第五十六章 真壁の告白
十月二十八日。夜。
直人のスマートフォンに、真壁から電話が入った。
「鷺宮さん。会えますか。今夜」
声に、いつもの抑制がなかった。何かが——崩れかけている。
「どこで」
「神田の——錦町の、小さなバーです。『月と蝋燭』という店。カウンターだけの店です」
直人は三十分後に到着した。雑居ビルの地下一階。木のカウンターに六席だけの、薄暗い店。真壁はカウンターの隅に座っていた。前にウイスキーのグラスが一つ。氷はすでに半分溶けている。
直人は隣に座った。バーテンダーが無言でウイスキーを出した。
「何があったんですか」
真壁はグラスを回した。
「内調を辞めました」
直人は黙った。
「正確には、辞職を申し出ました。受理されるかどうかは分かりません。情報機関の職員は、簡単には辞められない」
「理由は」
「理由は——いくつかあります。だが最も大きいのは——」
真壁はウイスキーを一口飲んだ。
「巻子の回収を命じたのは、私の上司です。室長に報告した私の情報をもとに、内閣官房が動いた。つまり——九条さんの巻子を奪ったのは、実質的に私です」
「あなたは仕事をしただけだ」
「仕事だから許されるわけではない。——鷺宮さん。私は京都であなたに警告した。沖縄の洞窟が封鎖されたとき、解除を進言すると言った。だが進言は退けられた。洞窟は封鎖されたまま。巻子は回収された。早川さんの研究室への侵入を許可したのも——私の報告がきっかけだった」
直人はウイスキーに手をつけなかった。
「真壁さん。あなたは、暗号を守りたかったのか。封じたかったのか」
「両方だった。——いや、正直に言います。最初は封じたかった。維持派の末裔として、暗号が公になれば国家が揺らぐと信じていた。だが、あなたたちの調査を追ううちに——」
真壁のグラスを持つ手が、かすかに震えた。
「洞窟の壁面の言葉を、報告書にまとめたとき。あの第四条——『未完は希望』を、公式文書のフォーマットで打ち込んだとき。自分が何をしているのか分からなくなった」
「何をしていたんですか」
「百五十年前の人間の魂の叫びを——エクセルの表に入力していたんです。情報機関が情報として処理するために。——馬鹿げている。あの言葉は情報じゃない。祈りだ」
真壁はグラスを置いた。
「鷺宮さん。私が辞めても、内調は動き続けます。私の後任が監視を引き継ぐ。巻子は内閣官房の金庫に入った。洞窟は封鎖されたまま。状況は悪化している」
「分かっています」
「だが——一つだけ、私にしかできないことがあります」
「何ですか」
「内調のデータベースにある暗号関連の全ファイルを、私はまだアクセスできます。辞職が正式に受理されるまでの間——数日間だけ。そのファイルの中に、早川さんの研究室から抜き取ったデータのコピーがあります。そしてもう一つ——内調が独自に収集した、暗号に関する情報が」
「独自に収集した情報?」
「内調は、あなたたちの調査を追跡するだけでなく、独自の調査も行っていました。結果として——あなたたちがまだ到達していない情報を、内調は持っています」
直人はウイスキーのグラスに手を伸ばした。一口飲んだ。琥珀色の液体が喉を焼いた。
「何の情報ですか」
「未央印の物理的な所在を示唆する情報です」
直人のグラスを持つ手が止まった。
「未央印は形のないものだと——あなた自身が言ったのでは」
「未央印の本質は形のない契約です。だが——契約を象徴する物理的な印章も、かつて存在した。平安時代に作られ、歴代天皇に引き継がれた実物の印章。それが慶應四年に沖縄に預けられた。その実物が——今もどこかに存在している可能性がある」
「どこに」
「内調の調査報告によれば——首里城です」




