閑話22 フェリックス・アダム・エインズリーの憂慮
王太子の使う執務室の扉は厚く、重く造られている。
それはいざというとき、室内に賊の侵入を防ぐためのものなのだが……その扉が勢いよく開いて、大きな軋み音を響かせたとき〝もっと扉の強度が必要だな〟と改めて思った。
「あにうえぇぇえええ!」
正しく室内に転がり込んで来た末弟は、手に数枚の書類を握りしめていてそれを差し出して来た。強く握り込まれていたせいで書類はぐしゃぐしゃになっている。
「……? 除籍手続きとそれに伴う改名と新しい戸籍作成の書類じゃないか。ユージン・オルコックは次男だから、家を出て平民になることは最初から決まっていたことだろう」
末弟の侍従兼護衛を務めていたユージン・オルコックは、伯爵家の次男。どこかの貴族家に婿入りするか、実家の貴族籍を抜けて平民になって自立する、どちらかの道を選ぶことは貴族家の次男三男に圧多い人生の選択肢だ。
「まあ、王子王女付きとしては……貴族であってくれた方が何かと都合がいいけどな。まあ、貴族の生まれだということは皆が承知していること……」
「あにうえええええ! こっちいいい!」
末弟はさらにもう一枚の書類を机の上に叩きつけ、その勢いで卓上にあったガラスペンが少し浮いた。
「? ……ほお! 辞職願か!」
ユージン・オルコックの名で出されたそれは、王宮文官を辞する届出書だ。
辞職理由としては、王子の留学中に関する提出書類を王宮外務室に提出するのではなく、外務室に勤務している自身の兄に直接提出した。結果、書類は収奪され正しく提出されず、職務を全う出来ず混乱を招いた。その責任を取って辞任する、とのことだ。
兄のオーガスタス・オルコックは同じ理由で外務勤務を外され、別部署へ左遷させられていたはずだ。数年は左遷先で頑張るしかなく、その後のことは頑張り次第になる。
彼にも確かに書類収奪の責任はあるが、辞職するほどではない。
平民籍になると同時に、別部署に移動するのが丁度よい責任の取り方になるのだろうが……
「本人が辞めたいって言ってるんだろう?」
そう言えば末弟は滂沱の涙と鼻水を流し、執務室にいた部下たちやクリスを驚かせた。
「いやだあああああああああ」
「嫌とかわがまま言われてもな」
コンコンと開け放たれたままの扉を叩く音が聞こえ、そこから噂の男が顔を出した。
「申し訳ありません、こちらにイライアス殿下が……ああ、勝手に執務室から居なくならないで下さい。引継ぎも忙しいので」
「ゆーじんがやめるっでええええいうがらああああ」
ユージンは涙と鼻水でドロドロになった末弟の顔をハンカチで乱暴に拭った。非常に手慣れた様子だ。
「殿下には申し訳ありませんが、王宮文官は辞めさせていただきます。自分が居なくても優秀な侍従は大勢いますので、問題はありません」
「ゆーじいいいいいいいいん!」
「……ユージン・オルコック、こちらの書類は問題ない。キミはオルコック伯爵家を出て、平民となる。同時にリアム・ガルシアに改名だな。本日付けで処理される」
「ありがとうございます」
本来は末弟が署名するべきところに、私の名で署名する。それから、辞職願を手にしてそれをヒラヒラさせた。
「一応、辞職理由を読ませて貰った……辞職までは求めていないのだが?」
「いえ……王都にはいられませんので」
「ん?」
ユージン……いや、リアム・ガルシアはクリスの前に進み出ると、胸ポケットから綺麗に折り畳まれた紙を取り出し、差し出した。
「アディンデル大公閣下、私を麾下に加えていただけませんでしょうか」
クリスは受け取った略歴書と本人を交互に見ながら、ニコリを笑った。まあ、リアム・ガルシアは文官として有能な方だから、レリエルを治める領主としては雇って問題ない、というか欲しい方の人材だろう。
「ぐりすぅぅ、ゆーじんはぼくのじじゅうなんだってばあああああ!」
「イライアス、うるさいぞ。おまえの所を辞めて、私の所に来たいとは本人の希望だ。表向きの辞職理由はどうでもいい、本当の辞職理由はレイナ嬢のことだろう?」
