我儘
カチャカチャと小さな音をたてながら真っ白い皿が積み重なっていく。洗った皿につく水滴を綺麗な布で拭き、積み重ねるという単純作業は頭を空っぽにするには最適だった。ソフィアは黙って皿を拭き続ける。己の胸の中で暴れる感情を鎮めるために、ただひたすら皿と向き合っていた。
しかし、ソフィアの心情を嘲笑うかのように二階から人の降りてくる気配がしてきた。一度階段の前で立ち止まったその人物は、暫くその場から動かない。再び動き始めた気配をソフィアが感じ取った時には、すでに洗い物が終了していたのだが、ソフィアは台所から出ようとはしなかった。
早くその場から立ち去ってくれないか、というソフィアの願いは叶えられず、小さな靴音が次第に近づいてくる。
「……なあ」
「……」
「おい」
「……」
「無視すんな」
入り口側に背を向けて立っていたソフィアは、ゆったりととても嫌そうに振り返った。一言も言葉を発しないソフィアだったが、表情だけでかなり怒っていることがわかる。声をかけたクレイズも、そうだろうな、と妙なところで納得していた。
「今回の仕事は俺が受ける」
「ええ」
「影のメンバーじゃない俺が出しゃばったから怒ってるのか? それともお前にとって使命である仕事を奪ったからか?」
クレイズの言葉に反応するようにソフィアはぐっと手を強く握りしめ、クレイズを睨みつける。しかし、それも長くは続かず、ソフィアは長く息を吐き出しながら肩を落とし、目の前にある調理器具の片付けを始めた。
器具のぶつかる音だけが辺りに響く。黙って待っていることに耐えきれなくなったクレイズも近くのものを片付け始めた。
二人の間に会話はない。もうクレイズはどこに何があるのか聞かなくても動けるまでに馴染んでしまった。店に出入りする他の影のメンバーも最初は警戒するようにクレイズを観察していたはずなのに、今では普通に話しかけている。もちろんクレイズは誰が影のメンバーかわかっていないで対応しているはずだ。それでも国などどうでもいいと思っているメンバーが王宮魔術師であるクレイズを受け入れたということはそういう事なのだろうとソフィアは思っているのだ。納得していないだけで。
「……ライル兄が貴方の実力を認めた。だから貴方が任務を受ける。それだけよ」
たったそれだけの事なのに、自分は何故こんなに不貞腐れているのだろう、とソフィアは自分自身に呆れていた。
「納得してる様には見えないぞ」
図星すぎてソフィアはぐっと眉間に皺を寄せる。
クレイズの実力はソフィアも認めている。ライルが言っていたように、今回のような任務を達成するのにクレイズの能力がとても有効であることも頭では理解しているのだ。
「俺はお前の実力を認めてる。お前は優秀な諜報員だ。今回の任務だってお前でも簡単にこなせるとわかってる。いや、それどころか慣れているお前の方がスムーズかもしれないな」
「ならーー」
「でも、行かせたくない。これは完全に俺の我儘だ」
本当にね、とソフィアは心の中で毒づいた。実力を認めると言いながら、影の仕事に口出ししてくるクレイズ。そのくせ任務である店を手伝っているのだから意味がわからない。
ソフィアはクレイズに振り回されてばかりだ。ハデスト帝国での時も振り回されてはいたが、今は少しだけ意味合いが違う。同じ目的を目指していたハデスト帝国の任務とは違い、今のクレイズはぐいぐいとソフィアを引っ張るだけ引っ張り、一人で突っ走っていくだけだから、クレイズの目指している目標が全くわからないのだ。
「貴方は何がしたいの?」
「俺は……」
口籠もったクレイズがソフィアを見つめてくる。夜空を溶かした瞳が僅かに揺れていた。ソフィアは作業の手を止め向き直る。今は向き合わなければいけない気がしたのだ。
揺れていた瞳がソフィアをしっかり捕らえた瞬間、クレイズは静かに口を開いた。
「俺は……お前が好きだ」
「……え?」
言葉の意味が理解できなかった。自分はなんて質問しただろうか、と焦点の合っていない疑問がソフィアの頭に浮かぶ。
いや、合っていないのはクレイズだ。そう理解する方が早かった。
「何言ってるの? 私が聞いたのはーー」
「お前が好きだ。他の事は考えるな。俺はお前が好きなんだ!」
「…………っ!」
他の事は考えるなというクレイズの言葉でやっとクレイズの言っている事がソフィアの頭に流れ込んでくる。そして言葉の意味を理解したソフィアは、ぼんっと破裂するように全身を真っ赤に染めた。
「な、な、な、にを……」
「お前の実力は認めてる。それでも好きな女が危険な仕事をしているのを黙って見てなんていられないだろう?」
「そんなこと」
「いいや、いられないんだ。そういうものなんだ。お前はまだ人を好きになった事がないからわからないだけだ」
断定するようなクレイズの台詞に恥ずかしさで染まった頬をソフィアは若干膨らまし、ムッとした表情を浮かべた。
「そんな顔しても逆効果なだけだぞ。……本当はお前に影の仕事を辞めてもらいたい。太陽の下で大好きな花を育てながら生活してほしい。それがお前の望みだろ?」
ソフィアはハッとしたようにクレイズを見返した。
「ハデスト帝国での様子を見てて思ったんだ。市場を眩しそうに見つめて、楽しそうに屋敷で働いて、劇に魅入って。こんな生活に憧れてるんだなって思った。だからセルベトに頼んだんだ。お前達に普通の生活をさせたいって。きっと任務としてなら受け入れてくれるだろうからって」
「そんなの!」
「あぁ、わかってる。お前達が喜んでくれるなんて思ってない。全部俺の我儘だ」
喜ぶはずがない。確かにソフィアは今の生活が楽しい。こんな生活に憧れていた。それがクレイズにバレていたのは恥ずかしい事だが、事実ではある。
だけど、そんな生活を与えられて手放しで喜べるほどおめでたい頭はしていなかった。
「……って」
「俺は王宮魔術師だけど、特異体質者でもある」
「……行って」
「必ず特異体質者も生きやすい世界にしてみせる。だから」
「出て行って!」
裏口のドアを指し示しソフィアは声を張り上げた。もうクレイズとソフィアの目が合うことはない。
クレイズは黙ってソフィアの横を通り過ぎ、裏口から出て行った。
パタンとドアの閉まる音が響く。ソフィアはその場に力なくしゃがみこんだ。
「なんでよ……なんで」
ポタリポタリと生温かい雫が服を濡らす。じわぁっと広がっていく染みを見つめながら、ソフィアは同じ言葉を繰り返した。




