表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/36

第四十二章 監査の朝  

十月十四日。午前八時。

 真琴は宮内庁の門をくぐった。

 いつもの通勤路。いつもの守衛の挨拶。だが今朝は、すべてが違って見えた。廊下の蛍光灯の光。同僚たちの表情。コピー機の音。日常の一つ一つが、薄いガラスの向こうにあるように感じられた。

 書陵部のオフィスに入ると、すでに全職員が集まっていた。部長が前に立ち、緊急監査の概要を説明している。

「——内閣官房からの要請に基づき、所蔵品管理体制の総点検を実施する。各担当は、自身が管理する所蔵品の目録と現物の照合を、本日中に完了すること。不整合があれば、直ちに報告するように」

 真琴は自分の席に座り、PCを起動した。

 問題は二つある。

 一つ。二重和紙の巻子。修復のために直人に渡したことは正式な手続きを経ている。だが、巻子の裏層——雁皮紙の解析データは、書陵部に報告していない。監査で巻子の現状を確認されれば、裏層の発見を隠し通すことは困難だ。

 二つ。書庫から持ち出した「未」の字の和紙。これは正式な手続きを経ていない。私的に持ち出した。

 真琴は「未」の字の和紙を思い出した。鞄の中にある。書庫に戻さなければならない。だが、監査の最中に書庫に入れば、不自然な行動として記録される。

 隣の席の同僚——若い男性職員が声をかけてきた。

「九条さん、大丈夫ですか。顔色が悪いですけど」

「大丈夫です。少し寝不足で」

「最近、有給休暇を多く取られてましたよね。体調管理、気をつけてくださいね」

 善意の言葉だ。だが真琴には、それが監視の目のように感じられた。

 午前中、真琴は自分が管理する所蔵品の目録チェックを進めた。機械的に、正確に、いつもの九条真琴として。だがその間も、思考は別の場所を走っていた。

 暗号の調査を続けるか、ここで止めるか。

 止めれば、キャリアは守れる。国家公務員としての立場。安定した収入。将来の年金。父が望んだ道。

 続ければ——すべてを失うかもしれない。

 昼休み。真琴はオフィスを出て、中庭のベンチに座った。皇居の木々が秋の風に揺れている。

 スマートフォンを取り出した。直人へのメッセージを打ちかけて、消した。打ち直して、また消した。

 三度目に打った文面。

『監査が始まりました。二重和紙の巻子の現状報告を求められる可能性があります。どう対応すべきか、判断がつきません。』

 送信。

 直人の返信は即座に来た。

『事実を報告してください。裏層の発見を、正直に。隠し続けることはできない。報告すれば、巻子は回収されるかもしれないが、拓本は俺たちの手元にある。物証は分散している。一箇所を押さえても全体は消せない。——九条さんの安全が最優先だ。』

 真琴はスマートフォンを握りしめた。

 事実を報告する。正直に。

 それは——暗号の調査を公式に認めることを意味する。宮内庁の内部で、九条真琴が暗号の発見者として記録される。それは保護にもなりうるし、標的にもなりうる。

 真琴は深呼吸し、オフィスに戻った。

 午後二時。書陵部長の前に立った。

「部長。修復依頼中の巻子について、報告すべき事項があります」

 部長——五十代の穏やかな男性が、眼鏡越しに真琴を見た。

「何かね」

「巻子の裏打ちの下に、二重構造が確認されました。下層に雁皮紙が存在し、繊維の操作による微細な図形が刻まれています。修復士の鷺宮直人氏が発見し、私に報告がありました」

 部長の表情が、ゆっくりと変わった。穏やかさが消え、代わりに——恐怖とも覚悟ともつかない色が浮かんだ。

「……九条くん。それを、今日まで報告しなかった理由は」

「発見の意味を正確に評価するため、時間が必要でした」

「評価の結果は」

 真琴は背筋を伸ばした。

「この発見は、明治期の皇室内部における思想的対立の物証です。国家の象徴体系に関わる重大な歴史的発見であり、慎重な取り扱いが求められます」

 部長は長い間、真琴を見つめていた。

 そして、静かに言った。

「九条くん。君のお祖父様は——この件について、何かおっしゃっていたかね」

 真琴の心臓が跳ねた。

「……ご存知なのですか」

「知っている、というほどではない。だが——九条清隆次長が晩年、ある文書について気にかけていたことは、当時の部内で噂になっていた」

 部長は眼鏡を外し、目頭を押さえた。

「この監査は、内閣官房の意向だ。私の裁量ではどうにもならん。だが——一つだけ、時間を稼ぐことはできる」

「時間を」

「巻子の修復は未完了だ。修復中の所蔵品は、現物確認の対象外とする運用がある。修復完了報告が提出されるまでは、現物確認を延期できる。——修復完了は、いつの予定だったかね」

 真琴は理解した。

「十一月末の予定です」

「では、十一月末まで現物確認は保留だ。それまでに——」

 部長は真琴の目をまっすぐに見た。

「やるべきことを、やりなさい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