気分の良い夜
コンコンと軽いノック音と共にドアをゆっくりと開く。
「ごめん、ソフィア。夕食の時渡した資料抜けちゃってて、これも……あ、ごめん」
ソフィアの部屋のドアを入室の許可を得る前に開けたサリーナは、部屋の真ん中に置かれているテーブルの脇で小さなスコップ片手に固まっているソフィアを見て素直に謝罪の言葉を告げた。
ソフィアの前には土の入った小さな鉢があり、その横には宝石のように美しい小さくて丸いものが一つ転がっている。
「今日の買い物で新しい種を買ってきたの?」
「え、あ、うん……まぁ、そんなかんじかな」
ソフィアは歯切れの悪い返事を返しながら、まるでサリーナから隠すように美しい種を鉢の中に埋めた。その慌てた様子に若干苦笑いを浮かべつつ、サリーナは「そっか。綺麗な花が咲くといいね」とあえて深く追求しなかった。
「この資料、ここに置いておくね。後で目を通しておいて」
「う、うん。わかった。ありがとう」
サリーナはテーブルの端に資料を置いて踵を返す。ドアに手をかけ部屋を出る間際、サリーナはふっと足を止めた。見送っていたソフィアが不思議そうに首を僅かにかしげる。
「今日、楽しめた?」
これくらいはいいだろうとサリーナは思い切って声をかけた。しかし、ソフィアからの返答はない。それだけでサリーナは満足だった。
「おやすみなさい、ソフィア」
「……おやすみ」
サリーナはそのまま部屋を出る。そして、耐えきれず小さく吹き出すと慌てて口を手で覆った。
ソフィアは良くも悪くも素直だ。嫌な事であれば躊躇なく跳ね除け、それによって孤独になっても気にする様子を見せることはない。サリーナなどソフィアにとって身内的存在に対してならある程度我慢もするだろうが、その他の者に対してはあまり興味がないのか容赦がない。
それが社交面においてマイナスになることはこの際置いておこう。苦手分野は仮面を被るのが得意なサリーナが請負えばいい話だ。
だが、だからこそ今のソフィアとクレイズの関係が異質なものであることをソフィアは理解しているのだろうか、とサリーナは思う。
どちらかといえば一緒に仕事をした事があるとはいえ、クレイズはソフィアにとって容赦しなくていい他人だ。今までのソフィアなら纏わり付いてくる(知らない者にはそう見えないが、知ってる者からはそう見えなくもない)クレイズを遠慮なく跳ね除けているだろう。
けれどソフィアは跳ね除けるどころか仕事を教え、あまつさえ一緒に買い物にまで行っている。どこかどう扱えばいいのか困っている様にも見えるが、ソフィアを困らせている時点でクレイズは凄いのだとサリーナは感心していた。
そして先ほどのサリーナの質問に対してソフィアの返答がなかったのが決定的だ。普通ならば「楽しくなんかないっ!」と食い気味に返答してきてもいいところである。それなのにソフィアは答えに詰まったのだ。本人に自覚があるとは思えないが、これはクレイズにとって朗報だろう。
「クレイズ様、頑張ってるものね」
サリーナは決してクレイズの味方ではない。けれど、ソフィアの僅かな変化はいい事だと思っている。少しお節介かもしれないけれど、特異体質者をありのまま受け止めてくれる人はそういない。だから人付き合いが苦手というだけで切り捨てるのはもったいない。
ソフィアがクレイズを受け入れないのならそれでいい。それでも、向き合うということが今のソフィアには必要なのだ。
「そう簡単なことじゃないけど。あの子、素直だけど、不器用だから」
サリーナからクスリと再び笑いが溢れる。なんだかソフィアが愛おしくてたまらなくなった。ほわんと心が温かくなっていくのを感じながらサリーナは一階へと降りていく。
しかし、次第にサリーナの表情は険しくなっていった。
「なにを勝手に入っているのですか。不法侵入で騎士を呼びますよ?」
「いやぁ、俺も一応騎士なんだけど」
「尚更問題です」
