをくむ「秋月」型(いわゆる乙型)であった。


 いずれも単体で見れば、帝国海軍の建造技術の粋を集めた高性能駆逐艦であり、世界標準以上の性能を有していた。


 しかし「夕雲」型は、戦時建造の駆逐艦としては高価かつ贅沢なものであり、試験駆逐艦である「島風」型は高圧力の機関を採用しているので尚更量産が難しい。加えて多少の強化はされているものの、両型ともに対空・対潜性能も押し並べて低い。


 また航空機の時代に適合する「秋月」型は、サイズ的には軽巡の「夕張」に近いものであり、機動部隊の随伴艦として必要なものの、戦時下に喪失艦の穴を埋められるような数を建造するのは、不可能であった。


 帝国海軍は嫌でも、戦時に適合した汎用性と生産性の高い駆逐艦を建造せざるを得なかった。


 こうして建造が決定したのが「松」型である。


 排水量はこれまでの主力駆逐艦の半分の約1200トン。速力も27ノット台とギリギリ艦隊に付いてこられる速力で、武装も12.7cm砲3門と61cm魚雷発射管4門と、これまた既存艦の半分程度であった。


 帝国海軍には1000トン以下の駆逐艦である2等駆逐艦や、軍縮条約の制限外を狙って建造した水雷艇という艦種があるが、排水量を除くと主力武装はほぼ同じレベル、速力では劣っていた。


 その一方で主砲は全て対空戦闘に向いた高角砲であり、さらに竣工段階で25mm機銃を12挺も搭載し、爆雷の搭載定数も既存の駆逐艦より多くされていた。


 設計は南方作戦での相次ぐ駆逐艦の損耗が起きた1942年5月に開始されたが、9月に米軍がソロモン諸島のガダルカナル島に上陸し、同方面での駆逐艦の損害(沈没のみでなく、大中破による戦線離脱含む)がうなぎ登りに増えたこともあり、設計と着工に向けた資材確保が急がれ、同年10月に設計が完了するや否や、1番艦「松」が起工された。さらに1942年中に、実に8隻が起工された。


 この時点で日本海軍の駆逐艦建造計画は、建造中の「夕雲」型と「島風」を除き、以後は「秋月」型と「松」型に連なる駆逐艦に集約された。


 1943年10月に待望の1番艦「松」が竣工し、以後竣工と建造ペースが早められた。それほどに、日本海軍の戦力の消耗は急速だったのだ。特にガダルカナル島の戦いから続くソロモンで海域での戦いは、日本海軍上層部を南方作戦以上の衝撃を与えるレベルの損耗であった。


 とにかく、駆逐艦がよく沈む。それも旧式化しつつある「吹雪」型のみならず、最新鋭の「夕雲」型や「秋月」型にすら、戦線投入した傍から撃沈されるという、悪夢が発生していた。


 こうした中で「松」型は1943年中に1942年に起工された8隻全てが竣工した。


 最初は1年程度要していた建造機関は、その後資材の統一やブロック工法の拡大、溶接の拡大などあらゆる方策を駆使して、後に最短建造期間6ヶ月を達成した艦まで現れた。


 なお、余談だが。この「松」型の設計を流用する形で、後部にスロープを設けた一等輸送艦も並行して大量建造された。小型ゆえに輸送量は少ないが、駆逐艦譲りの高速で、なおかつ高角砲や機銃を搭載したことで、敵潜水艦や航空機が跳梁する海域でも生存率の向上に大いに寄与した。


 とはいえ、いくら期待の新型駆逐艦でも実戦投入までは時間を要するのは必定で、最終的に「松」が実戦配備されたのは1944年1月のことで、それも配備先は1943年10月に組織された海上護衛総隊であった。


 これはこの時点において、艦隊型駆逐艦や防空駆逐艦の数にまだ余裕があり、主力艦に組み入れる必要など無かったことに加えて、十分な練度を得ていなかったために、海上護衛総司令部で腕ならしをさせるという目的があった。


 さらに言えば、貴重な艦隊型駆逐艦を護衛任務に振り向けたくないという、旧態依然とした考え方があったものも、否めない。


 しかしながら、この配置はある意味「松」型に一番適していた運用と言えた。


 同艦は対空・対潜にも重きを置いた設計になっており、探信義や電探も建造段階から装備された。そのため、これまでの艦隊型駆逐艦よりも航空機や潜水艦相手に、多少なりと戦いやすくなった。


 加えて初期の「松」型は、まだ初期不良などへの不安から竣工から2~3ヶ月という慣熟訓練期間を得られた。これは戦時下にあっては、貴重なことであった。


 もちろん、船団護衛という仕事は、派手な戦闘や戦果とは無縁だ。しかし、敵の航空機や潜水艦の接近を阻止し、船団を無事に送り届けるだけでも大きな成果である。


 現に「松」型駆逐艦を目撃した米潜水艦艦長や、パイロットはかなり早い段階で、このクラスが対空・対潜に重きを置いた新型フリゲートであると報告し、米国の艦艇識別票にも早々と掲載された。


