73 村上隼人の鞄と煙草
祐介と英治はその後、車を運転して、警察署を後にした。彼らが次に着目したのは、第二の殺人の謎であった。祐介は、今も近くの観光ホテルに泊まり込んでいる村上隼人に会いに行くことにした。
その頃、村上隼人は、山並みの中の観光ホテルでぼうっと窓の外を見ていた。祐介が到着した時も彼は夢現を彷徨っていた。琴音と再会したことを夢のように感じていた。外から忍び入る日の光が彼の目の前のテーブルとソファーを照らしていた。
しかししばらくすると、そんな悠長な心地に浸っていられないと思って、次第に病魔の如く強まってきている赤沼琴音犯人説を覆そうとひどい焦燥感にかられた。しかし、村上隼人にできることはあまり多くない。そのための反証はいつまでたっても得られず、村上隼人は深く悩み苦しんでいたのである。
祐介と英治は観光ホテルに到着すると、村上隼人のそんな心境を感じ取って、ソファーに座ると、民宿近くの和菓子屋で購入した茶饅頭をふたつほど彼に渡した。
村上隼人はそれを無言で受け取ったが、それをテーブルの上に放り出すと、ふたりの顔をまじまじと見つめて言った。
「羽黒さん。僕は一体どうすれば良いですかね……」
彼の表情には、今にもこの観光ホテルのベランダから飛び降りかねない危うさが漂っている。
「そうですね……。琴音さんが犯人ではないことを証明するためにも、村上さんの証言が必要です。この後、麗華さんにも会いに行こうと思うのですが、とにかく多くの記憶を思い返して、正確に証言してほしいと思います」
「しかし何の記憶ですか。僕はもう覚えていることは全て喋ってしまった……」
村上隼人は苦しげにそう呟くと、発作的に饅頭をひとつ掴んで、もつひとつの茶饅頭に投げつけ、右手で額を押さえた。
(茶饅頭が……)
祐介は型崩れした茶饅頭を見つめた。
「冷静になりましょう。わたしは予てから気になっていたことがひとつありましてね。それを確認しておきたいと思いまして……」
「何ですか……?」
隼人は怪訝そうな表情で言った。
「あなたが、麗華さんの手紙を受け取って、久しぶりにあの赤沼家の邸宅に訪れた日のことです。あなたは話の途中で、煙草を一本、箱から出して吸いましたね。わたしはその箱を見ていたのですが、その煙草の銘柄が、どうやら蓮三さんが吸っていた煙草の銘柄とまったく同じもののようですね」
「そうなんですか……それは知りませんでした……。でも、そのことがそれほど重要とは思えませんね。別に珍しい銘柄の煙草でもないし……」
何か疑われているような嫌な気持ちになって、隼人は弁解がましく言った。
「それは確かにそうですね。それと、煙草の他にもうひとつ、村上さんと蓮三さんの所持品に同じものがありましたね」
「そうなんですか……? でも、僕が蓮三さんと、近付いたのは、僕が赤沼家に訪れた日に、応接間で顔を合わせた時だけなので、僕がそのことに気づかなかったのも無理はありませんよ……」
村上隼人が苛立った口調になってきたので、祐介は両手で制した。英治は隣で居心地が悪いらしく、型崩れした茶饅頭を拾って、ビニールの包装をおもむろに剥がし始めた。
「決してあなたを責めるつもりはないんです。そして疑っているつもりもありませんし……ただ同じものということが重要な気がするんです」
祐介の言うことが、隼人には理解しがたかった。
「それで、何が同じだったというんですか……?」
「手提げ鞄です、黒い鞄が同じブランドの、まったく同じデザインのものでした」
「それじゃ……」
隼人はあまりのことに驚いて、息を呑んだ。
「あなたは、僕が自分の鞄の中に毒入りの煙草と怪文書を入れて、タイミングをみて、蓮三さんの鞄とすり替えたと、そう言うのですか……」
「いえ、そんなつもりはありません……」
祐介は慌てて言った。どう村上隼人は神経が鋭敏になっているらしい。
「わたしはこの事実を確認したかっただけです。赤沼蓮三の鞄と煙草は、村上隼人さんの鞄と煙草と完全に同じものだったという偶然を、です……」
「しかし、あの鞄にしたところで、有名なブランドですし、この冬のデザインとして売り出されているものですから、そんなに珍しい偶然とも僕には思えませんが……」
「いえ、これぐらいの偶然性がちょうど良いのです。この偶然こそ、この事件を複雑にしてしまった核心なんです。ともかく、あと数日と経たないうちにこの赤沼家殺人事件は解決するでしょう。それと、もうひとつお聞きしたいのは、あなたが赤沼蓮三さんと接触したのは、本当にあなたが赤沼家の本邸に訪れたあの時だけですか?」
「それは間違いありません。僕は、あの前日まで、いやあの日の朝まで栃木県にいて、鞠奈さんの事故のことを調べていたんですから……。そして、僕が赤沼家に訪れたその翌日には、蓮三さんは殺されてしまったんですからね。その間は、蓮三さんは、外出といえば、金剛寺に行っていたらしいですが、僕は金剛寺には近寄りませんでしたから……」
「なるほど、わかりました」
祐介はそのことをしっかりメモに取ると、お礼を言って立ち上がろうとした。ふと隣を見ると、英治が仏頂面で茶饅頭を頬張っていた。




