第六十二章 真琴の帰還
十一月七日。
直人がシェアオフィスでデータを整理していると、ドアがノックされた。
開けると、真琴が立っていた。
髪を下ろしていた。いつもの一つ結びではない。コートの下は、紺のスーツではなくベージュのニットとジーンズ。足元はスニーカー。
直人が知っている九条真琴とは——少し違う人間が、ドアの前に立っていた。
「——入っていいですか」
「どうぞ」
真琴はオフィスに入り、室内を見回した。ホワイトボードの書き込み。テーブルに広げられた拓本のコピー。モニターに映った早川の解析画面。
「散らかっていますね」
「すみません」
「いえ。——散らかっているほうが、活気がある」
真琴は窓際の椅子に座った。直人は向かいのデスクチェアに座った。二人の間に、テーブルがある。テーブルの上に、拓本のコピーと空の紙コップが並んでいる。
しばらく、どちらも何も言わなかった。窓の外から、池袋の雑踏の音が低く聞こえている。
「書陵部を休職しました」真琴が静かに言った。
「休職——」
「正確には、有給休暇の残りを一括消化した後、休職届を出しました。理由は『個人的事情』。部長は——何も聞かずに受理してくれました。最後に、『やるべきことをやりなさい』と言ってくれた部長に——申し訳ない気持ちと、感謝と、両方があります」
「九条さん——真琴さん。あなたのキャリアが——」
「キャリアは——もうどうでもいいんです。いえ、どうでもよくはない。書陵部の仕事は好きでした。古い文書を扱い、歴史に触れ、静かに仕事をする。あの生活は、私の一部でした。失ったことは悲しい。でも、今はそれよりも大切なことがある」
真琴は鞄から祖父のノートを取り出した。革の表紙が、手擦れで光っている。
「このノートの最後のページ。祖父が鉛筆で書いて、消した一行。『未央印は空白の中にある。空白を読むことができる者にのみ、印は見える』。——そして父が教えてくれた、祖父の最期の言葉。『空白を読め。空白は自由だ』」
「離れている間に——それを」
「はい。離れている間に、祖父の言葉をずっと考えていました。空白を読むとは何か。何も書かれていない場所に、意味を見出すことか。——違う。空白が空白のまま、何かを語っていることを受け止めること。言葉にならないものを、言葉にせずに受け取ること。それが空白を読むということ」
直人は真琴の目を見つめた。
二週間前の真琴と——違う。迷いが消えている。代わりに、静かな確信がある。修復室で巻子に向き合うときの直人の目と、同じ質の光が、真琴の目に宿っていた。
「そして——分かったことがあります」
「何が」
「空白の第五条に何を書くべきか——私には分かりません。でも、書くべきだということは分かります。書くことを恐れるべきではないと分かります。空白は欠如ではなく自由。未完は絶望ではなく希望。——それが更新派の暗号の最終的なメッセージであり、維持派の祖父が最後に到達した真理です」
直人は立ち上がった。
「真琴さん。首里城の地下に、未央印が眠っている。十一月中旬に内調が回収に来る。その前に俺たちがアクセスする必要がある。力を貸してほしい」
「もちろんです。——そのために戻ってきたんです」
直人は手を差し出した。
握手。仕事の同志としての。
真琴はその手を取った。手のひらが、暖かかった。
三秒。五秒。
握手は——握手のまま、少しだけ長く続いた。
真琴が先に手を離した。
「——行きましょう」




