68 事件当夜の話
……わたしは偽りだらけの自分という存在が嫌いでした。
そんな自分であっても、父のある秘策の話を聞いて、また再び赤沼琴音として蘇ることができるのではないか、と切実な期待を持ちました。しかし、その秘策が一体どういうものなのか、わたしはまったく知りませんでした。父は意図してわたしにその内容を教えなかったのだと思います。
わたしがこのことに不用意に関与しようとすれば、たちまち赤沼家の人間に試みが露見してしまう恐れがあったからです。
このようなことは実際に起こりかけました。わたしの一周忌の法事が行われた少し後のことです。わたしは、池袋駅で電車の乗り換えをしているまさにその時に、階段の下の改札口の近くで、危うく麗華と鉢合わせるところだったんです。わたしは先に気付いて、慌てて背中を向けてその場を去ったので、無事に麗華に気づかれずに済みました。(第六回参照)
ところが、恐ろしいことが起きたのは、去年の大晦日の夜のことでした。父が殺されたあの日のことです。わたしは父に会いたいと思っていました。ところが、父はしばらく連絡が取れませんでした。何かあったのかもしれない、そんな不安感が高まっていました。それに、赤沼家の人々……特に麗華……が今どうしているのかその姿を見てみたいという気持ちが、日に日に増していきました。そこで、わたしは父に内緒で、この土地に舞い戻ってきたのです。そして、危険にもあの赤沼家の邸宅の様子をこっそりと覗きに行ったのです。
それは雪の降る晩のことでした。それまではしんしんと雪が降っていましたが、わたしが到着した時、すでに雪はぴたりと降り止んでいました。わたしは、赤沼家の邸宅に自動車で近づき、車を山道の片隅に隠すように停めると、邸宅へ近づいて行きました。お城のような邸宅を見ると、なおさら、父は一体どうしてしまったのだろうと、不安な気持ちがふつふつと込み上げてくるのでした。
わたしが赤沼家の門をくぐろうとすると、不思議と門の鍵は外れていて、扉は開いていました。そして、わたしが真っ直ぐ玄関に近寄ろうとすると、玄関の明かりが煌々とともっているのが見えました。玄関に誰かいるのだろうか、とわたしは思って、見つかるのを恐れました。
そして玄関の周囲にはまだ踏み荒らされていない処女雪が綺麗に積もっているのが見えました。自分の足跡を残してしまうことが怖かったわたしは、玄関に近づくことは諦めて、入ってきた門から横並びに続いている塀の、日差しの真下の、まだ雪の余り積もっていないところだけを踏んで、北側にある玄関から、東側にある食堂の窓へとまわりこみました。
そこで、わたしは塀と窓が近づいているところから、二、三歩雪を踏み締めて、そっと窓に顔を近づいて、窓の中の食堂の様子を覗き込んだのです。
食堂のテーブルの上には、食べかけの食事と飲みかけのお酒が残されているばかりでした。その食堂の片隅にはは料理人の井川さんが、どうしたものかという表情で、呆然とテーブルの上を見下ろしていました。食堂の時計の時刻を見ると、九時二十分を指していました。わたしは赤沼家の人々が、毎年、年越しパーティーをすることを知っていたので、ここではパーティーが行われているのだとすぐに気づきました。
すると、その時でした……。
わたしがいる場所の真上の、二階の窓がぱたりと開きました。そこから顔を出したのは、淳一お兄さんでした。淳一お兄さんは、まわりを少し気にしながら窓の外を眺めていました。わたしのことは暗くて気づかなかったのでしょう。淳一お兄さんは、何かを見つけると、窓から顔を引っ込めました。しばらくすると救急車のサイレンの音がだんだんと近づいてきました。
わたしは恐ろしくなってすぐさま、裏門から外に飛び出すと、車へ駆け戻り、救急車と鉢合わせないように、山道を車で登って行きました。
そして、わたしはその翌日の夕刊で、赤沼家の事件のことを知りました。わたしは突然、唯一の理解者だった父を失いました。あまりのショックに死んでしまいたい気持ちにもなりました。それでも、隼人さんに再会できれば、また生きる希望も湧くだろうと何とか思い止まったのです。
わたしは大宮のアパートに一旦帰宅すると、事件の真相を知ろうと思って、荷物をまとめて、赤沼家の本邸の近くにあるビジネスホテルに泊まり込みました。
その後、蓮三お兄さんまで亡くなってしまったことをテレビのニュースで知りました。蓮三お兄さんの死の真相を知りたい、そう思ったわたしは金剛寺にゆきました。そして、ついに隼人さんと金剛寺の庭で鉢合わせてしまったのです……。




