第175話 二重の牙
爆風が撒き散らされ、轟音が森に響き渡る。
後を追ってきた日向と日影の前に、血まみれになった鳥羽が倒れてきた。
「…………鳥羽」
日影が、力無く彼の名前を呟いた。
日向は、声も出ないという様子だ。
しかし彼の目は、確かな怒りを持ってキキを見据えていた。
「…………鳥羽さぁぁぁぁんっ!!」
そして雨宮の悲痛な叫びが、森の中にこだました。
「……キッ!」
瞬間、キキが逃げ出した。
日影と雨宮は鳥羽に駆け寄り、日向はキキを追いかけた。
「日影! 鳥羽さんを頼む!」
「ぐ……分かった! 絶対にヤツを逃がすなよ!」
日影もキキを追いかけたかったが、鳥羽の容態がどうしても気がかりだった。
肉が千切れ飛び、手りゅう弾の破片が突き刺さり、ズタボロになった身体だが、それでもまだ、鳥羽は息があるのだ。
「鳥羽ッ! しっかりしろッ! ……雨宮、応急処置を!」
「わ、分かってる! 鳥羽さん、すぐに治療しますから!」
二人が倒れた鳥羽に駆け寄り、助け起こそうとする。
……しかし、鳥羽がそれを制止した。
「いや……いい……」
「いいワケないでしょう! このままじゃあ……!」
「いや……もう駄目なんだ……。身体が……痛くない……」
「…………!」
その言葉を聞き、二人は愕然とした。
痛覚は人間が生きている証というが、つまり痛覚が無くなった人間というのは。
日影も雨宮も、頭では分かっていた。
素人目に見ても、鳥羽の傷は致命的だ。助かるはずがない。
鳥羽としては、せっかく与えたダメージを無駄にしないために、日影と雨宮にもキキを追いかけてほしかっただろう。
「……まだだ!」
それでも雨宮は、バックパックから医療キットを取り出し鳥羽を治療し始める。まだ息がある人間を放っておけるほど、二人は非情になりきれなかった。
もはや鳥羽も止めない。
雨宮にされるがまま、治療を受ける。
「悪いな二人とも……。ドジっちまった……」
「喋らないでください! 傷が広がる!」
「日影……雨宮を頼む……コイツだけは……無事に帰還させてやってくれ……」
「……任せとけ。命に代えても送り届ける」
「サンキューな……。それと雨宮……最後に一つ頼まれてくれ……」
「最後だなんて言わないでください! ……けど、一応聞いておきます!」
「無事に帰れたら……俺の代わりに焼き肉食ってくれ……」
「あなたが自分で食べてください! 皆で生きて帰るんですよ!」
「いやあ……最近、脂っこいものがつらくてな……」
「じゃあなんで焼き肉食べたいとか言い出したんですか!
……鳥羽さん? 鳥羽さん!?」
鳥羽が目を閉じ、とうとう喋らなくなってしまった。
雨宮が鳥羽に心臓マッサージを始める。
鳥羽の迷彩服はボロボロに焼け焦げ、中から彼の筋線維が見えている。
鳥羽の胸を押すたびに、彼の身体から血が噴き出てくる。
それでも雨宮は、自身の手が血で汚れることも厭わず、鳥羽の胸を押し続ける。
「目を開けてください! 日影くんたちが来た時、嬉しそうに言ってたじゃないですか! 俺たち生きて帰れるって! 一緒に帰りましょうよ! 鳥羽さんっ!!」
鳥羽は返事をしない。
それでも雨宮は心臓マッサージを続ける。
そんな残酷な光景を、日影はただ、見守ることしかできなかった。
それが、ただただ悔しかった。
◆ ◆ ◆
「待てっ、キキ!!」
「キキーッ!!」
日向が、地面を走るキキを追いかけている。
まだ『太陽の牙』は持っていない。両手を空けての全力疾走だ。
キキの機動力は凄まじいものだ。走ることに集中しなければ、日向はすぐに振り切られてしまうだろう。
「鳥羽さんが与えてくれたダメージ、絶対に無駄にできない……!」
必死にキキを追う日向。
だがその時。
「ムキャアアアアア!!」
「うわっ!?」
キキが、踵を返して日向に飛びかかってきた。
しつこく追いかけてくる日向にしびれを切らしたか、それとも日向一人なら勝てると踏んだか。とにかく日向は完全に意表を突かれ、キキの体当たりを受けて地面に倒されてしまった。
「キャアアアアアアッ!!」
「ぐああ!?」
そしてキキが、日向の首筋に噛みついてきた。
ナイフのような長い牙が、ギラリと光る。
左右二対、計四本の鋭い牙が日向の首に食い込んでくる。
「く……そ……!」
日向はキキを引きはがそうとするが、キキのパワーは相当なものだ。身体の上からまったく退かすことができない。
やがてキキは、噛みついた日向の首筋を思いっきり食いちぎった。
「うあああああああ!?」
首からひどい出血が発生する。
激痛で日向が腐葉土の上をのたうち回る。
その隙にキキが再び逃げ出した。
このままではキキに逃げられてしまう。
ダメージの回復のため、日向は手段を選んでいる場合ではなかった。
「ぐ……。”再生の炎”、高速回復……!」
日向の呟きに呼応するかのように、食いちぎられた首筋から猛烈な炎が噴き出た。
