第254話 狭山誠のとある一日
今日は7月の日曜日。その昼過ぎ。
マモノ対策室十字市支部のリビングにて、狭山がテーブルの椅子に座ってまどろんでいた。瞳を閉じて、静かに寝息を立てている。愛用のタブレットを持ったまま眠っているところを見るに、恐らく仕事中に寝落ちしてしまったのだろう。
……と、ここで狭山が目を覚ました。
寝ぼけ眼を手首の付け根でこすりながら、状況を確認する。
「……しまった、眠っていたのか。どれくらい寝ていただろうか」
「ざっと三十分くらいですよ。おはようございます狭山さん」
狭山の呟きに反応したのは、彼の部下である女性、的井だ。微笑みを浮かべて、目覚めたばかりの狭山の顔を覗き込んでいる。
「ああ、ありがとう的井さん。しかし、なんで起こしてくれなかったんだい?」
「だって狭山さん、気持ちよさそうな表情で眠っていたんですもの。起こす方が酷かと思いまして」
「そんなに気持ちよさそうに寝てたのかぁ。知らず知らずのうちに疲れが溜まってしまっていたかな」
「狭山さん、普段からあまり睡眠を取りませんからね。寝顔をスマホで撮影させてもらいましたが、見ます?」
「おおぉう……またそうやって自分をイジり倒すネタを用意して……」
「これに懲りたら、もっと普段からちゃんと睡眠を取ってくださいね?」
「致し方ない。善処するよ」
的井とやり取りを交わしつつ、狭山は今日の残りのスケジュールを確認する。少し寝てしまったものの、致命的な仕事の遅れなどは生じてないようだ。
(そういえば、今日はミオンさんが中国に帰る日だったな。スケジュールに余裕もありそうだし、見送りに行こうか)
狭山がそんなことを考えていると、再び的井が声をかけてきた。
……狭山の寝顔を写したスマホを手にしながら。
「良い寝顔ですよね、ホント」
「おっとイジってくるタイミングが思いのほか早い。しかしそんなことをしていいのかな? 夜中に君の部屋に侵入して、君の寝顔を撮り返しちゃうぞ」
「あら、ぜひお願いします。自分の寝顔って、まだ見たことないんです」
「うーん、打たれ強い」
「お褒めいただき光栄ですね。……しかし狭山さん、こんなに幸せそうな寝顔して、良い夢でも見てたんですか?」
「夢かぁ……そうだね、良い夢を見ていた。皆で旅行に行く夢とかね」
そう返事をすると、狭山はリビングを出ていった。トレーニングルームで鍛錬に励んでいる日向の様子を見に行くためだ。
◆ ◆ ◆
「やぁ日向くん。調子はどう……おやおや」
狭山がトレーニングルームの日向の様子を見に行くと、日向はベンチの上でへばっていた。ありあらゆる事柄へのやる気の無さが伝わってくるような、だらけきった状態である。
恐らくそこそこ長い時間、こうしていたのだろう。
つまり彼は、トレーニングをサボっている。
「あぁ、狭山さん……どうしましょう、やる気が出ない」
「まぁ、24時間365日モチベーションを燃やし続けることができる人間なんて一握りしかいない。君のその怠惰の情を否定はしないが……」
「もともと俺って、努力とか反復練習とか嫌いな人間なんです。だから勉強も運動も苦手だったんです。思えばこのトレーニングの日々は、自分にしては随分と長く続きましたよ。俺は頑張りました、だから今日はゲームしてても問題ないですよね」
「ふむ……」
あくまで日向は、今日のトレーニングをサボる気でいるようだ。そんな日向に対して、狭山はしばし考えこむと、再び口を開いた。
「……これは予感なんだけどね、日向くん」
「はい?」
「もうすぐ君たちは夏休みだ。世間もバカンスシーズンが到来する」
「そうですね。夏ですよね」
「うん。きっと君たち予知夢の五人も、海にバカンスに出かける日があると思うんだ」
「え、でも、マモノ退治とかはどうするんです?」
「例えば、海に現れたマモノを退治した後で、残った時間でバカンスを楽しむことも可能だろう。……そこで問題なんだけど、君の仲間は筋肉信者の日影くんに、バスケのトッププレイヤーである本堂くん、そして超人的武術家のシャオランくんだ。彼らは間違いなく、脱ぐとすごい」
「は、はぁ……」
「そんな三人に混じって、君がだらしない水着姿を披露することになるかと思うと、自分は心配で心配で……。日影くんあたりは、絶対に小馬鹿にしてくるだろう」
「ぐ……」
「きっと北園さんも、腹筋が綺麗な男性に惹かれたりするんじゃないかなーって」
「ぐぐぐ……ま、まぁ別に俺はその、北園さんにどう思われるかはあまり気にしないというか……。ところで、休憩したら急にやる気が復活したので、ちょっとトレーニング再開しますね」
そう言って日向は立ち上がった。
狭山誠という男は、人を焚き付けるのが上手い。
「じゃあ、自分はちょっと出かけてくるよ。ミオンさんが今日、中国に帰っちゃうんだ」
「ああ、そういえばそうでしたね。代わりによろしく言っておいてください」
