第285話 オリガと日向
廃貨物船からオーレスンの町へと帰還した日向たち。
すでに日は落ち、レストランで食事も済ませ、あとは就寝まで自由時間となっている。そんな中で、日向はホテルの屋上にやって来ていた。
「おー、夜景が素晴らしい」
感心したような声を上げる日向。
このホテルの屋上はバルコニーとなっており、宿泊客は自由に出入りできる。このホテルは六階建てであるため言うほど高さは無いのだが、オーレスンには高層ビルの類は一切無い。そのためこの屋上は、町を一望するには十分な高さだ。
そして、そのバルコニーのベンチの一つに、見慣れた後ろ姿があった。
ベンチの背もたれに身体の半分以上が隠れてしまっている。それほど小柄な身体だということだ。金のふわふわロングが夜の町の光に照らされ、淡く輝いている。
「……あら、日下部日向。こんなところで会うなんて、奇遇ね」
「オリガさん……」
そこにいたのはロシアのマモノ対策室エージェント、オリガだ。
日向の気配を察知したか、日向が近づく前に振り向き、蠱惑的な笑みを浮かべてみせる。その手には缶のドリンクを持っているようだ。
「あなたも夜景を見に来たの? そういう事には興味無い人だと思ってたけど」
「失敬な。俺だって夜景の一つや二つ楽しみますよ。そういうオリガさんも夜景観賞ですか? 手に持っているソレは……カシスオレンジ……酒飲みながら景色見てたんですか」
「ええ、お酒の肴になりそうな景色を探してたら、丁度良い場所を見つけたから。それより聞いてくれない? このお酒を買ったお店の店主なんだけどね、ひどいのよ? 私がこの酒をカウンターに持っていったら『このお酒は十八歳以上からだ。身分証を見せろ』なんて言ってくるのよ」
「まぁ、無理もない……。オリガさん、ぱっと見じゃ子供にしか見えませんもん」
「他の女には誉め言葉なんでしょうけど、私にとってはちょっと複雑ねー」
「……というかオリガさん、もうすでに少し酔ってませんか? 心なしか顔が赤い気が……」
「馬鹿ねーまだカシオレ一杯目じゃないの。北園じゃあるまいし、まだまだこれからよー」
「酒に弱い自覚が無い人はみんなそう言うんです」
顔が赤いのもそうだが、今のオリガはいつもより饒舌であるように感じる。程度はどうあれ、オリガは大して酒に強くないという事実は間違いなさそうだ。
「……はぁ、夜景は綺麗だけど、それだけじゃつまらないわね。何か面白い話をしなさいよ、日下部日向」
「コミュ障にとって最大級にキツイ無茶振りするの止めてもらえませんか」
「よく言うわよ、コミュ障はそんなツッコミしないわ。ほら早く」
「えーと、じゃあ、せめてオリガさんが好きなゲームとか漫画とかあったら教えてくれませんかね? そこから話を広げようと思いますので」
「それじゃあごめんなさいね。私、ゲームも漫画も見たことないの」
「そんな人間がこの現代社会の先進国にいるのか……信じられない……」
「それはあなたの偏見でしょ? そういう人間くらい探せばいくらでもいるわよ。
……まぁ、私の場合はちょっと事情が特殊なのだけれど」
「事情が特殊? それって……」
「そうね、せっかくだからあなたには話しちゃいましょうか。私、あなたは嫌いじゃないし」
そう言って、オリガは話を始めた。
自分の生い立ちと、ここまでの人生についてを。
――物心ついた時から、私は訓練を受けていた。
オリガ・ルキーニシュナ・カルロヴァは、生まれつき精神支配という能力を持っていた。赤ん坊のころから能力を発揮していたそうで、コントロールを効かせることもできなかったという。
オリガの両親は、この特殊な能力を持った子を国に売れば金になる、と判断した。そして、まだ赤ん坊のオリガをロシア対外情報庁に売り払い、大金を手にしたという。
ロシア対外情報庁は、ソ連のKGBの時代から諜報活動を担当していた特務機関である。そこに売り払われたオリガは、ロシアという国の所有物となった。
彼女は、その能力を買われて過酷な訓練を受けさせられた。いずれ眼を合わせるだけで相手を支配し、強靭な肉体も併せ持つ最強のエージェントとして活躍してもらうために。オリガを軸とした究極のエージェント育成プロジェクト『無敵兵士計画』が始動した瞬間だった。
しかし、まだ幼いオリガ本人は当然、ロシアのために力を振るうという考えを持っていなかった。にもかかわらず、オリガは機関によって強制的に鍛えられた。
オリガにとって、訓練の日々はひたすら苦痛だった。
訓練それ自体も、虐待同然の内容だった。
目標が達成できなければ、教官から暴力を振るわれる。
目標を達成できるまで訓練を続けさせられる。
能力のコントロールなど、嫌でも身に付いた。
五体がボロボロになるまで肉体を鍛えられた。
それこそ、ラドチャックの触手のパワーに真っ向から対抗できるほどに。
あらゆる知識や教養も身につけさせられた。ロシアに対する愛国心も、洗脳同然に植え付けられた。厳しい訓練への反抗心を消し去るためだ。
同年代の女の子たちがオシャレやお人形遊びをしているなど知らなかった。教えられなかったのだ。そんなものは訓練には邪魔だからだ。
小学校にも行かせてもらえなかった。
中学校にも、高校にも行かせてもらえなかった。
花の青春時代さえ、祖国のためにと訓練に捧げられた。
祖国のためなど、望んでもいなかったのに。
