第四十二章 監査の朝
十月十四日。午前八時。
真琴は宮内庁の門をくぐった。
いつもの通勤路。いつもの守衛の挨拶。だが今朝は、すべてが違って見えた。廊下の蛍光灯の光。同僚たちの表情。コピー機の音。日常の一つ一つが、薄いガラスの向こうにあるように感じられた。
書陵部のオフィスに入ると、すでに全職員が集まっていた。部長が前に立ち、緊急監査の概要を説明している。
「——内閣官房からの要請に基づき、所蔵品管理体制の総点検を実施する。各担当は、自身が管理する所蔵品の目録と現物の照合を、本日中に完了すること。不整合があれば、直ちに報告するように」
真琴は自分の席に座り、PCを起動した。
問題は二つある。
一つ。二重和紙の巻子。修復のために直人に渡したことは正式な手続きを経ている。だが、巻子の裏層——雁皮紙の解析データは、書陵部に報告していない。監査で巻子の現状を確認されれば、裏層の発見を隠し通すことは困難だ。
二つ。書庫から持ち出した「未」の字の和紙。これは正式な手続きを経ていない。私的に持ち出した。
真琴は「未」の字の和紙を思い出した。鞄の中にある。書庫に戻さなければならない。だが、監査の最中に書庫に入れば、不自然な行動として記録される。
隣の席の同僚——若い男性職員が声をかけてきた。
「九条さん、大丈夫ですか。顔色が悪いですけど」
「大丈夫です。少し寝不足で」
「最近、有給休暇を多く取られてましたよね。体調管理、気をつけてくださいね」
善意の言葉だ。だが真琴には、それが監視の目のように感じられた。
午前中、真琴は自分が管理する所蔵品の目録チェックを進めた。機械的に、正確に、いつもの九条真琴として。だがその間も、思考は別の場所を走っていた。
暗号の調査を続けるか、ここで止めるか。
止めれば、キャリアは守れる。国家公務員としての立場。安定した収入。将来の年金。父が望んだ道。
続ければ——すべてを失うかもしれない。
昼休み。真琴はオフィスを出て、中庭のベンチに座った。皇居の木々が秋の風に揺れている。
スマートフォンを取り出した。直人へのメッセージを打ちかけて、消した。打ち直して、また消した。
三度目に打った文面。
『監査が始まりました。二重和紙の巻子の現状報告を求められる可能性があります。どう対応すべきか、判断がつきません。』
送信。
直人の返信は即座に来た。
『事実を報告してください。裏層の発見を、正直に。隠し続けることはできない。報告すれば、巻子は回収されるかもしれないが、拓本は俺たちの手元にある。物証は分散している。一箇所を押さえても全体は消せない。——九条さんの安全が最優先だ。』
真琴はスマートフォンを握りしめた。
事実を報告する。正直に。
それは——暗号の調査を公式に認めることを意味する。宮内庁の内部で、九条真琴が暗号の発見者として記録される。それは保護にもなりうるし、標的にもなりうる。
真琴は深呼吸し、オフィスに戻った。
午後二時。書陵部長の前に立った。
「部長。修復依頼中の巻子について、報告すべき事項があります」
部長——五十代の穏やかな男性が、眼鏡越しに真琴を見た。
「何かね」
「巻子の裏打ちの下に、二重構造が確認されました。下層に雁皮紙が存在し、繊維の操作による微細な図形が刻まれています。修復士の鷺宮直人氏が発見し、私に報告がありました」
部長の表情が、ゆっくりと変わった。穏やかさが消え、代わりに——恐怖とも覚悟ともつかない色が浮かんだ。
「……九条くん。それを、今日まで報告しなかった理由は」
「発見の意味を正確に評価するため、時間が必要でした」
「評価の結果は」
真琴は背筋を伸ばした。
「この発見は、明治期の皇室内部における思想的対立の物証です。国家の象徴体系に関わる重大な歴史的発見であり、慎重な取り扱いが求められます」
部長は長い間、真琴を見つめていた。
そして、静かに言った。
「九条くん。君のお祖父様は——この件について、何かおっしゃっていたかね」
真琴の心臓が跳ねた。
「……ご存知なのですか」
「知っている、というほどではない。だが——九条清隆次長が晩年、ある文書について気にかけていたことは、当時の部内で噂になっていた」
部長は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「この監査は、内閣官房の意向だ。私の裁量ではどうにもならん。だが——一つだけ、時間を稼ぐことはできる」
「時間を」
「巻子の修復は未完了だ。修復中の所蔵品は、現物確認の対象外とする運用がある。修復完了報告が提出されるまでは、現物確認を延期できる。——修復完了は、いつの予定だったかね」
真琴は理解した。
「十一月末の予定です」
「では、十一月末まで現物確認は保留だ。それまでに——」
部長は真琴の目をまっすぐに見た。
「やるべきことを、やりなさい」




