第四十三章 父の電話
その夜、真琴のスマートフォンが鳴った。
父からだった。
九条正道。元大蔵省(現財務省)主計局の官僚。退官後は政府系シンクタンクの理事を務めている。真琴の人生設計のほとんどは、この父の期待に沿って形成されてきた。
「真琴。少し話がある」
父の声は、いつもの抑制された低音だった。感情を表に出さない人だ。真琴は、その点では父に似ている。
「何ですか」
「宮内庁で緊急監査が行われていると聞いた。お前の名前も挙がっているらしい」
真琴の背筋が冷えた。
「どなたから聞いたのですか」
「そういうことを詮索するのは賢明ではないな。——真琴、お前は何をしている」
「仕事です」
「仕事の範囲を逸脱しているのではないか」
真琴は窓の外を見た。夜の東京。無数の灯り。その一つ一つに、誰かの生活がある。
「父さん。お祖父様は——九条清隆は、何を知っていたのですか」
電話の向こうで、長い沈黙があった。
「真琴。父さんに言えることは一つだけだ。お祖父様は、国家を守るために一生を捧げた人だ。そしてお前にも、同じことを期待している」
「国家を守る、とは何ですか」
「安定を維持することだ。波風を立てないこと。秩序を乱さないこと」
「それが——守ることですか」
「それ以外に何がある」
真琴は電話を握る手に力を込めた。
「お祖父様は——晩年、揺らいでいました。『いつか誰かが見つけなければならない』と。それは安定を維持する言葉ではありません」
「真琴」
「お祖父様は、安定だけが国家の守り方ではないと——最後に気づいたのだと思います」
「真琴!」
父の声が、初めて感情を帯びた。怒りではない。恐怖だ。
「お前が何を見つけたのか知らん。だが、それを追い続ければ——お前のキャリアは終わる。それだけではない。お前自身が——」
「父さん」
真琴は静かに遮った。
「私は自分で選びます」
電話を切った。
手が震えていた。
真琴はベッドに座り、両手で顔を覆った。涙は出なかった。代わりに、胸の中で何かが——長い間閉じ込められていた何かが、静かに割れた。
父の期待。祖父の遺言。国家公務員としての義務。暗号が求める真実。
すべてが、異なる方向を指している。
真琴は顔を上げ、スマートフォンを取り出した。
直人へのメッセージを打った。
『部長が時間を稼いでくれました。十一月末まで。それまでに、やるべきことをやります。——父に、調査のことを知られました。止められました。でも、止まりません。』
送信した後、真琴は付け加えた。
『怖いです。でも、怖いのは調査がばれることではなく——自分が何を選ぼうとしているのか、はっきり見えてきたことが怖いのだと思います。』
直人の返信は、十分後に来た。
『怖くて当然です。百五十年間、この暗号に関わった人間は全員、何かを失っている。設計者は提案を否決された。川村啓一郎は急死した。あなたの祖父は真実を墓場に持っていった。——でも、あなたは違う選択ができる。何も失わなくていい。暗号の調査は俺と早川に任せて、あなたは安全な場所にいてください。』
真琴は画面を見つめた。
そして、返信を打った。
『それはできません。これは私の仕事です。祖父が残したものを、私が引き受けます。——おやすみなさい、直人さん。』




