36 民宿の人々
ビールをあおって、ほろ酔い気分の祐介は、そろそろ風呂に入ろうかと思って、民宿の今にも壊れそうな階段を降りていった。祐介は酒に弱いので、ビールを何杯か飲んだだけでもくらくらする。
天井や床が変形しているように見える中、祐介が階段を降りてゆくと、民宿の二十歳くらいの孫娘というのが、カウンターの横の皮の破けたソファーの上に裸足であぐらをかいてスマートフォンをいじっている。おばあさんは受付の椅子に座り、壁の方を向いて、テレビの正月特番を眺めている。
「あれ、お兄さん。お風呂ですか?」
「はい。こちらで大丈夫でしょうか」
祐介は、なにが大丈夫なのかよくわからないが、寒々と続いている汚らしい廊下を指さした。
「今、他のお客さんが入っているので、もう少し後にするといいかもしれませんよ。なにしろ狭い浴室ですので……」
とおばあさんはあまり明瞭ではない声でそう言うのに加えて、大袈裟な手ぶりで状況を説明しようとする。
「そうですか。それなら後にしましょうか」
「お風呂に入る時は「入ってます」って札をドアに下ろしておくんです」
と孫娘も似たような手ぶりを交えて、状況を説明してくる。
「ああ、そうすれば中に誰かいるのが分かりますもんね」
と祐介はあまり内容のない返事をする。
「そうそう」
「しばらくここでゆっくりしていたらいいんですよ」
と孫娘が言うので、祐介は階段をまた登って部屋に戻るのも億劫なので、言われるがままにソファーに座る。正直、頭がくらくらしている。
「お兄さん、お仕事は何をされてるんですか?」
と孫娘が目の前の美男子に興味津々な様子で尋ねてくる。
「私立探偵をしています……」
普段ならこんなに正直には喋らないのであるが、酔っているせいでつい口が軽くなる。そうか、自分は私立探偵なんだな、とあらためて自覚する。
「ええっ、探偵さんなんですか。それじゃミステリー小説の名探偵みたいに事件を解決するんですか?」
探偵なんて珍しい仕事をしていると、ありとあらゆる機会にこういう妄想をされ、冗談を言われる。現在と小説は違うんだよ、と内心思いつつも愛想よく返さなければならないのだった。
「いえ、現実のお仕事は浮気調査ばかりですね」
「じゃあ今日はお仕事で来たんですか?」
「いえ、ふたりだけの社員旅行です」
と祐介はまわらない頭で誤魔化した。ふたりだけの社員旅行ってなんだろう、と祐介ははっきりしない頭で考える。
「ところで、赤沼企業グループの社長さんがお亡くなりになったそうですね」
祐介は話題を変えることにする。
「そうなんですよ。私たちもびっくりしちゃったねえ」
とおばあさんがいつの間にやら注いだ煎茶を持って歩いてくる。萩焼の湯呑みが美しい。祐介は湯呑みを手に取って一口すする。
「赤沼さんといえば、このあたりでは有名なんですか?」
「有名も有名。そりゃ、赤沼財閥って呼ばれている赤沼企業グループの社長さんでしょ。このあたりじゃお殿様ですよ」
とおばあさんはしきりに頷きながら、熱っぽく語るのだった。
「なんでも雪の中のアトリエで殺されてたんですって。お兄さん。探偵さんなら謎を解いてくださいよ!」
そう言って孫娘は一人で楽しいらしく、きゃっきゃっと笑って、祐介の腹に鋭い拳を打ち込む。
「ぐはっ。いえ、殺人事件の捜査は警察の仕事ですから……」
すると玄関の引き戸が開いて、孫娘の父親と見える角刈りの太った男性が入ってきた。
「ただいまぁ。あ、お客さん?」
「お父さん。この人、探偵なんだってー」
と孫娘が言うと、父親は感心したような表情でのそのそとソファーに近づいてくる。
「へえ。探偵さんなんですか。探偵さんがこりゃまたどうしてこんな田舎に……」
「社員旅行です」
「社員旅行って、うちはそんなおもてなしできないけれど。あ、いえ、立ち上がらなくて大丈夫です」
と言いながら正面のソファーに座り込む父親。
「やっぱり、あの赤沼さんの事件で捜査にいらっしゃったんですか……?」
興味津々たる表情で顔を覗き込んでくる父親。
「いえ、社員旅行です……」
「いえ、隠さなくて大丈夫です。あのお家はねぇ、このあたりじゃもう知らない人がいない……」
「お父さんもお付き合いがあったんですか?」
「そんなそんな……。うちなんてただの民宿ですから。でも、重五郎さんって方は、このあたりの貧乏な農家の生まれでね。このへん、知り合いは多いって話ですよ」
父親が身ぶり手ぶりを交えて、熱心に喋り出したので、孫娘はつまらなそうにスマートフォンをいじり出して、しばらくして立ち上がるとどこかに行ってしまった。




