第六十七章 空白の印面
直人は絹の布を慎重に開いた。
朱色の絹。織りは細かく、質は高い。琉球の紅型染めの技法で、微細な菊花紋が染められている。
絹の中に——印章があった。
青銅製。高さ五センチ、底面は三センチ四方。上部には獅子の鈕がついている。獅子の造形は精緻で、毛の一本一本が彫り出されている。平安時代から鎌倉時代にかけての金工技術の特徴を示しているように見えた。
直人は印章を手に取った。掌に収まるサイズ。重さは二百グラムほど。青銅の表面には緑青が薄く乗っているが、腐食は軽微だ。漆箱の密閉環境が、酸化を最小限に抑えていた。
そして——底面。
直人は印章を裏返し、底面を確認した。
彫られていたのは文字ではなかった。
空白だった。
底面は平らに磨かれているだけで、何の文字も、図形も、記号も刻まれていない。鏡のように滑らかな青銅の表面が、テントの下の光を反射している。
テーブルの周囲で、ざわめきが広がった。
「何も彫ってない——」
「空白だ——?」
「壊れてるんじゃないか。欠損してるのでは」
メディアの記者たちが身を乗り出す。カメラのシャッター音が連続する。
直人は印章の底面を、ルーペで確認した。修復士の目が、表面の状態を読む。
「欠損ではありません」
直人の声が、ざわめきを静めた。
「意図的に空白のまま仕上げられています。研磨の痕跡が均一です。もし彫刻を施した後に磨り消したのであれば、磨り消した部分と周囲の研磨痕に差異が生じます。この印面にはそうした差異がない。最初から——何も彫られていません」
永田が印章を受け取り、自分の目で確認した。
「直人の見立ては正しい。最初から空白だ。——しかし、この青銅の質。鈕の獅子の彫刻。作りは一級品だ。印章として正式に製作され、しかし印面だけが空白の——」
「未央印です」直人が言った。
その言葉は、テーブルを囲む人々の大半にとっては意味不明だったろう。だが、直人の隣に立っていた真琴は——理解していた。
空白の印。何も刻まれていない。何も主張しない。何も固定しない。
押しても、紙に何の跡も残らない印。
だがそれこそが——この印の意味だ。何も刻まないことが、メッセージなのだ。空白を残すことが、この印の目的なのだ。