店舗のカウンター席に当たり前のように座っていたハーヴェイをサリーナは遠慮なく睨みつけた。ハーヴェイは男らしいキリッとした眉を若干下げつつ店のドアを親指で指し示す。
「ドアの鍵が開いていた。女性二人なのに不用心だ」
「確かにそうですね。こうやって勝手に入ってくる人がいるかもしれませんし」
「ははは……まぁ、間違ってはいないけど」
何をしに来たんだとサリーナの表情がより厳しくなる。サリーナはハーヴェイの前でいい子の仮面をかぶることをやめている。というか、かぶれなくなった。
そのキッカケが何だったのか。今となってははっきりとしない。ただ浄化の旅を始めた頃から距離感が近かった。物理的な意味ではない。他の人との接し方を見てもハーヴェイの人との距離が近いとは思わなかった。どちらかといえば、相手に気づかれないほどの薄く透明な壁を作っているようにさえ感じられた。
それなのにサリーナに対してだけは異様に近いのだ。わかっていてやっているのだと気づくと余計腹が立つ。ハーヴェイが口説くような台詞を吐いてくるようになった辺りには我慢ができなくなりサリーナはブチ切れ、それから仮面をかぶることがなくなった。
「それで、何かご用ですか?」
「そりゃもちろん、サリーナの顔をーー」
「お帰りください」
「ほんと冷たいな」
すでに慣れきっているのかハーヴェイは堪えた様子もなく笑うだけだ。ハーヴェイの見た目は凛々しい顔立ちに鍛えられた身体の騎士そのものであるが、常に笑顔を浮かべているため近寄りがたい雰囲気は一切ない。それどころか、仕事中に浮かべる真剣な顔が普段との違いのせいかより勇ましく見え、そのギャップが彼の人気の一つにさえなっている。
サリーナにとって笑顔は仮面の一つだ。それがハーヴェイにとっても同じ事なのだと気がついたのは浄化の旅が終わりに近づいてきた頃だった。
「……ここは酒屋じゃないですからコーヒーくらいしかないですよ」
ハーヴェイが僅かに目を見開く。いつも軽く追い払われているからだろう。例えヘルムリクトが王都からかなり離れた距離にあろうと能力を使って飛んでくるハーヴェイにサリーナは一切遠慮などしてこなかった。
サリーナは若干居心地が悪そうに目をそらす。
「今日はちょっと気分がいいんです」
「へぇ……ということはクレイズが頑張ったって事かな。俺も助言した甲斐があったよ」
「その助言が活かせる内容かどうか疑問ですけどね」
「確かに。俺も最近自信をなくしてる」
目の前でコーヒーを落とすサリーナを頬杖をしながら眺めていたハーヴェイは小さく溜息をついた。
暫しの間、静寂が二人を包み込む。ハーヴェイは黙ってサリーナの動きを見つめ、サリーナは気にすることもなく慣れた手つきで準備をしていた。
「どうぞ」
「ありがとう。……うん、いい香りだ」
ハーヴェイは差し出されたコーヒーの香りを楽しむ姿だけでも様になる。一瞬その姿に目を奪われたサリーナはふっと我にかえり、何事もなかったように片付けを始めた。
「サリーナの機嫌がいいとコーヒーにありつけるのか。これはクレイズにもっと頑張ってもらわないとな」
「そうですね。ただ、もちろんお代はいただきますよ」
「喜んで」
自分で勧めておいて本気でお代をとろうと思っていなかったサリーナは、あまりにもハーヴェイが嬉しそうに答えるものだから一瞬固まるも、可笑しくなって小さく笑いを零した。
「そうだ。今日のお代はいりません」
「ん?」
「その代わり、探して持ってきてほしい物があるんです。出来れば早めに。お願いできますか?」
「?」
不思議そうに首をひねるハーヴェイだったが、サリーナのお願いを聞いていくにしたがってニヤリと悪戯を思いついた子供のような表情に変わっていく。
「またコーヒーが飲めるといいな」
「ふふふ、それはどうでしょうね」
「それじゃあ、善は急げだ!」
そう言うとハーヴェイは残りのコーヒーをくいっと飲み干し、満面の笑みで別れの挨拶をすると音もなく店を出ていった。