「任されましたよ。それじゃ、トレーニング頑張ってね」
日向にひとつ微笑むと、狭山はトレーニングルームを後にした。
◆ ◆ ◆
マモノ対策室十字市支部から、歩いてシャオランたちが住む家に向かう狭山。
数十分かけて到着すると、門の前でシャオランとリンファ、そしてミオンが集まっていた。もうまもなく出発するところなのだろう。
「よかった、ギリギリ間に合った」
「あ、サヤマ! もしかして、師匠の見送りに?」
「あ、お……狭山さ~ん! 見送りに来てくれるなんて、嬉しいわぁ~」
狭山の姿を見たミオンは、満面の笑みを浮かべて手を振ってきた。
ちなみにミオンは今日、シャオランやリンファに付き添われて、空港までは一緒に行く予定である。都会の交通網に疎い彼女を一人で帰らせれば、武功寺に到着するのに何日かかるか分かったものではない。ここに一日遅れで到着したのは、ちょっとした奇跡のようなものである。
「せっかく会えたのに、また離れ離れになるなんて、わたし寂しいわぁ~」
「ははは、しかし自分たちは再会できた。これからはいつでも連絡が取れます」
「そうね~。しばらくわたしたちは、それぞれの道を歩みましょうか~」
「二人とも、何の話してるの?」
「ちょっと、大人の話をね」
「……それって遠回しに、ボクを子ども扱いしてる……?」
「シャオシャオ、それは流石に被害妄想だと思うわよ……子供には違いないし」
不満そうな表情をするシャオランを、狭山とミオンは微笑んで眺める。
ところで、三人の出発まではもう少し猶予があるようだ。そのついでに、狭山はもう少しミオンと話を続ける。
「ミオンさん。シャオランくんは、他の練気法の基礎を無事に習得できたのでしょうか?」
「ええ、ギリギリなんとかね~。あとは実戦で上手くモノにできるかどうかね~」
「もうホント大変だったんだよ覚えるの! 師匠の教え方って、いっつも適当だから!」
「ああ、分かるよ。ミオンさんの教え方は感覚が過ぎるんだ。シャオランくんが練気法を習得していると知った時は、よくもまぁ覚えることができたものだと感心したくらいだよ。ミオンさんも練気法の教え方をもうちょっと工夫したら、練気法の使い手を増やせるんじゃないかな」
「二人とも酷いわ~。わたしの教え方、そんなに下手かしら?」
「下手だよぉ! 『こう……バァーッって、五感で魂の波長を感じるのよ~!』って、何一つ意味が分からないもん! なんでボクはそんな教わり方で練気法を習得できたのかボク自身が不思議に思ってるところだよぉ!」
「自分も、人にモノを教える時はできるだけ論理的に、分かりやすく、とミオンさんを見て心に決めたものだよ」
「つまりわたしは、二人の成長の糧になったのね~。師匠冥利に尽きるわぁ~」
「ダメだぁ……ボクの師匠、ポジティブシンキングすぎるよぉ……」
「ミオンさんの何がひどいって、人にはさんざん成長を促しておいて、自分はほとんど成長しないところなんだよね。成長が止まっているとも言える」
やいのやいのとミオンに向かって好き放題に言いまくる狭山とシャオラン。ミオンは相変わらず、朗らかな笑みで二人の苦言を聞き流す。その様子を、傍で呆れつつ見守るリンファ。
……しかし不意に、ミオンが少し憂いを帯びた表情になって、シャオランに話しかけた。
「本当は、わたし以外の練気法の使い手と組手させてあげたいんだけどね。どんな武術でも、同門の人間と一緒に鍛錬するのが一番効果があるから。でも、練気法の使い手というのはなかなか見つからなくて、唯一の心当たりもアテにならなさそうなのよね」
「師匠……」
「熟練した練気法の使い手同士の戦いって、凄いのよ~。練気法で読み合いが発生するの。一撃重視の『火の練気法』を『水の練気法』で受け流し、『地の練気法』で防御を固めたところを『風の練気法』で貫通する……。シャオランくんが全ての練気法を習得した暁には、ぜひわたしと一度、本気の手合わせをしましょうね~」
「え、遠慮しまぁす!!」
「うふふ、照れちゃって~。かわいい~」
「照れてないんだよぉぉ恐怖してるんだよぉぉぉ!!」
歓談に花を咲かせていると、あっという間に時が過ぎる。つまり、とうとう出発の時間がやって来た。ミオンが狭山に向き直って別れを告げる。
「それじゃあね、狭山さん~。……どうか、シャオランくんをよろしくね。この子は、あなたにとっても大切な存在でしょう?」
「……ええ、もちろんですよ。責任を持って面倒を見ます。当然、リンファさんもね」
「うふふ、成長したわね、狭山さん。……それじゃあ、また会いましょ~!」
二人が交わす言葉には、どこか含みがある。
きっと、彼らにしか分からない事情があるのだろう。
ミオンは、シャオランとリンファに連れられて、二人の家を後にした。家の前で見送る狭山に向かって、姿が見えなくなるまで手を振っていた。
後方の狭山をずっと見ながら手を振るので、途中でこけそうになっていた。




