第五十二章 南庭の星
十月二十三日。午後十一時。
京都御所。紫宸殿。
真琴は南庭に立っていた。
左近の桜の下。十月の夜風が冷たい。桜の葉はすでに半分以上散り、枝が月明かりに白く浮かんでいる。
スマートフォンの位置情報を確認した。北緯35度01分28.7秒、東経135度45分44.2秒。ほぼ正確な位置だ。
イヤホンを通じて、直人の声が聞こえた。
「九条さん、位置を確認しました。そのまま動かないでください。天頂方向に——あと十七分で五つの星が最も勾玉に近い配置になります」
「了解です」
真琴は空を見上げた。
京都の市街地の光害があるため、暗い星は見えにくい。だが今夜は雲がない。秋の透明な大気が、星の光を地上まで届けている。
十五分が過ぎた。
「あと二分」早川の声が入った。「ガイドスター——木星を目印にしてください。木星の北東に最初の星が見えるはずっす。五等星なので肉眼ギリギリですが——」
真琴は目を凝らした。木星は明るい。その北東に——
見えた。
かすかな光。瞬かない。恒星だ。
「一つ目、見えました」
「OK。そこから時計回りに——二つ目は一つ目のさらに北東。間隔は拳一つ分くらい」
真琴は目を動かした。二つ目。三つ目。四つ目。
そして——五つ目。
五つの星が、天頂近くに浮かんでいた。
「今です」早川の声が震えた。「午後十一時十七分。五つの星が——勾玉を描いてる」
真琴は五つの星を見つめた。
肉眼では、それぞれの星はただの光の点だ。勾玉の形を認識するには、五つの点を心の中で線で結ぶ必要がある。
真琴は結んだ。
曲線を含む、非対称の形。頭と尾を持つ胎児のような形。勾玉。
百五十七年前——慶應四年九月八日の夜、京都御所のこの場所から誰かが同じ空を見上げた。同じ五つの星を見た。そしてその配置を和紙に刻み、石に彫り、国家の構造に埋め込んだ。
真琴の目から涙が流れた。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。感動でも悲しみでもない。もっと根源的な——人間が時間を超えて繋がることの、圧倒的な重みに、体が反応していた。
「九条さん? 大丈夫ですか」直人の声。
「大丈夫です。——見えています。五つの星が」
「映像を送ってください」
真琴はスマートフォンのカメラを空に向けた。通常のカメラでは五等星は写らない。だが早川が事前にインストールした天体撮影アプリが、長時間露光で星をとらえた。
映像が直人と早川に送信された。
「写ってます」早川の声が興奮で上ずった。「五つの星。勾玉の配置。一致率——」
計算の間があった。
「九十九・二パーセント。ほぼ完全な勾玉です。百五十七年前よりも——一致率が上がってる」
「上がっている?」
「歳差運動による微小な変動です。百五十七年の間に、五つの星の位置関係がわずかに変化して、今夜が——もっとも完全な勾玉に近い夜なんす。設計者はこれを計算していた。百五十七年後の今夜が、歴史上で最も完全な勾玉が天に現れる夜だと」
最も完全な勾玉。
だが——完全ではない。九十九・二パーセント。〇・八パーセントの不完全さが残っている。
「沖縄の星——五つ目の星が、わずかにずれているんすよね。やっぱり」
地上の座標と同じだ。沖縄だけが、ずれている。天上でも、地上でも。
真琴は星を見上げたまま、呟いた。
「未完の勾玉……」
南庭の砂利が、月明かりを白く反射していた。紫宸殿の屋根が、星空を四角く切り取っている。
百五十七年前の設計者が見た空と、真琴が今見ている空。同じ空。同じ星。だが、間に流れた百五十七年の歴史が——戦争、敗戦、占領、復興、断絶——すべてが、この〇・八パーセントのずれに凝縮されている。
「直人さん」
「はい」
「この星を見て——分かりました。空白の第五条に何を書くべきか、私には分からない。でも、書くべきだということは——分かります」
「それで十分です」
午後十一時四十五分。五つの星の配置が崩れ始めた。地球の自転が、天球上の星をゆっくりと動かしていく。
勾玉が——溶けていく。
真琴は最後まで空を見つめていた。五つの光が、ばらばらの位置に戻っていく。もう一度この配置が再現されるのは——天文学的な計算によれば、数万年後だ。
一度きりの夜。
真琴は南庭を離れ、御所の暗い回廊を歩いた。
足音が、百五十七年前の足音と重なるような気がした。




