閑話 使い走り
本の主は誰でしょう。
コンコン、と控えめなノック音が鳴る。既に外は真っ暗で、殆どの人が深い眠りに落ちているような時間帯だ。
コンコンコン、と先ほどよりも幾分強めにドアが叩かれた。部屋の主からの返答はない。
コンコンコンコンコンコン……もはや遠慮の欠片もなく、凄まじ連打が繰り出される。部屋の主だけでなく、周りの部屋の住人にもいい迷惑だろう。
やっと部屋の中から人の動く気配がした。ノックを止め、ドアの鍵が外されるのを待つ。しかし、待っても待ってもドアに近づいてくる様子はない。堪らず男は声をかけた。
「おい、起きてるのは窓からの明かりで確認済みだ。早く開けてくれ」
少しの沈黙の後、部屋の主は諦めたようにドアに近づいてくる。ガチャッと鍵を開ける音がして、ゆっくりとドアが開かれる。だが、開いたのは数センチだけ。とてもじゃないが入れない。
「早くしてくれ」
「……こんな時間に何の用だ」
ドアの隙間から外の景色をそのまま取り込んだかのような澄んだ黒い瞳が男を睨みつけた。
「まあまあ。まずは中に入れてくれよ」
そう言うと男、ハーヴェイはドアに手をかけ思い切り引いた。ドアノブを掴んでいたクレイズが引っ張られるようにして転がり出てくる。
魔術師が力で騎士に張り合うなんて百年早い。不機嫌さを隠しもしないクレイズに怖気づく様子もなく、ハーヴェイはそのまま部屋の中に入っていった。
部屋に入ってすぐ、ハーヴェイは部屋全体を見渡すと「想像以上だ」と言葉を漏らす。そこは壁一面が本という圧巻な光景が広がっていた。
「王宮に与えられた部屋を出たとは聞いてたが、まさかヘルムリクトに移り住むとはな」
「侯爵やヘルムリクトの魔術師達は大歓迎だったぞ」
「そりゃそうだろう」
国一番の実力者が移り住んでくれるのだ。国境を守る上でもこれ以上心強い味方はいないだろう。現にクレイズはヘルムリクトに配属された魔術師達が住む屋敷の中で一番いい部屋を貸し与えられている。
「しかし、よく陛下やセルベト様が許可したな」
「あぁ、それは王都とヘルムリクトを繋ぐ転移装置を作ったからだ。まぁ、俺しか使えないけどな」
「それ、許可とる前に作っただろう」
「……」
これにはハーヴェイも苦笑いするしかない。しかし、内心羨ましいとも思った。
王都にいるハーヴェイは浄化の旅に同行した騎士として一気に評価が上がり、誰も放っておいてはくれないような存在になってしまった。正直、特異体質であるハーヴェイを気味悪がったり馬鹿にしていた連中までもが手のひらを返したように群がってきて気分が悪い。
だが、クレイズのように全てを蹴散らしヘルムリクトに来るような真似をハーヴェイは簡単に選べなかった。何故ならハーヴェイは第二王子であるクロードを護ると決めたからだ。
それが騎士として生きるハーヴェイの生き甲斐であり、使命である。
「それで、こんな遅い時間にお前は何をしに来た」
本題に戻すようにクレイズがハーヴェイに問いかける。ハーヴェイはあぁぁ、やら、うぅぅ、やら言葉にならない声をあげながら天井までうず高く積まれた本を眺めていた。
「はっきり言え」
苛立ちがピークにきたのかクレイズはどかりと近くにあった椅子に座ると、足を組み、ハーヴェイを威圧する。
「魔術師が取り扱う植物の本ってあるか? クレイズの部屋にならありそうだと思ったんだが」
「あ? そんなもんお前に必要か? それに図書館に行けばすぐ見つかりそうなもんだろう」
「今すぐ欲しいんだ。なるべく早く。それにいつ読むかもわからないから長期間貸して欲しい。図書館から借りたら返却期限があるだろう?」
「だから何に使うんだ」
