60 麗華の思い出
羽黒祐介が帰った後、涙に濡れた麗華の心の中には、姉の琴音との思い出が懐かしく、そして哀しげな光景となって脳裏に蘇ってきていた。
あれは麗華がまだ高校生の頃のことであった。その頃、麗華はひどく多感な時期であった。今よりもずっと繊細な感性を持て余していて、目に映るものすべてに愛が溢れているように見える日もあれば、それはまったく偽りの姿で、空虚さが張り詰めて、寂しい感情が募って、自分という存在が嫌で仕方なくなる日もあった。
その頃、麗華は、姉の琴音のことがひどく嫌悪していた。
麗華は、母親の早苗夫人が琴音のことをよく思っていないことや、琴音が父が女中を身篭らせてしまった為に産まれてきたことなどもよく理解していた。麗華は、周囲のそうした空気感の中で、琴音に対して、ひどく汚らわしく醜い印象を抱いてしまっていたのであった。
その頃の琴音を見つめる麗華の目といったら、よほど露骨なものがあったのだろう。琴音も、麗華によく思われていないことをうすうす感じていたらしく、二人は長い間、形式的な会話のみが交すだけの関係だった。
なにか理性ではない胸の奥底から吹き出る嫌悪感が麗華の気持ちを支配していた。
(わたしは醜かった。純粋であるばかりに醜かった……)
そのことは誰にも言わなかったし、言えなかった。人に話したところで、それは琴音さんのせいではないよ、そんな感情を持つのはあなた自身がひねくれているのよ、とか、そんな無責任な説教をされるだけであることが想像できて、ひどく馬鹿馬鹿しく思えて仕方がなかったのである。そんな安い説教で気持ちを変えるほどわたしはお人好しではないし、一般論で片付けられるほど単純な問題ではない、と麗華は、自分の悩みが他人には理解できないほど高尚なものであるという孤高の意識の中で、ただ一人、うそぶかざるをえなかったのである。
そんなある日のことであった。麗華は、東京別邸の和室で、琴音が朝日の中、一輪の花をいけているのを見つけた。
それが麗華には非常に美しい光景に見えて、はたと立ち止まった。それは花が美しかったのではない。花をいけている琴音の姿が美しく思えたのだ。なぜ琴音がこれほど美しく思えたのだろう。それは琴音という自分の姉が、その一輪の花を愛でるその姿が、あまりにも哀しげに見えたからである。琴音はその一輪の花をさも愛おしそうに、そして深い深い哀しみを込めてじっと眺めていた。その花は琴音の分身のようであった。その姿からは、これまでの琴音の人生というものが不幸に包まれていたことがしみじみと感じられた。琴音は、早苗夫人に愛されず、妹からも愛されずに、ずっと孤独の淵にいたことが、麗華はこの時になって、切々と感じられてきたのである。
(わたしは姉の美しさから逃げ続けていた。姉の哀しみを発見することから目を背けていた……)
それまで麗華は、琴音といえば自分勝手な姉と決めつけていた。この家に引き取られたことを被害者ぶって、一家の一員である振りをして、本当はこの家を誰よりも呪っている人間なんだ、などとありもしない難癖をつけては、彼女に対する印象を意図的に悪くしてきたのであった。その方が麗華には都合が良かったのである。
(わたしは、自分の父親が女中を身篭らせたという事実や、赤沼家の多くの醜い部分から逃避したかっただけなんだ……)
麗華にとって琴音は、姉として受け入れる心の準備ができるまでは、決して心の中に入ってきてはいけない存在だったのだろう。
ただ、琴音が花をいける光景をふと見た瞬間に、琴音に対する麗華の印象というものががらりと変わってしまった。琴音のその哀しみは自分には想像もつかないほど深いものなのだろう、どこかで、自分は姉を排除することで、自分の心の純粋な部分が守られる気がして安心しようとしていたのだろう、そんなことに麗華は気づいて、罪悪感にひどく胸苦しくなった。
その時、琴音は、自分を見つめる麗華の存在に気づいた。その時、琴音も麗華が何を考えているのか気づいたらしかった。ただ、そのことには一切ふれなかった。ただ……。
「麗華ちゃんもお花いけてみる……?」
とぽつりときいてきた。
麗華は何か謝罪したい気持ちになったけれど、やはりそこまで正直にはなれなかった。それでも……。
「うん……」
と遠慮気味に返事をした。
琴音はそれを見てクスリと笑った。それだけで麗華は、姉に自分の全てが伝わったような気がした。麗華は、琴音と形式ではなく、心の奥底からつながったような気がした。まだ幼い頃、二人がそうして心を通わせていたように。
「そのお花、とても綺麗だね」
と麗華が言うと、琴音は曖昧に笑った。
「でも、ひとりぼっちのお花……」
「じゃあ、もう一輪、活けてあげましょう……」
そう言って麗華は笑うと、一輪の花をひょいと掴んだ。琴音はその言葉に、くすりと微笑んだ。
それからというもの、ふたりは良き姉妹になった。麗華は琴音を姉として認めることができるようになったのであった。ところがふたりが再び心を通わせるようになると、麗華は、琴音の心の底に、自分には想像もつかないほど深い哀しみが渦巻いている事実を度々発見するようになるのであった。
(お姉ちゃんは、誰よりも可哀想な存在だった……)
麗華は涙を流した。
(そのお姉ちゃんがお父様を殺したというの……?)
……麗華の瞳の中で、そして心の底で、一雫の哀しみが輝いていた。




