第四十四章 ワシントンの声
十月十五日。
アメリカからの連絡は、予想外の形で届いた。
早川のもとに、一通のメールが来たのだ。差出人は、ジョージタウン大学の日本学教授ジェームズ・ハートリー。
メールの内容は簡潔だった。
『早川悠斗様。私はGHQ時代の日米関係を専門とする研究者です。あなたが最近、米国国立公文書館のデジタルアーカイブで、AG-091.3関連の文書を検索したことを承知しております。私はAG-091.3-Aの原本を、かつて直接閲覧したことがあります。お話しすべきことがあります。ビデオ通話は可能ですか。』
早川は直人と真琴に転送した。
『怪しすぎません? トラップの可能性は?』
直人の返信。
『可能性はある。だがAG-091.3-Aの原本を閲覧した人間は貴重だ。リスクを取る価値はある。ただし、こちらの情報は最小限にしろ。相手の話をまず聞く。』
その日の夜——ワシントンDCは午前——三人はシェアオフィスのモニターの前に座り、ビデオ通話を開始した。
ジェームズ・ハートリーは七十代前半の白髪の男性で、書斎の壁に日本の浮世絵と英語の蔵書が混在している。穏やかな表情だが、目に鋭さがある。
「はじめまして。私の日本語は完璧ではありませんが、お許しください」
ハートリーの日本語は、外国人としては驚くほど流暢だった。
「早速ですが、本題に入ります。AG-091.3-A——GHQ文書の原本について。私は二十年前、博士論文の調査でこの文書を閲覧しました。そのとき、異常に気づきました」
「異常とは」直人が尋ねた。
「原本には、マイクロフィルム版にはない記述がありました。選択肢Bの推奨理由——その部分です。マイクロフィルム版では、選択肢Bの理由は『日本国民の心理的安定への配慮』と記されています。だが原本では——」
ハートリーはメモを取り出した。
「原本の記述はこうです。『選択肢Bを推奨する。理由:日本の皇室宝物に関連する暗号体系は、日本の国家構造に深く埋め込まれており、物証のみを押収しても暗号全体を無効化することはできない。暗号は物証ではなく構造に存在する。構造を破壊するには、日本の国家体制そのものを解体する必要があり、これは現在の占領政策の方針に反する。従って、暗号を現状のまま維持し、その存在が広く知られないよう管理することが、最も合理的な対応である』」
三人は黙った。
GHQは——暗号の本質を理解していた。暗号は物証にあるのではなく、国家の構造そのものにある。物証を押収しても意味がない。
「ハートリー教授」直人が言った。「原本にはそれ以外に、マイクロフィルム版と異なる部分はありましたか」
「一箇所。文書の最終ページに、手書きの追記がありました。英語ではなく、日本語で」
「何と書いてありましたか」
「私の日本語力では完全には解読できませんでしたが——写真を撮りました。当時はデジタルカメラの初期で、画質は良くありませんが」
ハートリーが画面に画像を表示した。古い文書の一部。手書きの日本語。
真琴が声を上げた。
「『未央印ノ在処ハ、巡幸ノ終着点ニアリ。終着点ハ出発点ナリ』」
未央印の在処は、巡幸の終着点にある。終着点は出発点である。
「巡幸の終着点——」直人が呟いた。「昭和天皇の巡幸は、一九五四年に終了している。最後の訪問先は——」
早川が即座に検索した。
「最後の訪問先は——北海道っす。一九五四年八月。でも『終着点は出発点』って書いてある。巡幸の出発点は——」
「東京。皇居」
「皇居が終着点であり出発点。つまり未央印は——皇居にある?」
直人は首を振った。
「単純にそうではないかもしれない。巡幸は全国を回って東京に戻った。だが、巡幸が行われなかった場所がある」
「沖縄」
「巡幸の終着点が皇居なら、巡幸が行われなかった沖縄は——もう一つの終着点だ。到達しなかった終着点。そして沖縄が出発点でもあるとすれば——」
「暗号は沖縄から始まり、沖縄で終わる……」
ハートリー教授が画面の向こうで頷いた。
「お三方。私がこの文書を発見したとき、日本の研究者仲間に相談しました。その方は——三条冬美さんでした」
直人たちは顔を見合わせた。
「三条さんは、この情報を二十年前から持っていたのですね」
「ええ。そして三条さんは、こうおっしゃいました。『まだ早い。正しい人間が現れるまで、待たなければならない』と」
通話が終わった後、三人はしばらく無言だった。
暗号の周囲には、何十年もかけて張り巡らされた人間関係の網があった。三条冬美、ハートリー教授、川村啓一郎、真琴の祖父、真壁の祖父——何世代にもわたる人間たちが、この暗号の番人として、あるいは探究者として、静かに関わり続けてきた。
そしてその網の中心に——今、直人たちがいる。




