第69話 マモノ対策室十字市支部
「おい狭山。この荷物はこっちでいいんだよな?」
「そうだよ日影くん。その調子で他も頼むよ」
日影は今、十字町にいる。
狭山の新しい仕事場の引っ越し作業を手伝っているところだ。
夕方には、学校を終えた日向たちがこの家に来る予定だ。
すでに時刻は午後の4時。もうすぐ日向たちが来てしまう。
しかし、いかんせん荷物が多い。
全員が全力で作業に取り掛からないと間に合わない。
この場にいるのは、日影と、狭山と、引っ越し会社の人たちと、もう一人。
「日影くん。疲れてない? 休憩しても良いのよ?」
「大丈夫だって。これくらい、むしろ良いトレーニングだ」
「あらあら。頼もしいわね。じゃあ、あの荷物もお願いしちゃおうかしら」
「ああ、どれだ……? って、冷蔵庫じゃねぇか……。大丈夫とは言ったけど、ハードル上げすぎだろ……」
「ふふ。冗談よ。その隣のテーブルをお願いするわね」
「いや、冷蔵庫よりマシだが、そっちも相当重いだろ。運ぶけど」
日影に話しかけてきた女性は、的井 美穂。
的井は狭山の部下の一人で、狭山がこの仕事場に移るにあたって、補佐役として彼女も付いてきたのだ。長めの髪にメガネをかけて、いかにも秘書という感じの人物だ。だが先ほどのとおり、ときどき他人に対して容赦が無い。
(サディスト……とはちょっと違う気がするが、からかい好きなのか?)
そう思いながらも、日影は大きなテーブルを抱えて運ぶ。
「……おらーっ! 運んでやったぞ! ざまぁ見ろ!」
息を切らせながら、リビングにテーブルを運び入れた日影。
その直後、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。
「ああ? 誰だ? ……おーい、狭山、的井、誰か来たぞー」
とりあえず二人を呼んでみる。
しかし二人は他の作業に没頭しているのか、返事が無い。
もちろん、二人が玄関に向かっているような気配も無い。
「……しょーがねーなー」
頭を掻きながら、日影は玄関に向かい、戸を開けた。
そこにいたのは、郵便配達員だ。
「こんちわーっ、郵便でーす! 書留をお届けに上がりました。こちら、狭山様のお宅でお間違いないでしょうか?」
「ああ、合ってるよ」
「ありがとうございます。では、こちらの配達証にフルネームでサインをお願いいたします」
「ああ、分かった」
そう言って日影はペンを貸してもらい、配達証に名前を書こうとする。
その時、ふと思った。
「フルネーム……オレのフルネーム……」
考えてみると、日影には名字が無い。
生まれが生まれゆえ、致し方ないことではあるが。
だが、これから一人の人間として生きていく以上、フルネームが必要になる場面も出てくるだろう。例えばパスポートなどの身分証。
(日下部にするか……それとも、ここは狭山の家ってことになってるし、狭山の苗字にあわせておくか……?)
本来なら、取るに足らない些細な疑問。
だが、ここで一度決めてしまえば、今後より一生、その名字を名乗らなければならない気がして、日影はペンを握る指を動かせない。
「…………。」
「あのー、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。待ってろ、今書く」
配達員に促され、日影は指の動くままに、ほとんど無意識に名前を書いた。
配達証に記されたのは、「日下部日影」の文字だった。
「名字が郵便物と違いますけど、本当にここの家は狭山様の家でお間違いないでしょうか?」
「あ、ああ。間違いないぞ。誓って嘘は言ってねぇ」
「分かりました。それじゃ、ありがとうございました!」
そう言って玄関から離れていく配達員を、日影は静かに見送っていた。
見送りながら、考えていた。
(……『日下部日影』って、自然に書いちまったな。自然にそう書いたのなら、つまり今後はそう名乗れということなのかね。良いさ。『日下部』という名字は嫌いじゃないからな。日向は嫌いだが)
「おや、日影くん。そんなところに突っ立っててどうしたんだい?」
背後から狭山が声をかけてきた。
来客があったことにまだ気づいていないようだ。
「郵便が来たんだよ。ほら、書留だ」
「おっと! 郵便を受け取ってくれていたのか! それは失礼! 自分はてっきり、日影くんがサボってるのかなーって」
「アンタじゃあるまいし、しっかり働いてるよ」
「うーん、自分ってそんなに仕事しない人間に見えるのかなぁ」
頭をかく狭山。
そこに、的井が合流してきた。
「あら、日影くんが郵便を受け取ってくれたのね。私は、きっと狭山さんが受け取ってくれると信じて無視してたのだけど」
「なぁ狭山。アンタこの人に何かしたのか」
的井は、上司である狭山にも容赦が無い。
日影は狭山に何があったのか尋ねてみる。
しかし。
「いや別に? 的井さんは最初から割とこんな感じだよ」
「なおタチが悪いわ」
「ははは。言われてみればそうかも」
「フフフ。言うじゃない。日影くん」
日影の言葉を受け、笑い合う狭山と的井。その様子は、大人の余裕を思わせる。
多少ボロクソに言われようと、そういうコミュニケーションなのだと理解できる器量が、彼らにはある。
「……さぁて! ラストスパートだ! 一気に仕上げてしまおうか! 的井さんはあっちの荷物を頼むよ」
「分かりました。……って、冷蔵庫じゃないですか。冗談でしょ? 女性にあんなもの運ばせますフツー?」
「いやいや、自分は嘘は言わないと決めてるから。的井さんならできる!」
「無茶言わないでください。ほら、狭山さんも手伝ってください。日影くんも、お願いしていいかしら?」
「あぁ、分かったよ」
こうして、あっという間に時間が過ぎ、引っ越し作業は終わった。
ほどなくして日向たちも来るだろう。
ここはマモノ対策室十字市支部。
『予知夢の五人』の拠り所となる建物だ。
(……ところで、三人で冷蔵庫を運ぶときに気づいたが、的井のヤツ、物凄いパワーがあったぞ。ありゃマジで一人で運べたかもしれん)




