彼女が生きる場所
「なぁ」
それは客がいなくなったので、いつもより少し早めに店を閉め、片付けをしている時のことだった。サリーナはテーブルの上に椅子を上げ、ホールの床の拭き掃除をしている。カウンターには、閉店しているにも関わらず何故か当たり前のようにコーヒーを飲んでいるハーヴェイがおり、ソフィアは台所の洗い物を終わらせたところだ。
声の主で、今日、無事店の手伝いに復帰したクレイズは手に持っていた布を棚に起き、ソフィアへと身体を向ける。呼びかけられたのが自分だとわかったソフィアは次の作業へと向けた手を止めることなく返事をした。
「なに?」
「俺、言ったよな」
「なにを?」
「お前が好きだって」
ガシャガシャッ、パリンッーー
「あ、また割った」とカウンターの方から声がしたがソフィアの耳には届いていない。ソフィアは割れた瓶を黙って見つめた後、キッとクレイズを忌々しげに見た。
「何を急に言い出すかと思えば」
「いや、だって、可笑しいだろう」
目覚めた次の日、クレイズはソフィア達の家からヘルムリクトにあるクレイズの部屋へと移った。怪我人とはいえ、その怪我はそこまで大したことではなく、クレイズが命の危機に陥った大きな原因は、体力の消耗による身体的疲労と精神的疲労、それに加え、雨に打たれたまま寒さを凌ぐこともできないボロ小屋にいた所為で風邪を引き、そのままの状態で数日いたからである。
薬で症状が軽減し、意識も回復したクレイズがずっとソフィア達の家にいるわけにはいかないという理由で、ライルやハーヴェイに強制的に移されたと言っていい。
そこまではいい。問題はその後だ。部屋に戻ったとはいえ、まだ万全ではないクレイズのためにソフィアは食事を作り届けてくれた。身の回りの世話もしてくれた。毎日部屋に来てくれるソフィアにクレイズが期待することは一つしかない。
「好きだって言ってる男の部屋に毎日のように来て、平然と帰っていくんだぞ!?」
「おい、クレイズ。君は何をはしたないことを考えてるんだ」
「その言葉、そっくりそのままお前に返すわ!」
クレイズは近くにある布を思い切りハーヴェイの顔めがけて投げつける。だが、そこは騎士である。ハーヴェイは顔色一つ変えることなく布をキャッチした。
「な、何が、言いたいの」
ソフィアの声は固い。その目は大きく揺れ、若干身を引いている。クレイズはハーヴェイの言葉を鵜呑みにしていると思い、勢いよく首を振った。
「違う。何かをして欲しいとか言ってるんじゃない。普通、いや、俺も一般的なことはわかんねぇけど……でも、好きな女が自分の事を心配してくれて、家に食事まで持ってきてくれて、世話焼いてくれたら、期待してもおかしくないと思わないか?」
「だから何を」
「いや、だから、俺の気持ちに少しは応える気になってくれたのかってことをだ!」
「…………ふえっ!?」
ポンッと破裂音が聞こえてこないのが不思議なほどに、ソフィアの顔が真っ赤に染まる。吊られてクレイズの耳も赤くなった。
「俺じゃ駄目なのか? 王宮魔術師が嫌なら辞める。きっと辞めても必要になったらセルベトに呼ばれると思うが、肩書きくらいなら捨てられる。それとも口調か? 紳士を気取った貴族みたいな口調は苦手だが、やろうと思えばやれるぞ。それともーー」
「いや、そういうのじゃなくて!」
畳み掛けてくるクレイズに待ったをかけたソフィアは、オロオロと落ち着かない視線をクレイズに向けた。
「お、王宮魔術師とかは気にしてないし、口調も別にそのままでいい」
「そうか。じゃあ何が気に入らない?」
「別に気に入らないところはない」
「じゃあーー」
「そこまでです、クレイズ様」
クレイズの問いかけにワタワタしていたソフィアを助けたのは姉であるサリーナだった。思わずソフィアはサリーナに駆け寄る。
