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閑話07 アガサ・オルコックの後悔

 ランダース商会の社員寮。

 オレンジ色の屋根の三階建ての集合住宅。


 一階に食堂、シャワー室、ランドリールーム、休憩室など共用施設と私と夫が暮らす部屋があって、二階と三階が各人の個室だ。


 最大で十六人ほど生活出来るけれど、現在は六人。数ヶ月間だけの出張で他国にある支社から来ている職員が泊まることもあるから、大体十人弱くらいの人が出入りしているのが日常。


 大半は男性職員で、今女性職員はひとりだけだ。


 まだ年若い人間の女の子。しかも家族もいなければ、番もいない。なんの護りもない子。


 最初は孤児なのだろうと、番とはこれからきっと出会うんだろうって気楽に構えていた。でも、あるときあの子の身分証を見てそんな気楽な気持ちは吹き飛んでしまった。


 身分証の色は透明だった。あの子は異世界から、番と出会い結ばれるために呼ばれた子。


 普通なら商会で働くなんてしない。お披露目会で出会った番と一緒に、番の元で幸せに暮らすのが異世界から呼ばれた異邦人。


 向こうの世界にいる家族や友達、財産も名誉も全てを切り捨てて身ひとつで全く違う知らない世界にやって来る。だから、こちらでは番に愛されて不自由なく暮らす。異世界から呼ばれた番というは、そういうものだ。


 なのに、この商会でたったひとり働いているなんて……なにか大きなわけがあるんだろうと想像するのは簡単だった。


 だから、せめてこの寮では安心して暮らせるようにしてあげようって夫と話し合った。辛いことがないように、楽しく笑って過ごせるように。


 レイちゃんが徐々にこの街に慣れて仕事に慣れて、寮での暮らしにも慣れていってくれるのが嬉しかった。そのうちに、夕食やデートに誘ってくれる相手が出来たことも凄く嬉しかった。


 出かけて行った教会のお祭りで、可愛いヘアピンをプレゼントして貰ったらしくて……その日から毎日、そのヘアピンで前髪を飾っているのが可愛らしかった。


 そのお相手と一緒に〝白花祭り〟に行ったことも、綺麗なブレスレットを贈られていたことも嬉しかった。レイちゃんは知らないかもしれないけど、〝白花祭り〟に一緒に行くことは将来を真剣に考えているということだから。



 だから、まさかこんなことになるなんて……夢にも思ってなかった。



 レイちゃんはいつだって元気だった。

 毎日仕事に出かけていたしご飯もちゃんと食べて、顔色だって良かった。


 けれど〝白花祭り〟の後から咳をし始めて、体調を崩しがちになったことは心配だった。夜の寒さに体を冷やして、体調を崩すことは人間にはよくある話しだと聞いていたから。


 だから、朝ご飯を食べにレイちゃんが食堂に来たときにとても驚いた。


「どうしたの、レイちゃん! 顔が真っ赤よ!?」


「……おい、レイ。おまえ、熱があるんじゃねぇのか?」


 私の声に厨房で目玉焼きを作っていた夫のサムも顔を出し、真っ赤な頬に潤みきった目をして、ふらふらと歩くレイちゃんに驚いていた。


 急いで肩を貸して、食堂の椅子に座らせる。当のレイちゃんは「うーん」とか「めがかすむ」とか言って、コンコンッと咳き込んでいる。


「とても仕事に行けるような状況じゃねぇな」


 夫はレイちゃんと同じ本社に勤めている子に、レイちゃんが今日は体調不良で仕事を休むことを言伝る。そして、そのままレイちゃんを抱えて彼女の部屋へ運び込んだ。


 私はレイちゃんの靴を脱がして服を緩め、ベッドに寝かせると、額に冷たく絞ったタオルを乗せてあげた。


「……アガサさ、ん?」


「大丈夫よ、今お薬持ってくるからね。お薬飲む前に、スープだけでも飲もうか。今日はレイちゃんの好きなチキンスープだよ」


「ありがと……」


 大丈夫よ、と頭を撫でる。

 なんだか娘が大風邪引いたときのことを思い出した。

 いつもはきちんとしていて、しっかりした娘なのに病気のときは少し弱気になって甘えて来た。


 レイちゃんもしっかりした子だけど、よく考えたらまだ成人したばかりの若い女の子だ。しかも頼る家族も番もない。


 ここは私が母親になって看病して、甘やかしてあげよう、そう思った。


 夫が用意したチキンスープを飲ませて、熱冷ましの薬も飲ませた。額の冷たいタオルを取替ながら様子を見ていたけれど、夕方になっても治ってきている感じがしない。


「レイちゃん、病院に行こうか」


「え……」


 飲ませた薬が効いていないってことは、風邪や疲れなんかじゃなくてなにか重大な病気なんだろうか。


 急に気温が下がったことで風邪をひいたんだとは思っていたんだけど、この街に来てからレイちゃんはよく働いてる。疲れが溜まったのなら、休めばいいだけだけど……もしかしてなにか大きな病気でもしていたら? 人間特有の病気に罹っているのかも? と思ったら不安になった。


