第七十二章 第二部了
十一月二十日。東京。
直人は修復室に戻った。
巻子はない。内閣官房に回収されたままだ。修復台の上には何もない。
だが修復室の温度は二十度。湿度は五十五パーセント。いつもと同じ環境が、直人を迎えた。
直人は修復台の前に座り、手袋を嵌めた。
修復台の上に、靴墨の拓本を広げた。八枚の障子紙。百五十年前の文字が、靴墨の黒い面に白く浮かんでいる。
その横に——照屋真栄から預かった一枚の和紙を置いた。口伝を書き下ろしたもの。老いた筆の力強い文字。
拓本と口伝が、修復台の上に並んでいる。
百五十年前の本土の声と、百五十年間沖縄で守られてきた声。
二つの声が、この修復台の上で——初めて出会った。
直人は手袋を外し、自分の右手の親指を見つめた。硬い指先。修復の仕事で鍛えられた手。微細な傷の跡。墨と漆の染みが、皮膚の紋理に入り込んで消えない。
洞窟の空白に、設計者の指紋が刻まれていた。何も書かない代わりに、自分の身体を刻んだ。
直人は——何を刻むのか。
まだ分からない。
だが第三部で、それを見つける。
直人は拓本と口伝を丁寧に巻き直し、桐の箱に収めた。桐箱の蓋に、修復士の筆で一文字書いた。
「未」
未完。未来。未だ。
窓の外に、冬の東京が広がっている。十一月の空は高く、冷たく、澄んでいる。遠くに——富士山が見えた。初冠雪の白が、午後の光に照らされて輝いている。
あの山の地下に歌が眠っている。あの山の頂にDNAのメッセージが刻まれた紙がある。そして今、あの山の裾野に広がるこの国の中に——空白が散らばっている。
空白を集め、整え、未来に渡す。
それが——修復士の仕事だ。
第二部、了。
第三部『空白の勅書』へ続く




