薄れゆく中で
湿気を含んだ空気と溝の中のような不快な臭い、建物の壁は所々穴が開き、その隙間から入り込む冷たい風が容赦なく身体を刺す。身体を唯一守ってくれるのは埃っぽい布切れのみで、熱のせいか頭はぼんやりとしており、身体は動かすのが億劫なほど怠い。
上手く魔力を練ることができないのは身体が絶不調だから。何とか火は生み出せるが、肝心の燃やすものがここにはない。ずっと火を維持できるはずもなく、クレイズは自分の駄目さ加減に呆れを通り越し、途方に暮れていた。
すでにこのボロ小屋に着いて五日は経っているだろうか。正直、はっきりと思い出せない。ただ、空腹はすでに感じなくなり、何とか水分と手元にあった少量の非常食で繋いでいたが、それも尽きてしまった。
「情けねぇ……」
掠れた声しか出ず、クレイズはぐっと眉を寄せる。
全て順調なはずだった。クレイズはハデスト帝国に着いてすぐ、ライルから教えられたマークすべき人物達を調べ始めた。諜報活動が別段に得意というわけではないが、能力が適用される範囲内に対象の人物が入れば探ることができる。特に相手がコソコソと動いている時は収穫できる情報が多い。以前ソフィアと共に仕事をした事で得た知識も大いに役立った。
集めた情報をこの任務を受けている他の影のメンバーの集めた情報と照らし合わせながら計画を練っていく。そのメンバーも度々ソフィア達の店に顔を出していた客だったので気負わずにやれた。
様々な噂話を流し、時に相手の弱みを突く。元々が国のためではなく己の野心を満たしたい連中ばかりだ。その結束力など高が知れている。
元皇帝の次男がまともであったことも大きな要因だろう。戦好きで自分勝手な兄と、甘い言葉で簡単に唆される弟を持っていれば嫌でもしっかりするのかもしれない。ハデスト帝国内にいる貴族の中で、国のことを考えている真面な貴族は大抵が次男派であった。
だから、クレイズ達の掴んだ情報を少しだけ次男派貴族にリークし、彼らが動いたことでかなり数が減ったのだ。あとはその残り、反発する者の中でも大きな発言権を持っていた者達と祭り上げられていた三男の関係を決別させればいいだけだった。
まず、今の状況に焦り始めている彼らを一箇所に集める。もちろん疑心暗鬼に陥るような噂をそれぞれに流す下準備は忘れない。せめて自分だけは生き残りたい、相手を出しぬきたいという感情が能力で読み取る必要などないほどに溢れ出ていた。
案の定、心の中を覗けば、それはもう悍ましい感情が飛び交い、聞いているこちらの気分が悪くなるほどだった。
それでも聞いていなくてはいけない。人に聞かれては不味い内容を話すということもあり、彼らは密談に使うような店を利用していた。もちろん彼らの話している内容が聞こえてくるはずもない。
しかし、今回は三男にちょうどいいタイミングで彼らの会話を聞かせたかった。三男の側近の中にはすでに影のメンバーが入り込んでいる。そのメンバーに合図を出すのがクレイズの仕事だ。
胸糞悪い心の声を永遠と聞きながら、彼らが今どんな会話をしているのか想像していく。彼らの性格はこの数週間で把握済みだ。自分の事しか考えられない単細胞な彼らの言いそうな事などクレイズじゃなくても簡単に予想ができる。頭のいい奴らはすでにこの件から手を引いているのだから、ここに残っている奴はその程度なのだ。
そうやって馬鹿にしていたのが悪かったのかもしれない。あまりにも順調すぎて、浮き足立っていたと今ならはっきりとわかる。
無事、三男を接触させ、場が混乱している間にその場から去ろうとした時、クレイズは三男の護衛としていた騎士に見つかってしまったのだ。
咄嗟に顔を隠し、全速力でその場から走り去る。魔術を使って逃げれば簡単に引き離せただろう。しかし、大っぴらに魔術を使えば魔術師であることがバレてしまう。国が保護という名目で管理するほどに魔術師は貴重だ。それぞれの得意魔術、使える魔術が記録されているくらいである。だから、隠れて使うならまだしも、敵の前で堂々と使うわけにはいかなかった。
相手は騎士だ。それも武力が高いと評価されるハデスト帝国の騎士である。体力にさほど自信のない魔術師が簡単にまけるはずもない。だからといって捕まるわけにはいかなかった。クレイズが捕まれば、ティライス王国が関与していたことがバレてしまうからだ。
