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第五十四章 離反  

十月二十五日。

 真琴は、直人と早川への連絡を絶った。

 書陵部での通常業務に戻り、監査への対応を粛々とこなし、昼休みは一人でオフィスの弁当を食べ、定時に退勤した。

 表面上は、以前の九条真琴に戻ったように見えた。

 だが、真琴の中では何も戻っていなかった。

 退勤後、真琴は皇居の堀に沿って歩いた。秋の日が短くなり、五時過ぎには暗くなる。堀の水面に、ビルの灯りが揺れていた。

 父から再び電話があった。

「真琴。話がある。今度の日曜に帰ってきなさい」

「何の話ですか」

「お祖父様の遺品の件だ。整理をしたいと思っている」

 真琴の足が止まった。

「遺品の整理は——もう済んでいるのでは」

「一部、未整理のものがある。書斎の奥に——」

「父さん。それは——祖父のノートのことですか」

 電話の向こうで、長い沈黙。

「真琴。お前が持ち出した革表紙のノートのことだ。返しなさい」

 真琴の心臓が冷たくなった。

 祖父のノート。「折ること自体が、第一の封印である」と書かれた、あのノート。

 父はノートの存在を知っていた。そして今——回収しようとしている。

「父さんは——祖父のノートの内容を知っているのですか」

「知る必要はない。お祖父様が残したものは、家族で管理すべきだ」

「管理——」

「真琴。お前は分かっていない。お祖父様が何を守ろうとしたのか。あの人は一生をかけて、ある秘密を——」

 父の声が途切れた。言いすぎたと気づいたように。

「日曜に来なさい。話はそのときに」

 電話が切れた。

 真琴は堀の水面を見つめた。

 父は知っている。祖父の秘密を。そして——祖父と同じ側に立っている。維持派の側に。

 真琴はスマートフォンを握りしめた。

 直人への連絡を絶って二日。たった二日なのに、胸の中にぽっかりと穴が開いたような感覚がある。それは暗号を追えないことへの渇きではなく——

 真琴は首を振った。

 今は感情に溺れている場合ではない。父がノートの回収に動いたということは、真琴の調査が家族にまで波及したということだ。書陵部の監査、内閣官房の巻子回収、そして父からの圧力。包囲網は三重になっている。

 だが——真琴には一つだけ、カードが残っていた。

 祖父のノートは、真琴の自宅にある。そしてノートには、まだ読んでいないページがあった。あの一行——『折ること自体が、第一の封印である』——の前後に、他にも書き込みがあったはずだ。だが第一部の調査に没頭するあまり、ノート全体を精読していなかった。

 真琴は帰宅し、鞄からノートを取り出した。

 革表紙を開く。祖父の万年筆の字が並んでいる。日常の記録。天気、食事、来客の名前。

 だが、ノートの最後のページ——白紙だと思っていたページに、真琴は初めて気づいた。

 白紙ではなかった。

 極めて薄い鉛筆の字で、一行だけ書かれていた。

 消しゴムで消した痕跡がある。だが完全には消えていない。紙に残った筆圧の跡を、角度を変えて光に当てると——読めた。

「『未央印ハ空白ノ中ニアリ。空白ヲ読ムコトガデキル者ニノミ、印ハ見エル』」

 未央印は空白の中にある。空白を読むことができる者にのみ、印は見える。

 祖父は——最後に、この一行を書き、そして消した。書いてはならないと思ったのだろう。だが、手が動いてしまった。維持派の人間として生涯を過ごした祖父が、最後の最後で——更新派の真実に手を伸ばした痕跡。

 真琴はノートを閉じ、胸に抱いた。

 距離を置くと言った。暗号から手を引くと言った。

 だが——祖父のこの一行が、真琴を引き戻そうとしている。

 空白を読む。何も書かれていない場所に、意味を見出す。

 それは——真琴にしかできないことかもしれない。維持派の血を引き、更新派の暗号を追い、両方の空白を知る人間。

 真琴は窓を開け、夜の空気を吸い込んだ。

 東京の夜空に、星はほとんど見えない。だが、星がそこにあることは知っている。見えなくても、在ることは知っている。

 真琴はスマートフォンを取り出した。

 直人ではなく——三条冬美に、メッセージを送った。

『三条さん。お聞きしたいことがあります。未央印は——空白の中にある、という言い伝えをご存知ですか。』

 返信は深夜に来た。

『はい。知っています。それは口伝の最も深い層です。私がこれまで伝えなかったのは——その意味を理解できる人間が現れるのを待っていたからです。九条さん。あなたは、空白を読める人間だと思います。あなたの中に——維持と更新の両方が在る。その両方を抱えたまま空白に向き合うことが——未央印を見ることです。』

 真琴はメッセージを読み、スマートフォンを置いた。

 暗号から離れたはずの自分が、暗号の核心に最も近づいている。

 離反は——回帰の始まりだった。

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