第五十三章 亀裂
十月二十四日。京都から東京へ戻る新幹線の中で、亀裂が走った。
真琴のスマートフォンに、書陵部長からの電話が入った。
「九条くん。——緊急の報告がある。監査の結果、内閣官房から書陵部に正式な指示が出た。修復依頼中の巻子を、即日回収するようにと。修復士への依頼は打ち切り。巻子は内閣官房が直接管理する」
真琴の手から力が抜け、スマートフォンを取り落としそうになった。
「部長、十一月末までの猶予は——」
「覆された。内閣官房長官の直接指示だ。私の裁量では抗えない。九条くん——巻子の修復を担当している鷺宮直人氏に、本日中に返却を求めてくれ」
電話が切れた。
新幹線の窓の外を、秋の田園風景が高速で流れていく。真琴はそれをぼんやりと見つめた。
巻子の回収。暗号の物理的な原本が、国家に吸収される。
直人は二重和紙のスキャンデータも拓本も持っている。物理的な原本が回収されても、情報は残る。だが——原本がなければ、今後の検証が不可能になる。新たな発見の芽が摘まれる。
真琴は直人に電話した。
「直人さん。巻子が回収されます。内閣官房の指示です」
電話の向こうで、直人が息を呑む音が聞こえた。
「いつまでに」
「今日中」
「——分かりました。返却します」
「直人さん——」
「大丈夫だ。俺たちは拓本もデータも持っている。原本がなくても——」
「でも——」
「九条さん。あなたが危険だ。巻子の返却を伝えたということは、あなたが暗号の調査に関与していたことを、内閣官房は完全に把握している」
真琴は唇を噛んだ。
「分かっています」
「宮内庁に戻ったら、すべての調査資料をあなたの手元から消してください。スマートフォンの通信履歴も。——九条さんの安全が最優先です」
「でも、それは——」
「暗号から手を引け、ということですか」
直人は少し黙った。
「一時的にだ。嵐が過ぎるまで」
真琴は窓の外を見つめた。富士山が遠くに見える。初冠雪の白が、午後の光を受けて輝いている。
「——嵐は、過ぎるのでしょうか」
「分からない。だが、あなたが無事でいることが——暗号を未来に渡すための条件だ。あなたが消えたら、書陵部の内部から暗号にアクセスできる人間がいなくなる」
真琴は長い間、何も言わなかった。
やがて、低い声で言った。
「分かりました。——しばらく、距離を置きます」
「九条さん——」
「距離を置くのは、暗号からです。あなたからではありません」
通話が切れた。
直人は東京駅に到着した新幹線の中で、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
真琴が距離を置く。書陵部の九条真琴として、暗号から手を引く。
それは正しい判断だ。彼女の安全を考えれば。
だが——直人の胸の中で、何かが痛んだ。修復士としての痛みではなく、もっと個人的な痛み。
直人は修復室に戻り、巻子を保管箱に収めた。十年間使い込んだ修復用の手袋を外す。
そして、巻子に——最後に一度だけ手を触れた。
百五十年前の和紙。この紙に触れたことから、すべてが始まった。
「行ってこい」
直人は呟いた。
巻子は、宮内庁からの回収担当者に引き渡された。