クレイズは騎士にバレないような些細な魔術をたくさん使い、隠れては走り隠れては走りを繰り返した。途中雨が降り出し視界が悪くなったおかげか、逃げ始めてから一日が経とうとした頃、やっと腰を下ろすことができたのが、森の中にあるこのボロ小屋だった。
このボロ小屋にたどり着いたのも決して偶然ではない。ここはソフィアとハデスト帝国で一緒にいた時、諜報活動の途中で身体を休めるのに使っていた場所の一つだった。
藪の中にあったこの小屋を見つけてきたのはソフィアだ。あの時も相当ボロボロだと感じていたが、二年以上が過ぎており、申し訳程度に屋根や壁があるくらいで小屋という表現が正しいかも微妙である。
「はっくしゅっ! ……あぁ、くそ」
ぶるっと体を震わせたクレイズは両手でローブを引き寄せるが、寒さは全く凌げない。能力をたくさん使った事による精神的疲労、一日中逃げ回っていたことによる身体的疲労、そこに逃げている際にあたった雨が加わってクレイズは数日経った今も小屋から出られずにいた。
「こんなんじゃ……」
ほら見たことか、と冷たい視線を向けるソフィアの顔が思い浮かぶ。自分で引き受けておきながら結果がこれでは怒られるかもしれないなと考え、クレイズはすぐにその考えを否定した。
「……怒る以前の問題か」
最後に会った時、ソフィアはたしかにクレイズを拒絶した。ソフィアの憧れを勝手に解釈し、任務と称してその生活を押し付け、誇りを持っているソフィアの仕事を危険な事はして欲しくないという勝手な理由で奪い取ったのだから、当然と言えば当然だ。
しかも、ソフィアが楽しそうにしている姿を間近で見たいからと王都とヘルムリクトの間に転移魔術の陣を作り、王宮魔術師の仕事と店の手伝いをしていたのだから始末に負えない。
何より、人を嫌い、関わりを絶っていた自分がこんなにも必死に動いていることにクレイズ自身、驚いている。またソフィアに拒否されるのが怖くて、ハデスト帝国に向かう前に店へ顔を出しに行くことさえできない。
思えばソフィアを意識しだしてから情けないことばかりだ。意識しだしたキッカケなど今になってはわからない。ソフィアに能力が効かないからか、弱っているところを助けられたからか、気兼ねなく言い合えるからか、料理が上手いからか。もしかしたら、遠ざけたいとクレイズが思っている影の仕事をする凛とした姿に惹かれていたのかもしれない。
はっきりとはわからない。それでも、目を離したくないと思ったのだ。
危険だとわかっていながら平然と危険に突っ込んでいくソフィア。一人を好んでいるくせに、近くにいる人を突き放せないソフィア。苦しいことも黙って飲み込むソフィア。柔らかな笑顔を浮かべ花を愛でるソフィア。どんなソフィアからも目が離せない。
それなのに、近づこうとすればするほどうまくいかない。自分が近づくほどソフィアの壁は厚くなり、ならば離れて眺めていればと思うが、それは自分が我慢ならなくて……これが恋だと言うのなら、なんて厄介なのだとクレイズは思う。
人から読み取れる感情の中でも一番と言っていいほど愚かで醜いとクレイズが思っていたものが愛だった。もちろんぬるま湯に浸かるようなじんわり温かい愛情もあった。だが、見返りを求め続ける愛、一方的な愛、執着でしかない愛、己の欲だけを満たす愛……それらはクレイズにとって理解しがたい感情で、そんなものは必要ないと思っていたのだ。
しかし、実際はどうだ。クレイズのソフィアに対して抱える感情は、まさしく自分が必要ないと思っていたものではないか。
一方的では実らない。だからといって簡単にはやめられない。相手を想えば想うほど膨らんでいく感情をうまく制御することもできず、望まぬ形で相手を傷つけていく。
いっそソフィアの心の声が聞けたら、と思うことがある。だが知ったが最後、二度と側にいる事ができない気がしてクレイズは今の状況に安堵してしまうのだ。自分の未練がましさに嫌気がさしてくる。
「それでもやっぱり、もう一度……会いた、いと……」
クレイズの意識が次第に遠のいていく。もう身体は限界に達していた。もう寒さも感じない。重くなっていく瞼に逆らうことができず、クレイズはゆっくりと瞳を閉じた。
荒かった息が小さくなるにつれ、小屋の周りで風に揺れる草の音が大きくなっていく。薄れゆく意識の中、クレイズの耳に複数の足音が聞こえてきた気がしたが、もはやクレイズに反応するだけの力は残されていなかった。