二十歳になって、ようやくオリガは訓練から解放された。そして同時に機関のエージェントとして配属され、実戦に投入された。
オリガにとっては、命の賭け方が変わっただけに過ぎなかった。「訓練を怠れば殺される」が、「敵に負けたら殺される」に変わっただけだ。
だからこそ、オリガには任務の失敗など無かった。
たとえどんな諜報員でも、幼年期はのうのうと生きていただろう。
そんな幼年期でさえ彼女は修羅場を潜り続けてきたのだ。経験値が違う。
ちなみに、ズィークフリドの父親であるグスタフ大佐とは、この頃からの付き合いだった。ちょくちょくオリガの様子を見に来ては、土産代わりに外の世界のことについて少し教えてくれた。彼がどんなつもりでオリガに外の世界のことを話していたのかは、まだオリガにも分からない。
実戦に投入されたオリガは、その力を存分に発揮し、今に至るまで生き残った。
それから世界にマモノが現れ、ロシアにマモノ対策室が設置された時、エージェント部門の総括となったグスタフ大佐がオリガに紹介したのが、彼の息子のズィークフリドだった。
「……とまぁ、こんなところよ。今じゃ私も立派な愛国主義のエージェント。万歳ロシア。私がゲームも漫画も知らなかったっていうのも、これで納得でしょ?」
「な、なんというか、壮絶ですね……。というか、よくそんな仕打ちを受けて愛国心が身に付きましたね……」
「まぁね。結局のところ、諦めに近いわ。愛国者を謳わなければ、また教官から酷い目に合わされる。だったらもうつまらない意地を張らないで、さっさと愛国心に目覚めてやりましょうってね」
「うわぁ強か。なんだかんだ言って、毒蛇みたいな性格はこの頃からだったんですね」
「撃ち殺すわよ?」
「ごめんなさい。……ところで、ここまでの話って、すごく機関の重要機密っぽいんですけど、そのあたりどうなんです?」
「お察しの通り、バリバリの重要機密よ。一般人が知ったらいけない類のね」
「なんでそれをノリノリで俺に教えたんですかっ! 俺が機関の人間に消されたら、化けて出ますからねっ!」
「大丈夫よ、あなた不死身なんだから。消そうと思っても消せないわよ。それに、ここにいるのはあなたと私だけ。お互い口外しなければ問題無いわ」
「勘弁してくださいよ本当にもう……。そんな重要なことペラペラと喋っちゃって、やっぱり酔いが回ってるんでしょ?」
呆れた風に拗ねる日向。
しかし、オリガの生い立ちはまさしく壮絶なものだった。表の世界で生きてきた日向にとっては、にわかに信じがたいほどに。
そんな彼女に憐みの情が湧いてしまったか、日向はあまりオリガのことを悪い目で見ることができなかった。知ったら消されるような話を勝手に聞かされたにもかかわらず。
「……オリガさんは、これからもロシアのために働くんですか?」
「ええそうよ」
「何か、個人的な夢とか、そういうものは……」
「私に、そんなものを持つことは許されていないわ」
「そうですか……」
「……ただ、そうね。これは組織にも内緒なんだけれど、一つだけ、個人的な目標があるわ」
「え? それって……」
「私の両親を見つけ出して、この手で殺したい」
静かに、しかし力強く、オリガは言い切った。
金のために自分を国に売り払った両親に、積年の恨みを叩きつける。自分の人生を台無しにしたきっかけを作ったことを後悔させる。それが今の目標だと、オリガは言った。
「手掛かりは、父親の名前が『ルカ』だってことくらいしか分かってないけどね」
「名前は知ってるんですね。機関のデータベースとかで調べたんですか?」
「まさか。私の過去を私自身が調べるなんて、組織がそんなことを許すと思う?」
「黒いなぁロシア対外情報庁……」
「ロシア人のミドルネームは、父親の名前から取られているのよ。私のミドルネームの『ルキーニシュナ』は、日本語で『ルカの娘』って意味なの。だから、ルカという人物が私の父親だということは分かる。ちなみにズィークの場合、ミドルネームは『グスタフヴィチ』だから『グスタフの息子』ということになるのね」
「なるほど。……けれどそんな簡単な手がかり、果たして機関がホイホイと残すでしょうか? そのミドルネームも偽名かも……」
「まぁ、十中八九偽名でしょうね。けれど今はそれくらいしか手掛かりが無い。無視するわけにもいかないのよ」
「なるほど……」
「というワケで、私の父親らしい人物と会ったら教えてちょうだいね」
「えー、絶対その後殺すんでしょ。気が引けるなぁ……」
「大丈夫よ、あなたが告げ口したことは絶対にバラさないから。墓まで持っていってあげる」
「と、とりあえずこの話は保留で。俺はそろそろ中に戻りますので」
「あら、つれないわね。私はもう少しここでゆっくりしていくわ」
「そうですか。それじゃあ、おやすみなさい」
「ええ。おやすみ」
そう言って、日向はホテルの中へと入っていった。
後には、ベンチに座るオリガだけがポツンと残される。
「……ふん。愛国心、ねぇ……」
ベンチに座り、オーレスンの夜景を見ながら。
オリガは、話の中で幾度も口にしたその単語を、鼻で笑いながら呟いた。
夜が明け、次の日になると、日向たちは飛行機に乗って日本へ帰っていった。
予定よりずいぶんと長くなってしまったが、これでオーレスンのマモノ退治は完了だ。




