閑話08 マリウス・ベイトの心配
その話しが事務所に入ってきたのは、もう仕事も終わろうっていう夕方の時間だった。
その日の僕は本店倉庫の方に朝からいて、本社のことは全く知らないでいた。だから、レイちゃんが体調を崩して仕事を休んでいることも知らないままだった。
だから倉庫の方から本店事務所に入って、レイちゃんの姿がないことに気が付いた時と、グラハム主任が僕の腕を引っ張って会議室に連れ込まれたのは同時だった。
会議室にはクルトさんとバーニーがいて、僕たち三人は主任の様子に驚くばかり。いつも落ち着いている主任がこんなに慌てるなんて、余程のことなんだろう。
「大変だ」
「……どうしたんですか、そんな慌てて」
主任は汗だくで、黒い髪は汗でびっしょり濡れて呼吸も荒れている。
「レイが、攫われた」
「えっ……?」
「はあ?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
レイちゃんが、さらわれた? さらわれる? さらう?
「ええええええええっ!」
バーニーの叫び声に僕は我に返った。
「なっなんでっ!?」
バーニーは慌てて主任の肩を掴んだ。
「分からん。さっき寮の管理をしているサムから連絡が入ったんだが、レイは連れ去られて、アガサが怪我をした」
僕は事務所を飛び出した。後ろから声が掛かった気がしたけど、それどころじゃない。
裏口から外に出ると商業ギルドに向かって人混みを避けながら走る。夕方の帰宅時間と夕食時に入り始めているせいか、人が多いのが苛立ちを誘う。
商業ギルドの正門入り口には立ち番をしている守衛が必ずひとりは立っていて、いつもなら例の守衛くんが立っているのを見ると複雑な気持ちになった。
僕の可愛い妹分を口説いていて、口説かれている本人も悪い気はしてない印象で。最近はデートに誘ってプレゼントもしていたりして、確実にふたりの仲は進展しているのも分かってる。僕だって背中を押したから、分かってる。
きっとあの守衛くんに可愛い妹分は取られてしまうって予感がある、予感があるからこそ兄としては複雑な気持ちになっていた。幸せになって欲しい、でも僕やハンナにも甘えて欲しいって気持ちもあって、妹離れは難しいってハンナと笑ってた。
でも、今は立ち番をしていて欲しいと願う。彼を探す手間が省けるから。
「リアムッ!」
僕の声に紺色の制服をかっちりと着こなし、長い警棒を持て立ち番をしていたリアム・ガルシアは勢いよく振り向いた。
「今日、レイは体調が悪くて仕事を休んだ、風邪だと思ったんだが……薬を飲んで眠ってもあまりよくならなくてな」
ランダース商会の社員たちが暮らしている寮、その管理をしている夫婦はサムとアガサ。もう十年ほどこの寮の管理人として、寮で暮らす社員たちの世話をしてくれている。
体調を崩したレイちゃんの看病をアガサさんがしてくれたのも、寮の母としていつものことだったんだろう。
「夕方、レイを病院に連れて行こうとした。近くにいた辻馬車を捕まえて、寮の前まで着けて貰ったんだ。アガサとレイはふたりで病院に行こうとして、御者の男が手を貸してくれたらしい」
「そこに誘拐犯が現れてレイちゃんを連れ去った、と?」
クルトさんは腕組みをし、小さく唸りながら寮の前庭を見回した。そこには少しあれた前庭があるだけだった。
「それが、辻馬車自体が誘拐犯だった……らしい」
「なに?」
「そこは、自分が説明します。自分が、その……辻馬車を呼んで来たので」
ミッドセア支店の社員で、ウェイイル本店に研修でやって来ているタヌキ獣人のポールは、大きくてふわふわしている尻尾をだらりと下げて俯いていた。
「アガサさんに辻馬車を拾ってきて欲しいって言われて、寮を出ました。この辺は住宅街だから、あまり辻馬車は流してないだろうと思って、表通りに向かいました」
ポールは寮の接続道路を左側に向かって走ったらしい、少し狭いけれど左側の通路から行けば表通りに近いと思ったらしい。
「そしたら、表通りの一本手前で休憩中の辻馬車を見付けたんです。まだ若いイヌ獣人の男が御者らしくて、露店で買った果実水を飲んでいて」
「どんな辻馬車だった?」
クルトさんの質問にポールは顎に指をあてて、当時を思い出すように斜め上に視線を向けた。
「客車は普通の辻用だったと思います、黒色で特に飾りなどはない感じで。よくある二頭引きの辻馬車だったんですけど、驚いたのは客車を引くのがスリア馬だったんです」
「スリア馬って六本足のあれか?」
「はい。真っ黒いスリア馬が二頭繋いであって、街の中を流すには珍しいなって思ったんです。でも、お願いすると御者の兄ちゃんは快く引き受けてくれたんで……レイさんの体調もよくなかったですし、深くは考えませんでした」
辻馬車を寮の前に着けて貰い、アガサさんとレイちゃんが乗り込むことになった。その時、ポールはレイちゃんに毛布をと寮の中へと戻っていて……騒ぎに気付いて外に飛び出したときには、すでに辻馬車はアガサさんに暴力を振るい、レイちゃんを乗せて走り出していた。
「……そうか」
「すみませんでした。こんなことになるなんて、ちゃんと確認するべきでした」
ポールはがっくりと項垂れて、誰ともなく謝罪の言葉を述べ頭を下げた。
「やめなさいよ、キミはなにも悪くないでしょう?」
「マリウスさん……」
「辻馬車を呼んで来てって言われて、呼んで来ただけでしょ? スリア馬の引く辻馬車は確かに街中では珍しいけど、ないわけじゃないし。まさか辻馬車自体が誘拐犯なんて、誰も思わないわよ」
レイちゃんを病院に連れて行こうとしたアガサさんも、辻馬車を呼びに行ったポールも、皆の夕食を用意していてレイちゃんをアガサさんに任せたサムも誰も悪くない。
悪いのは、レイちゃんを誘拐した犯人なんだから。
「そう言えばポール、辻馬車のマークはなんだった?」
辻馬車には大きな会社が三つあって、それぞれを現すランタンを客車に下げている。三日月形、葡萄形、鬼灯形でその形から所属会社が分かるのだ。
スリア馬は長距離を早く走ることが出来るから、とても高価な馬で小さな会社や個人辻馬車で所有は難しいと思われる。
高位貴族や裕福な商家なら個人所有出来るかもしれないけれど、その場合なら客車に家紋や商会の紋が入れられていることが大半だ。
辻馬車を所有している会社が分かれば、そこからレイちゃんを追いかけることも出来るかもしれない。
「……ランタンは普通の瓶形だったように思います、大手三社じゃなかった気がします。いや、でもはっきりしなくて、すみません」
「いいわ、それならそれで大手三社全部に当たればいいだけよ」
グラハム主任が警備隊に連絡を付けてくれていて、バーニーは商会の流通部門に話しを付けてくれている。
絶体に攫った奴らを見つけ出して、レイちゃんを取り戻すんだから!
「…………で、アイツはなにをしてるんだ?」
クルトさんはそう言って、寮の入り口や接続道路をうろうろしている守衛くんを見て肩を竦めた。
イヌ科の獣人は鼻が利いて、耳もよく聞こえる人種だ。でも、本人が走って逃げたのならともかく辻馬車に乗せられて運ばれてしまっては、鼻で追うのも限界がある。
それでも確認せずにはいられない気持ちだけは、とてもよく分かって……切なくなった。
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