 だが日本海軍において、その存在を際立たせたのは1944年4月に発生したトラック島への米機動部隊による大空襲であった。


 この時点で「松」型は15隻近くが竣工し、このうち初期ロットにあたる1番艦「松」以下の4隻は海上護衛総司令部を離れ、新編成の第31戦隊の指揮下にある第43駆逐隊に集められていた。


 第31戦隊は、旗艦を対空巡洋艦として改装された軽巡「五十鈴」に置き、その指揮下に主として駆逐艦や海防艦を含めた帝国海軍初の、対潜掃討部隊であった。


 1944年初頭、帝国海軍はソロモン・ニューギニアと言った南東方面ならびに中部太平洋方面で連合軍の攻勢に晒されていたが、一方で1943年1月の南太平洋海戦後は活躍の場がなかった機動部隊ならびに基地航空隊の整備に全力を傾け、来寇する米太平洋艦隊に一撃を加えるウ号作戦を企図していた。


 この機動部隊が洋上で演習する際の安全確保、ならびに作戦海域に向かう際の前路啓開を行うため、第31戦隊もトラックに進出し、連日環礁外に出撃し、潜水艦の掃討や、時には来襲する米長距離偵察機への対空戦闘を行っていた。


 そんな中4月5日、連合艦隊の通信部隊が中部太平洋マジュロ環礁から、ラバウル方面への米機動部隊出撃の兆候を掴み、コレに伴い空母「瑞鶴」を旗艦とする機動部隊はトラック南方へ向けて出撃し、基地航空部隊も臨戦態勢に入った。また航続力の短い戦闘機隊はラバウルやショートランド方面へ移動を開始した。


 しかし、日本側の予測に反して米機動部隊が襲撃を目論んだのはラバウルではなく、その後方のトラックであった。


 4月7日、主力艦隊が出撃し、鬼の居ぬ間とばかりに米機動部隊の艦載機がトラック環礁に襲いかかった。


 この時環礁内に重巡以上の艦はおらず、艦艇は全て軽巡以下、そしてトラックやラバウルに補給物資を運んできた多数の輸送艦船であった。


 またトラック環礁の各航空基地には、防空戦闘機として40機あまりの零戦と20機あまりの「雷電」「紫電」に10機ほどの二式水上戦闘機が展開していた。


 これらは幸いにも環礁より定時索敵に発進した二式大艇が、撃墜前に発信した急報を受けて、次々と発進した。


 だが相手が悪すぎた。米機動部隊は制空権奪取を確実にするため、第一波攻撃隊を誘導機以外全て戦闘機で固めていた。その総数200機あまり。


 結果は30機あまりの撃墜破と引き換えに、飛び立った80機のほとんどが撃墜されるか、再起不能なほどの損傷を負ってしまった。


 そこへ、艦爆・艦攻を主力とする150機あまりが来襲した。


 結果は悲惨で、実に40隻近い輸送艦船や艦艇が撃沈されるとともに、トラック島の基地施設も甚大な被害を負ってしまった。


 そんな中で、気を吐いたのがたまたまトラック島に立ち寄っていた特務艦「宗谷」と、そして4隻の「松」型駆逐艦、そして5隻の一等および二等輸送艦であった。


 これらの艦は、幸運にも空襲開始時には機関を既に開始しており、乗員が戦闘配置に就くのも早かった。


 そのため、いち早く敵機視認後主砲である高角砲の撃ち方を始めている。


 トラック環礁は環礁内でも広大な面積を誇っており、高速での回避運動が可能であった。


 だから多くの艦船が抜錨間に合わず、停止した状態で標的となり、次々と被弾する中で、この10隻は対空戦闘と回避運動を同時に行うことが出来た。


 結果的にこの10隻の中で一等輸送艦1隻と二等輸送艦2隻が被弾して大破したものの、幸いにも沈没は免れることができた。


 各艦は猛烈な砲火を米軍機に浴びせたが、最終的に米軍側の記録と照合されて、戦後判明した確実な撃墜数は5機(艦戦2機、艦爆3機)とされている。ただし、被弾させた敵機は20機以上に昇り、加えて米軍パイロットから「極めて有力な対空火網を形成していた」と報告され、当初の対空戦闘も考慮した設計の正しさを証明した。


 もちろん、米軍側の艦艇識別表に新たな注意事項が書き加えられたことは、言うまでも無い。


 またこの時「松」型駆逐艦と共闘した輸送艦は、いずれも「松」型の設計や建造技術を活かした戦時急造艦であり、図らずも以後の日本海軍を支える新艦種がその実力をともに発揮した最初の戦いとなった。


