第四十八章 形のない印
十月十九日。皇居外苑。
直人と真壁は、二重橋の前のベンチに並んで座った。観光客がまばらに行き交う昼下がり。
真壁は私服だった。ジャケットにチノパン。内調の分析官というよりも、大学の講師のような雰囲気だ。
「鷺宮さん。未央印について話します。これは、祖父から私への口伝です。祖父は父に伝えず、孫である私に直接伝えました。理由は——父は維持派の任務を忠実に果たす人間で、疑問を持つことがなかったからです」
「あなたには疑問があった」
「幼い頃からです。なぜ祖父は、ネクタイに『未央』の文字を織り込んでいたのか。維持派の任務が暗号を封じることなら、その象徴を身につける理由がない。祖父に尋ねたとき、祖父は——笑いました。『維持も更新も、根は同じだ。どちらも国を愛している。方法が違うだけだ』と」
直人は二重橋を見つめた。橋の向こうに、皇居の森が広がっている。
「未央印の話を」
「はい。祖父の口伝はこうです」
真壁は前を向いたまま、静かに語り始めた。
「未央印は、平安時代に作られた天皇の私印とされています。だが祖父によれば、それは表向きの説明です。実際には——未央印は特定の物体ではありません。未央印とは、天皇と国民の間に結ばれる契約の象徴です。物理的な印章は、その契約の物理的な表現に過ぎない。契約そのものは——形がない」
「形がない契約」
「天皇が国民に対して負う義務と、国民が天皇に対して負う義務。それは法律に書かれるものではなく、時代ごとに更新される無形の約束です。その約束を『未央印』と呼ぶ。未だ尽きない約束。終わらない契約」
直人は腕を組んだ。
「では、物理的な印章は——」
「物理的な印章は、契約の各時代のバージョンを記録するためのものです。平安時代の未央印は、平安時代の契約を刻んでいた。そして——明治期に実朝が未央印を沖縄に預けたとき、彼はその時代の契約を刻み直したはずです」
「契約の内容は」
「分かりません。だが——」
真壁は直人を見た。
「空白の第五条と関係があると、私は考えています。更新派の第三の憲法の第五条は空白でした。維持派の青銅板も空白だった。二つの空白が向かい合っている。その空白に刻まれるべきもの——それが未央印の内容です」
「だが、空白は空白のまま残されている。設計者自身が『後世の民が書くべし』と言っている」
「ええ。だから未央印は——今はまだ空白なのです。刻まれていない印。内容が定まっていない契約。それが『未完のまま眠り続ける』の意味です」
直人は深く息を吐いた。
「つまり——未央印を見つけるとは、物を探すことではなく」
「契約の内容を決めることです。空白の第五条を書くこと。それが——未央印を完成させること」
二人は黙って、二重橋を見つめた。
秋の陽光が、堀の水面に反射して揺れている。
「真壁さん」
「はい」
「あなたは——維持派として、空白が埋められることを望んでいるのか。それとも空白のまま維持されることを望んでいるのか」
真壁は長い間、答えなかった。
やがて、低い声で言った。
「私は——空白を愛しています。空白があるから、未来がある。空白が埋まれば、国家は完成し——完成は終焉です。だから維持派は百五十年間、空白を守ってきた」
「だが」
「だが——永遠に空白のままでは、暗号の意味が消えてしまう。百五十年後に解読されることを前提に設計された暗号が、解読された上で空白のまま残されるなら——それは設計者の意図に反するのか、それとも適うのか。私には分かりません」
「分からなくていい」
直人は立ち上がった。
「設計者自身が言っている。『核心は汝自身の中にあり』と。答えは誰かに教えてもらうものじゃない。——十月二十三日に、五つの封印が天文学的に揃う。そのとき、何が起きるのか。起きたことを見て——そのときに判断します」
真壁は頷いた。
「一つだけ。十月二十三日の夜、京都御所で星を見るつもりですか」
「ああ。五つの星が勾玉を描く夜だ」
「私も——行きます。個人として」
「来てください」
二人は皇居外苑を歩いて去った。背後で、二重橋の上を鳩が横切った。