「あ、うあぁぁぁっ!?」
あまりの痛みと熱さに、日向の頭の中が真っ白になる。
一瞬だけ、高速回復を使ったことを後悔するほどの苦痛だった。
しかし、高速回復のお陰で怪我はすぐに完治し、日向は立ち上がることができた。
「あ……ぐ……くそっ、待ちやがれ!」
急いでキキの追跡を再開する日向。
しかし、キキの姿はもう見えない。
逃げた方向は分かるので、あとは無事に追いつけることを願いながら走るしかない。
「ああ、くそ、まんまと出し抜かれるなんて……! こんなことなら、やっぱり日影に追いかけさせれば良かったかな……!」
日影は、鳥羽がやられた時、ひどく動揺しているようだった。
あの状態では、とてもキキを追いかけるどころではなかっただろう。
だから日向は、日影に鳥羽を任せ、自分がキキを追いかけることにしたのだ。
しかし自分では、キキと真っ向からやり合っても勝てないことが分かってしまった。
せめて自分より身体能力が優れる日影ならば、まだキキと互角に戦うことができたかもしれないが、今さら考えても後の祭りだ。今はとにかく、自分がキキを追いかけるしかない。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
山の中を全力で駆け抜ける日向。
こんなに長く、本気で走ったのはいつが最後だったか。
肺が締め付けられるように苦しい。酸素を吸わせろと訴えてくる。
脚が「もう無理だ、追いつけない、止まってしまえ」と囁いてくる。
その全ての声を頭から締め出し、日向はひたすらに走り続けた。
「うん? あれは……」
そして日向は、前方に何かが倒れているのを見つけた。
ずんぐりむっくりとした、黒い毛むくじゃらの何かだ。
日向が目を凝らして見てみれば、それはクマの死骸だった。
そして、その上にキキが乗っている。
キキはおもむろにクマの死骸に牙を突き立て、その肉を食いちぎった。
ぐっちゃぐっちゃと咀嚼し、再びもう一度牙を突き立てる。
キキは、死肉を喰らっているのだ。
「……けど、俺に追いかけられている最中だってのに、一体何のために……?」
そう考えた日向は、一度近くの木に身を隠し、キキの様子を窺うことにした。幸い、キキはまだ自分の接近に気付いていない。
「……そういえば、この山には妙に動物の死骸が多かったな。やっぱりあれは、キキの仕業だったのか……?」
しかしそれは何の理由があってのことか?
その答えが、これで明かされるかもしれない。
日向は息を潜めてキキの様子を注視する。
先ほどの全力疾走によって、息を潜めるのも辛いのだが、それでも必死に呼吸を押し殺した。
クマの死骸に、無遠慮に牙を突き立て、死肉を喰らい続けるキキ。
すると、キキの身体に変化が起こり始めた。
手りゅう弾の爆風を受けた傷が、焼け跡が、どんどん消えていくのだ。
死肉を噛み続けるたびに、キキの傷が癒えていく。
「あれが……キキの回復能力……!」
『肉を喰らうことで傷を癒す能力』。
それが横穴にて鳥羽に言及されたキキの回復能力、その正体だ。
そうと分かれば、もうこれ以上キキの様子を窺う理由など無い。
なにせキキは、こうしている間にもダメージを回復していっているのだ。
日向は木陰から飛び出し、『太陽の牙』を呼び寄せ、その刀身に火を灯す。
「うおおおおお!!」
キキの背後から駆け寄った日向が、炎を纏った『太陽の牙』を一薙ぎする。
「キーッ!?」
しかしキキは、日向の接近にいち早く気づき、攻撃を避けてしまった。
そのままクマの死骸から離れ、逃走を再開する。
「しまった、逃がした……!」
急いでキキを追いかけたい日向だったが、もはやそんな体力は無かった。それに、キキを追いかける前に、やらなければならないことができた。
日向は、目の前のクマの死骸に向かって、燃え盛る『太陽の牙』を突き刺した。瞬間、クマの死骸が炎上する。
「これでキキは、このクマの肉を食えない。回復することもできないだろう」
つまるところ、今まで見てきた動物の死骸は、キキの回復ポイントだったのだ。途中で発見した松葉班の隊員たちの死体も、それに含まれるかもしれない。この山に死体が散乱していたのは、そういう理由だ。
このままキキを追いかけても、またどこかで死肉を喰らい、ダメージを回復されるのがオチだろう。ならば、その回復ポイントを潰さなければならない。故に日向は、クマの死体に火を放ったのだ。
キキの回復能力は、やはり”濃霧”による能力ではなかった。
恐らくこれは、”生命”に由来する能力。
だがしかし、この灰色の霧を発生させているのもまた、間違いなくキキだ。
「……まさか。そういうことなのか……?」
日向の中で、全てが繋がった。
確かに、そのような存在がいないとは明言されていないが、そんなのアリなのか、と日向は思わずにはいられなかった。
「キキは、”濃霧”と”生命”の『二重牙』だ。それしかない……!」