クリスの言葉にリアム・ガルシアは頬を赤く染めて頷いた。まあ、番関係を持ち出されたら引き留めるなんて無理だろう。
「レイナは王都での暮らしを望まないでしょう。外国への旅も考えているようですが、旅から戻ってからこの国での生活拠点にと考えている街は、おそらくレリエルです」
「だから、私の麾下に入ってレイナと共にありたいと?」
「はい。是非、お許し願います」
私は二人の会話を聞いて辞職願に署名を入れると、処理済みの箱に書類を入れた。
「あにうええええええええええ!」
末弟の叫び声が室内に響いたが、それを無視する。
「リアム・ガルシア、本日をこのときを持って辞職を許可する。長きに渡る献身、感謝する。弟は未熟で、さぞ手がかかっただろう。今後はクリスの元でその力を発揮してくれると嬉しい」
「……王太子殿下、有難きお言葉です」
スッと美しい所作で礼を取る、が、その尻尾は大きく揺れている。
「よし、では早速手続きをしよう。来月にはレリエルに戻るつもりでいる、そのときレイナ嬢も当然連れて帰るつもりでいてな。キミのことをどうしようかと考えていた所だった」
「ご心配をおかけしました」
「いや、イーデンも年を取って来たからな。キミには将来的に後を継いで貰えると助かる、それから……」
クリスとリアム・ガルシアが執務室を出て行き、残されたのは号泣を続ける末弟だ。
「イライアス、泣き止め。いい年の男が泣いていても、見苦しいだけだ」
「あにうえがああああゆーじんをおおおお!」
末弟はさらに声を上げて泣き出し、泣き止む気配がない。部下のひとりが部屋を出て行ったので、おそらく第三王子付きの誰かが回収……いや、迎えに来るだろう。それまでの辛抱だ。
「いいか、イライアス、よく聞きなさい」
「あにうえぇ?」
「レイナ殿とユージン、いやリアム・ガルシアのふたりに対して、結果的におまえのしたことは酷いことだ。番を大切する我ら獣人にとって、非道な行いだ。それは分かるな?」
「ばい」
末弟は部下が運んで来た椅子に座ると、項垂れた。零れた涙がポタポタと腿や握り込んだ両手に落ちる。
「おまえが彼を信頼していたことは分かっているし、彼もよく仕えてくれていた。そんな信頼する侍従を失ったことは、おまえへの罰だ」
「ぞんな……」
「もっと視野を広く持ち、側に居てくれる者たちのことにもっと心を配れ。部下たちの人生をおまえの勝手で変えたり、潰したりしてはいけない。おまえは危うく侍従の人生を潰すところだったんだ。幸い、レイナ嬢はリアム・ガルシアと共に居ることを選んでくれたが、そうならない可能性もあったんだ」
「……ばい」
ズゥビビッと鼻を啜り、それを見かねた部下が愚弟にちり紙を差し出した。それを受け取った愚弟は何度も何度も鼻をかむ。
「これからしっかり学べ、上に立つ者としての成長を期待する」
「…………ばい」
愚弟は迎えに来た自分の部下と共に、自分の執務室へと戻っていく。そこで、今日の分の仕事を片付けろとせっつかれることだろう。
「イライアス殿下も、これで広い視野を持つ大人になっていただきたいですなぁ」
「そうだな」
ドンッと執務机が揺れるほど、大量の書類が未決裁の箱の中に入れられた。
「……おい?」
「さあ、殿下。側におります我らのことを考えて下さるのなら、書類を片付けて下さい」
部下たちのいい笑顔が私に向けられる。
「数日帰宅出来ていない者もおりますし、婚約したばかりなのに休暇が全くとれないでいる者もおりますし。王太子殿下、我らの人生をどうかお守りください」
「殿下、宜しくお願いします」
「殿下」
末弟にあれこれ言った手前、やらざるを得ない状況だ。
こんなことなら、あんな簡単にリアム・ガルシアをクリスにくれてやるんじゃなかった。
そうだ、今からでも遅くはない。
私はクリスに仕事を振ってやろうと、違った方向のやる気に満ちてガラスペンを手に取った。
いつか部下に十分な心配りの出来る立派な大人に私もなりたい、が、それは今ではないのだ。
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