 このトラック環礁の壊滅により、大日本帝国は戦線の縮小、特に中部太平洋方面と南東方面の多くから後退を強いられることとなった。


 そして皮肉なことに、その撤退作戦で活躍することとなったのが「松」型駆逐艦や、その眷属とも言うべき輸送艦であった。


 1942年に建造を開始した「松」型とその流れに連なる急造艦艇は、この頃次々と竣工し、戦線へと加わっていった。


 それゆえに、決戦兵力や後方での物資輸送に重宝される艦隊型艦艇や、大中型輸送船に代わり、日本側の制空権や制海権が奪われた海域での運用を強いられることとなった。だがそれがまさに、これらの艦艇にとって適役となった。


 主砲に対空砲を採用し、機銃も多く装備しているが故に、従来型艦艇よりも対空・対潜戦闘に向いており、小型故の小回りの良さも、強行任務にはむしろお誂え向きであった。


 また戦時急増ながらも「松」型では機関のシフト配置の採用、その他の艦艇でも徹底的な不燃化などの被害対策を施しており、打たれ強い艦でもあった。


 もちろん、厳しい戦況故に戦没する艦も出てくる。


「松」型一番艦の「松」も、西部ニューギニア方面への輸送作戦中、米水上艦艇と交戦して戦没しているなど、水上艦、航空機、潜水艦、機雷などにより喪われる艦が続出した。


 それでも、次々と新造艦が竣工することで、これらの損失をカバーした。


 また1944年下半期に入ると、バージョン違いの艦も出始めた。


 一つは魚雷発射管を撤去して、主砲(高角砲)をさらに2門(連装1基)と対空ロケット砲を搭載した艦で、ネームシップから「櫪」型とされて10隻が竣工している。さらにこのうちの3隻は、鹵獲ボフォース高射機関砲をコピーした5式40mm機関砲を高角砲代わりに連装2基搭載し、接近する米軍機に大いに恐怖を与えている。


 対空特化型とくれば、対潜特化型もあった。「竜胆」型とされたこのタイプは、魚雷発射管の撤去は「櫪」型と同じであったが、後部の高角砲を魚雷発射管の位置とし、本来の後部高角砲搭載スペースに爆雷投射器を増設したものであり、都合7隻が用意された。


 1944年8月、米軍は満を持してマリアナ諸島攻略作戦を開始した。


 既に中国大陸からのB29超重爆撃機の爆撃も始まっているこの頃、マリアナ諸島が陥落すればその基地となることは、明らかなことであった。


 このため、日本海軍連合艦隊は総力を挙げてこれを阻止するべく、行動を開始した。


 後にマリアナ決戦と呼ばれるこの戦闘にも「松」型は数多く参加したが、連合艦隊主力部隊に参加した艦は皆無である。


 代わりに投入されたのが、マリアナ諸島へ送られる増援部隊や軍需物資、そして帰路は小笠原や本土へ疎開する一般市民を運ぶ輸送船団の護衛と、主力艦隊への給油や物資補給を行う給油艦などの護衛任務であった。


 華々しい戦闘とは無縁であったが、マリアナ諸島への輸送作戦では陸軍の増援1個師団や基地航空隊への増援物資の予定量ほぼ全てを輸送し、往路もマリアナ諸島の民間人の7割あまりの引き揚げに成功している。


 残念ながら、主力艦隊同士の戦闘では、日本側は米機動部隊に打撃を与えたものの、マリアナ諸島への上陸を防ぐには至らなかった。しかし、給油艦や損傷艦の護衛に「松」型は活躍し、その損害を給油艦1隻のみに留めた。


 結果的にマリアナ諸島の陥落は避けられないものとなったが、決戦前に輸送された部隊は、充分な物資のもとで粘り強く抗戦し、最終的に米軍がマリアナ諸島の完全占領を宣言したのは、10月下旬のことであった。


 また西部ニューギニア地域からも11月までには撤退となり、連合軍の次の攻勢が、日本と南方資源地帯を結ぶラインの重要拠点であるフィリピンとなるのは確実となった。


 このため、マリアナ陥落直後から日本側は以前より進めていた沖縄からフィリピンに至るラインの防衛強化に努めた。


 そもそもの国力が小さい日本が行えることに限界があったが、その中でも「松」型駆逐艦はこの重要輸送や南方資源地帯を結ぶ航路の護衛に全力を尽くした。


 この戦いは激烈で「松」型だけでも、わずか3ヶ月のうちに7隻を喪失している。


 一方で米潜水艦も、日本側の各種反撃で8隻の潜水艦と100機近い双発爆撃機を喪失しており、その激烈さが良くわかる。


 こうした犠牲を払いつつ、フィリピン防衛強化が進められた。特に陸軍では、航空隊と戦車隊の増強が行われ、最新鋭の四式戦闘機や四式重爆撃機、一式中戦車や二式砲戦車などを装備する部隊が投入された。


 これら有力装備部隊の8割近くが揚陸できたのも「松」型を含む、護衛艦艇の働き故であった。



御意見・御感想お待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