「ちょっと落ち着いてください。ソフィアが困ってますよ」
「……悪い」
サリーナの登場で少し頭の冷えたクレイズは、ビクビクしているソフィアを見て素直に謝罪を口にした。
「クレイズ様、もう少し待ってあげてください。そんなに焦らなくてもソフィアは逃げませんよ」
「掻っ攫われるかもしれないだろ」
「それは……貴方様次第でしょう?」
にっこりと笑うサリーナにそれ以上反論はできなかった。ふぅ、と息を吐き肩の力を抜いたクレイズは、じっとソフィアを見つめる。その夜空色の瞳に囚われた瞬間、ソフィアの心臓がどくんっと跳ねた。
「前に言ってたよな。自分の使命は影として人を支える事だと。それが生きている意味だと。その使命、俺にくれないか?」
「え?」
「影として生きるのはいい。普通の生活に憧れているなら、俺がそれを叶え続ける。だから、知らない誰かのために生きるんじゃなくて、俺のために生きてくれ。お前を死なせたくない、失いたくないと思っている俺のために、生きて欲しい」
ソフィアは驚いたように僅かに目を開き、クレイズを見つめ返す。
第一印象は最悪だった。光の世界でのうのうと生きておきながら、世界を拒絶するようにやる気を感じさせないクレイズに嫌悪感すら抱いた。
それなのに、クレイズの言葉がソフィアの心に染み込んでくる。全てから距離を置き、楽だからと好んで一人を選んでいたあの頃のソフィアだったなら絶対に響くことはなかった言葉が、乾いた大地が水を吸うかの如く、易々と入り込んでくる。
「そうね……それも、悪くないかも」
ボソリと溢れたソフィアの本音は小さすぎて誰にも届かない。
「今、なんて?」
聞き返したクレイズは不安そうにしつつも、ソフィアの言葉を聞き逃さないよう真剣な眼差しをソフィアに向け、近づいてきた。そんなクレイズの眼差しから逃げるように割れた瓶へと視線を逸らしたソフィアは、瓶の破片に手を伸ばしながらボソッと呟く。
「……検討してみるって、言ったの」
「っ! そうか! いや、今はそれで十分だ。あ、それ触るな。俺がやる」
奪い取る勢いでソフィアから破片を取ったクレイズは、意気揚々と魔術で割れた瓶をあっという間に片付ける。誰がどう見ても鼻歌を歌いださんばかりに上機嫌なクレイズと、苦笑いを浮かべつつ僅かに頬を染めているソフィアをカウンター越しに眺めていたハーヴェイとサリーナはどちらからともなく溜息を落とした。
「下手すればプロポーズととられてもいいような言葉を吐いておきながら、検討する、で喜ぶとは……」
「まぁ、二人はあれくらいからでいいんじゃないですか」
恋愛に疎い二人に、これ以上甘い展開を望むのは酷というものだ。サリーナとハーヴェイもそれがわかっているからこそ、本人達には何も言わず、静かに見守っているのである。
「だが、実際のところソフィアさんはクレイズの事をどう思っているんだ?」
「それこそ野暮ってものですよ」
そう言って笑ったサリーナの笑顔があまりにも優しいものだったから、ハーヴェイは言葉を続けることもできず見惚れていた。
ハーヴェイがサリーナの手をそっと取る。
「やっぱり俺はサリーナがいい。サリーナ、俺に恋してくれないか?」
熱のこもった甘い眼差しを送ってくるハーヴェイにサリーナはふわりと花が咲いたように笑いかける。そして、思いっきりハーヴェイの手を叩いた。
「痛っ!」
「そういう事は、身の回りを綺麗に片付けてから言ってくださいね」
「え!? いや、俺には恋人なんて」
「影の情報網を甘く見ちゃ駄目ですよ。私には情報提供をしてくれる仲間がいっぱいいるんですから。言い寄ってくる女も上手くあしらえない男はお呼びじゃありません」