 一日たっても回復してきていないから、病院に行って診察して貰おう、そう思った。


 身支度を調えて、レイちゃんには小さな肩掛け鞄にお財布と身分証を入れて持たせて、ふたりで寮を出る。

 まだ足元がふらつくので、レイちゃんの腕を組むようにしっかり支えた。


 夕食の支度で手の放せない夫に代わり、すでに仕事を終えて寮に戻って来ていたタヌキ獣人の男の子に、辻車を拾って来るようにお願いする。


 彼は寮から飛び出して行き、程なく一台の辻馬車が寮の前に止まった。


 この街を走り廻る辻車にはドドム鳥が引く車が圧倒的に多い、けれど寮の前に止まった車はスリア馬が引いている。


 スリア馬は六本足の馬で、とても早く長時間走ることが出来る。だから市中を走る車ではなく、街と街を繋ぐ長距離の街道車を引くのに多く使われている。

 珍しいけれど市内を走る車に使ってないわけじゃないし、早く病院に行くことが出来るだろう。


「病院まではすぐだからね。大丈夫、診て貰えばすぐに良くなるよ」


「……はい。アガサさん、ありがとう……ございます」


 鼻に掛かった声がかなり掠れて、高い熱に顔も首も真っ赤だ。早く病院に行って診て貰わなくてはいけない。


「あれ、お嬢さんはご病気ですか?」


 御者台に座っていた耳の垂れたイヌ獣人の青年が降りて来て、レイちゃんに手を貸してくれた。


「ええ、今朝から具合が悪くてね」


「そりゃあいけない。病院はどこへ?」


「そうね、ケアリー先生の診療所は分かる? ヒツジ獣人の先生がやっているの」


「ああ、東の七番通りにある診療所ですね。了解しました」


 御者の男の子に行き先を伝え、力の入らないレイちゃんを客車に乗せようとした。


「レイちゃん頑張って、病院までもうすぐよ」


 声を掛けた瞬間、私は背中に強烈な一撃を受けて石畳の道路に転がった。地面に顔を擦りつけるようにして倒れ、痛みにうめき声が零れる。


 なにが起きたの? 突然なに?

 体を起こすと背中を力一杯踏みつけられた。


 慌ただしい足音と馬の嘶きが聞こえ、レイちゃんのくぐもった悲鳴も聞こえた。


「うっぐ!」


「悪いなぁオバサン。ちょっとだけ大人しくしてて欲しいんだヨ、そしたらこれ以上なにもしないからサ」


「こらこら、暴れないで!」


「むーっ! んんーーー!!」


 レイちゃんの苦しそうな声とバタバタと暴れる音が聞こえて、私は必死に体を動かそうとするのに背中の足が重たくて全然動けない。


「ホントにサ、大人しくしててくれヨ。別にオレらはオバサンに用があるわけじゃないんだからサ。ね? 分かってヨ」


 首を動かして男を見る。


 まだ若い大型の猫科っぽい獣人が私を踏みつけていて、レイちゃんを羽交い締めにして馬車に乗せようとしているふたりの犬獣人が見えた。


 ひとりは御者台にいた垂れ耳の犬獣人、もうひとりはどこかに隠れていたのか片耳だけ垂れた犬獣人だ。


 なんてこと、レイちゃんを連れ去ろうっていうの!?


 こんなことになるのなら、病院に行こうなんて言うんじゃなかった! 往診をお願いすれば良かった!


 後悔してもしきれない。


 レイちゃんを無理矢理に乗せた客車を引くスリア馬は、私の気持ちなんて無視して物凄い速さで寮の前道路を駆け抜け、あっという間に見えなくなってしまった。


 騒ぎに気付いて寮から出て来た私の夫、馬車を呼んで来てくれたタヌキ獣人くん、そして私を残したまま。

お読み下さりありがとうございます。

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