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「大人しく私を帰してくれたら良かったのに」


 そう言うと、キムは目を丸くし耳をピンッとたてた。


「どこに帰るって言うのサ?」


「え?」


「だって、ランダース商会の現会長夫人がお嬢さんに関する噂を流してたんだヨ? 話しを聞くに、マダムヘレンの独断でやってみたいだけどサ、商会長はマダムのしたことを〝仕方がない〟って許してるみたいだよネ」


 マダムヘレンは自分で義理の娘になるミレイさんを守るため、私を社交界の悪意から守るための盾に仕立てた。ご長男夫婦はそれを非難してくれたみたいだけれど、マダムヘレンの旦那様である現商会長は容認した、らしい。


 それは、ランダース商会全体がそれを容認したことになるんじゃないんだろうか? そうなのだとしたら……


「あんな酷い噂流して、お嬢さんが実際にご令嬢方から難癖付けられたり、悪意に満ち満ちた手紙を一杯受け取って嫌な気持ちになってても……それを許してた商会だヨ? それをなんともなかったでしょって言い切る商会だヨ? その商会が用意した社員寮、商会本社での仕事」


 喉がカラカラだ。

 でも、なにかを口にしたい気分じゃない。


「お嬢さんはさ、そんな所に帰りたいのかナ? いや、帰れるのかナ?」


 ずきっと胸が痛んだ。


 キムの言うことは否定出来ない。

 ランダース商会での仕事は好きだ、やりがいもあるし色々な品を見られるのは楽しい。一緒に働く職員たちも良い人たちばかりだ、職場環境だって文句はない。


 でも、噂の正体と誰がどういう理由で流したのかを知ってしまった今、ランダース商会に戻りたいかと言われたら返事は出来ない。

 この世界に家族のない私は、番がいない私は……帰る場所がない。


「……個人的に頼りに出来る連中はいるだろうネ。キツネだったり、イヌだったり……ああ、オオカミもいるよネ。でも、彼らには彼らの家庭があって、お嬢さんが入り込める隙はない、ネ?」


「っ……」


「ああ、それにお嬢さんが心配していたオオカミくんだけどサ」


 私が顔をあげると、キムはニカッという擬音が似合う笑顔を浮かべた。


「リアム・ガルシアって名前の、二十代、男、黒と灰色のオオカミ獣人だけどネ」


 キムは手でコニーさんになにかを合図した。合図を受けたコニーさんは部屋に運び込んでいた荷物の中から、薄黄色の大型封筒を出してキムに手渡した。


 封筒を貰ったキムはそれを私の前でヒラヒラと揺らす。


「存在してないんだよネ」


「え?」


「だから、リアム・ガルシアってオオカミ獣人は、この世に存在していないのサ。ウェルース王国、フェスタ王国、クレームス帝国、アラミイヤ国、ファンリン皇国、ポニータ国……どこの国の籍にもそんな男はいないんだヨ」


「……え?」


「商業ギルドに雇われてるからちゃんとしてるって、思ってたんだよネ? でも、残念でしタ! 最低でもあのリアムってオオカミくんは、名前も国籍も立場も不明」


 嘘、嘘だよね?


「お嬢さん、キミは騙されていたわけだネ! ほら、お嬢さんも自分の目で確認してヨ」


 大型封筒の中から出て来たのは、戸籍の確認証書。

 ご丁寧にこの世界にある大半の国に確認をとったようで、リアム・ガルシアという若い男性のオオカミ獣人、黒と灰色の毛並みに青い瞳を持っている人物には該当者がいないと書かれている。


「……いったい彼は誰なんだろうネ?」


 体から熱が消えていく。


「彼は何者で、どうしてお嬢さんに近付いたんだろうネ?」


 体から力が抜けていく。


「もしかしたら、彼はどこかの国の諜報員かなにかでサ? 仕事のなにかを誤魔化すために、お嬢さんに近付いて熱心に口説いてる風を装っていたのかもネ?」


 私は目をギュッと閉じた。瞼の裏は真っ暗で、なにも見えない。でも、声が聞こえる……私を呼ぶリアムさんの声、レイと呼ぶ声。最後に聞いたのは〝レイナ〟と呼ぶ声。


 レイナ? レイナ?


「お嬢さん、キミはそれでもまだ、あのオオカミくんを信じてるのかナ?」


 私はこの世界で自分の名前を〝レイ・コマキ〟と申告した。だから、私のことをみんな〝レイ〟と呼ぶ。


 本当の名前は〝レイナ〟だけれど、それを知っているのは従姉妹の杏奈だけだ。


 どうして〝レイ〟と申告したのかと言えば、異世界から召喚されてこの世界にやって来たばかりのとき、基本情報を登録すると書類を書かされた。年齢、性別、名前やあちらの世界での国籍、職業や立場などの個人情報。それを記入するとき、この世界に魔法があると知ったから。


 魔法というものは私にとっては未知のもの、どんなものなのかさっぱり分からない。私が知るファンタジー的な想像をしている魔法とは全く違う可能性があった。


 そのとき私の頭に浮かんだことは、魔法に対して自分の本当の名前を知られてはいけない、というなにかの物語で読んだ内容だった。


 精神に訴える魔法はその人の本当の名前を知らないと効かないとか、そういうことが書かれていたことを覚えていた。人の心や精神に作用する魔法が実際、この世界にあるのかは知らない。けれど、少しでも可能性があるなら潰しておいた方がいい。


 私は本名を知られてはいけないものだと思い、自分の名前を〝レイ〟と簡略化したもので登録した。幸い杏奈は子どもの頃から私を「レイちゃん」と呼ぶので、名前を簡略化していることは誰にも知られないと思ったのだ。


 なのに、どうしてリアムさんは私の本当の名前を呼んだの? 書類にも残していないから、誰かから聞いたことになる。でも知っているのは杏奈だけで、杏奈から教えて貰ったとは考えにくい。だって、杏奈は番のクマ獣人さんと彼ら一族が治める領地で暮らしているはずだから。


 分からない。


 傷ついてひび割れた心で、それでも恋をした相手のことが分からなくなる。


 誰も知らないはずの私の本当の名前。それを知り得た状況も分からないままなのは恐い。


 でも、本当の名前を呼ばれた嬉しさもある。あんなに傷付いても、必死に私を追いかけて「レイナ」と呼んでくれたことは私の心に響いている。

 私の本当の名前を知らないはずの世界で、唯ひとり私の名前を必死に叫んでくれた。



 リアムさん、あなたは一体何者なんですか?


 どうして私に近付いて来たんですか?


 どうして私に優しくしてくれたんですか?


 どうして私の名前を知っているんですか?



 どうして……?

2022年の投稿は本日が最後になります。

1年間お付き合い下さいましてありがとうございます、ブックマークやイイネなどは本当に励みになりました。感謝してもしきれないくらいです、ありがとうございます。

来年2023年も引き続きお付き合い頂けますと嬉しいです。


皆さま、温かくして素敵な年末年始をお過ごし下さいませ。

来年は1月11日周辺から投稿する予定でおります。

どうぞ来年も宜しくお願い致します。

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