第四十五章 十月の夜
十月十六日。
十月二十三日まで、あと七日。
直人は池袋のシェアオフィスで一人、拓本を広げていた。夜の十一時。早川は別室でデータ解析を続けている。真琴は宮内庁の通常業務に戻っている。
拓本の八枚目。壁面の最下部。設計者の付記。
『五点ヲ結ブ線ノ収束点——富士ノ地下ニ、真ノ最奥アリ。其処ニ、余ガ最後ニ残セシモノアリ。』
富士の地下には行った。歌を見つけた。だが、あれが「最後に残したもの」の全てだったのか。
直人は石板の歌を思い出した。
『未だ成らぬ国の器を抱きしめて児らに渡さむ富士の白雪』
児らに渡す。次の世代に渡す。
直人は拓本から目を離し、窓の外を見た。池袋の夜景。ビルの灯り。車のヘッドライト。
修復士として十年。直人は常に過去と向き合ってきた。過去の遺物を、過去の技法で、過去の姿に戻す。それが修復だと信じてきた。
だが今、直人は初めて——未来について考えている。
この暗号を、どう未来に渡すのか。
拓本を学術論文として発表するのか。メディアに公開するのか。政府に提出するのか。
どの選択も、暗号を「完成」させてしまう。公開した瞬間に、暗号は解読済みの歴史的遺物になる。学者たちが分析し、政治家たちが利用し、メディアが消費する。
それは——設計者の意図に反する。
暗号は、未完のまま渡されるべきなのだ。次の世代が、自分たちの手で、自分たちの時代の文脈で読み解くために。
では、直人の役割は何だ。
暗号を発見し、構造を理解し、物証を確保した。それは「受け取る」段階だ。次は「整える」段階だ。未来に読める形に整える。
修復。
そう。これは修復なのだ。百五十年の時間で劣化し、戦争で傷つき、政治で歪められた暗号を——元の設計意図が読み取れる状態に修復する。
そして修復が終わったら——手放す。次の世代に。
直人のスマートフォンが震えた。真琴からのメッセージ。
『眠れません。少し話してもいいですか。』
直人は通話ボタンを押した。
「眠れないんですか」
「はい。考えることが多すぎて」
「分かります」
電話の向こうで、真琴の呼吸が聞こえた。
「直人さん。私、怖いのは父に知られたことでも、キャリアを失うことでもないんです」
「何が怖いんですか」
「自分が——正しいかどうか分からないことが怖い。暗号を追い続けることが正しいのか。国家の安定を優先すべきなのか。祖父が維持派だったなら、私は維持派の血筋であって——」
「九条さん」
「はい」
「血筋は関係ない。真壁さんは維持派の末裔だったが、自分の判断で空白の青銅板を渡してくれた。あなたも——自分の判断で選べる」
「でも私の判断が間違っていたら」
「間違っているかもしれない。俺の判断も間違っているかもしれない。でも、設計者が残したメッセージを思い出してください。『未完は希望』。間違いを含んだまま前に進むことが——未完の意味なんだと思います」
電話の向こうで、微かな笑い声が聞こえた。
「不器用な励ましですね」
「修復士ですから。繊細さは手先だけです」
真琴が笑った。初めて聞く、屈託のない笑い声だった。
「おやすみなさい、直人さん」
「おやすみなさい」
通話が切れた。
直人はスマートフォンをテーブルに置き、拓本に視線を戻した。
空白の第五条。設計者の指紋。
直人は自分の右手の親指を見つめた。修復の仕事で硬くなった指先。微細な傷の跡。
百五十年前の設計者も、こうして自分の指を見つめただろうか。石に指紋を押す前に。
直人は拓本を丁寧に巻き直し、防水袋に戻した。
十月二十三日まで、あと七日。
暗号の核心は——まだ見えない。




