表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/36

第六十二章 真琴の帰還  

十一月七日。

 直人がシェアオフィスでデータを整理していると、ドアがノックされた。

 開けると、真琴が立っていた。

 髪を下ろしていた。いつもの一つ結びではない。コートの下は、紺のスーツではなくベージュのニットとジーンズ。足元はスニーカー。

 直人が知っている九条真琴とは——少し違う人間が、ドアの前に立っていた。

「——入っていいですか」

「どうぞ」

 真琴はオフィスに入り、室内を見回した。ホワイトボードの書き込み。テーブルに広げられた拓本のコピー。モニターに映った早川の解析画面。

「散らかっていますね」

「すみません」

「いえ。——散らかっているほうが、活気がある」

 真琴は窓際の椅子に座った。直人は向かいのデスクチェアに座った。二人の間に、テーブルがある。テーブルの上に、拓本のコピーと空の紙コップが並んでいる。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。窓の外から、池袋の雑踏の音が低く聞こえている。

「書陵部を休職しました」真琴が静かに言った。

「休職——」

「正確には、有給休暇の残りを一括消化した後、休職届を出しました。理由は『個人的事情』。部長は——何も聞かずに受理してくれました。最後に、『やるべきことをやりなさい』と言ってくれた部長に——申し訳ない気持ちと、感謝と、両方があります」

「九条さん——真琴さん。あなたのキャリアが——」

「キャリアは——もうどうでもいいんです。いえ、どうでもよくはない。書陵部の仕事は好きでした。古い文書を扱い、歴史に触れ、静かに仕事をする。あの生活は、私の一部でした。失ったことは悲しい。でも、今はそれよりも大切なことがある」

 真琴は鞄から祖父のノートを取り出した。革の表紙が、手擦れで光っている。

「このノートの最後のページ。祖父が鉛筆で書いて、消した一行。『未央印は空白の中にある。空白を読むことができる者にのみ、印は見える』。——そして父が教えてくれた、祖父の最期の言葉。『空白を読め。空白は自由だ』」

「離れている間に——それを」

「はい。離れている間に、祖父の言葉をずっと考えていました。空白を読むとは何か。何も書かれていない場所に、意味を見出すことか。——違う。空白が空白のまま、何かを語っていることを受け止めること。言葉にならないものを、言葉にせずに受け取ること。それが空白を読むということ」

 直人は真琴の目を見つめた。

 二週間前の真琴と——違う。迷いが消えている。代わりに、静かな確信がある。修復室で巻子に向き合うときの直人の目と、同じ質の光が、真琴の目に宿っていた。

「そして——分かったことがあります」

「何が」

「空白の第五条に何を書くべきか——私には分かりません。でも、書くべきだということは分かります。書くことを恐れるべきではないと分かります。空白は欠如ではなく自由。未完は絶望ではなく希望。——それが更新派の暗号の最終的なメッセージであり、維持派の祖父が最後に到達した真理です」

 直人は立ち上がった。

「真琴さん。首里城の地下に、未央印が眠っている。十一月中旬に内調が回収に来る。その前に俺たちがアクセスする必要がある。力を貸してほしい」

「もちろんです。——そのために戻ってきたんです」

 直人は手を差し出した。

 握手。仕事の同志としての。

 真琴はその手を取った。手のひらが、暖かかった。

 三秒。五秒。

 握手は——握手のまま、少しだけ長く続いた。

 真琴が先に手を離した。

「——行きましょう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