スタスタと歩き去っていくサリーナの背を肩を落として見つめていたハーヴェイは、近くにいたクレイズに泣きつく。
「なぁ、そっちは上手くいきそうなんだから俺の手助けをしてくれよ」
「何言ってる。俺はあいつで手一杯だ。お前は名前で呼びあえてるだろうが。それで満足しろ!」
「できるわけあるか! というか、君達の順番が可笑しいだけだろう」
「くそっ」
カウンターで言い合いをしている二人をソフィアは恥ずかしそうに、サリーナは呆れたように眺めている。
「あれで浄化の旅の英雄なんだから……」
「見えているもの全てが真実の姿とは限らない」
「ソフィアの言う通り。知らなくていいことがこの世にはたくさんあるのよね」
「そうそう。……じゃあ私、掃除も兼ねて、ちょっと花壇見てくる」
「わかったわ」
箒を手に店を出たソフィアは、ささっと店の前を掃く。目に付いた雑草を抜き取ると、立ち上がり身体を大きく伸ばした。地平線に消えかけている太陽の光が目に刺さり、ソフィアはすぅっと目を細める。
山や街、空さえも太陽がオレンジ色に染めていく。それを素直に綺麗だと思えるようになったのはいつからだったか。
「終わったか?」
クレイズが上半身だけをドアから出し、ソフィアの様子を伺ってくる。絵に描いたように美しい容姿の男が警戒心もなく子供のような振る舞いをとる姿にソフィアはふっと口元を緩めた。
「ええ、終わったわ」
「ライルさんが裏から入って来たぞ。話があるそうだが、俺も一緒に聞いていいよな?」
「まぁ、そういう約束だしね」
満足そうに頷きドアを開けたまま待っているクレイズからソフィアは視線を上に向ける。視線を晒されたクレイズは不思議そうにソフィアの視線を追って首を傾げた。
「どうした?」
「……なんでもない。それより、貴方はまずライル兄に今回のことを謝らなきゃね」
「あぁ……だな」
ライルの反応を想像して顔を歪めるクレイズを見て、ソフィアはクスッと小さく笑った。吊られるようにクレイズもふっと息を吐くように笑う。
クレイズはいつ気づくのだろうか。クレイズが気づくのが先か、ソフィアが素直になるのが先か。
店の二階にある部屋の窓に小さな植木鉢が置かれている。太陽に向かって美しく咲き誇る一輪の花は、普通の花とは違い、太陽の当たり方によって色を変え、想いを魔術に乗せてキラキラと輝いていた。
彼女は影の世界で生きている。だが、憧れるだけであった太陽の下に足を踏み出した。
不安がないわけではない。けれど、恐怖は感じていなかった。何故なら彼女は手に入れたのだ。日陰を作ってくれる、ひどく不器用で優しい存在を。
この話をもって『光に憧れ、影に生きる』を完結とさせていただきます。最後までお読みいただきありがとうございました。
書き始めてから一年八ヶ月。途中、私生活で色々あり、小説から遠ざかってしまったことで、こんなにも時間がかかってしまいました。
プロット通り進んだのはハデスト帝国編までで、最後の章は話が増えたり減ったりとしてしまいました。
ラストが特に悩みました。物足りないと思われた方、申し訳ありません! (汗
どうしても恋愛初心者の二人が素直にくっつくストーリーが思いつかず、このようなラストになってしまいました。
書き続けてもなかなかくっつかず、ダラダラ伸びてしまう(今の段階ですでにダラダラしてしまったと反省してます)と思い、二人が向かい合ったところで物語を締めさせていただきました。
もしかしたら、おまけとして書くのをやめたストーリーや他のキャラなどを書くかもしれませんが、一先ず完結をして、少し彼らを離れたところから眺めようと思います。
改めて、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
史煌