そう言いながらクレイズが指先をひょっと滑らせると、一冊の本が本棚から飛び出しグレイズの元へと飛んで来た。クレイズが手にしたのは『魔術師による、魔術師のための植物図鑑』という本だ。
「おぉ、助かるよ」
ハーヴェイはにこやかな笑顔を浮かべその本を受け取ろうとする。しかし、クレイズは取られる寸前でハーヴェイの手をかわし、ハーヴェイに鋭い視線を向けた。
「質問に答えろ。これは俺の本だ。何に使うか説明を受ける権利がある」
「別に大したことじゃない。ちょっと女性に貸すだけだ」
「お前なぁ……」
また始まったか、とクレイズは呆れたようにため息を吐いた。
ハーヴェイは女好きとは少し違う。もちろん女性は好きだろうが、自分から寄っていくことはなく、来る者拒まず去る者追わずというスタイルだ。ただ、勝手に女性が寄ってくるため常に女性が周りにいるだけである。
はっきり言って拒めばいいだけだろう、とクレイズは思っていた。しかし、貴族社会というものはそう簡単ではないらしい。
女性が男性に言いよることがはしたない事とされている社会で、自分より地位のある女性を跳ね除けるということは恥をかかせることになる。男性がうまくフォローしてあげなければいけないのだ。上下関係が厳しい上に、騎士道という精神を重要視している騎士にとっては問題を回避するだけでも一苦労だろう。
特別は作らない。
それが一番穏便に事を済ませる方法であり、ハーヴェイのように立っているだけで女性が寄ってくる者にとっては、来るもの拒まず去る者追わず、皆に笑顔を振りまいておくという事こそが世間をくぐり抜ける秘訣と言えるのかもしれない。
「心配する必要はない。第一、これはクレイズ、君にとってもそう悪い話じゃない」
「俺?」
「そうだ」
しばし黙ったまま考え込んでいたクレイズはある事を思い出し、勢いよく顔を上げた。若干喜びが混じるそのクレイズの表情を見てハーヴェイは笑みを深める。
「まさかソフィーー」
「あー、それ以上は言うな。聞くな。俺が話せることは一つもないから」
手のひらを突き出しクレイズの言葉を遮ったハーヴェイは小さく首を横に振った。
「え、あ、じ、じゃあ、その本を頼んだのはサリーナか?」
「んー、まあ」
「それじゃあーー」
「だから聞くなって。気になるのはよくわかるけどな。それで、貸すのか? 貸さないのか?」
もう夜もだいぶ遅い。この後王都に帰らなければいけないハーヴェイは急かすように手の平を返した。その仕草だけでも答えはわかりきっているようである。
案の定、クレイズは黙ってハーヴェイの手に本を置いた。
「それじゃ借りてく。返すのは……君次第かな」
急いでサリーナの部屋の窓の外に本を置きに行かなければとハーヴェイは踵を返し若干駆け足でドアへと近づく。そのハーヴェイの背に困惑した様子のクレイズの声がかかった。
「俺のために来てくれたのか?」
クレイズがそう思うのも無理はない。
しかし、振り返ったハーヴェイは誰もが見惚れる程の美しい笑みでクレイズの質問を切り捨てた。
「もちろん、俺のためだ。あぁ、クレイズももっと頑張ってくれよ。君が頑張るとサリーナの機嫌が良くなる。そうすると、俺はコーヒーを淹れてもらえる」
「お前、それって……」
「それじゃあ、急ぐから」
軽く手を振って部屋を出て行ったハーヴェイを見送ったクレイズは盛大なため息を吐きつつ、口元を緩めた。
「……結局ただの使い走りだろ」
まぁ、みんな得をするのだからいいか、とクレイズは深く考えることをやめ、そう思う事にした。実際には、ソフィアだけがなんの得もしていないのだが、そこにクレイズは気づかない。




